第2話:焦がし醤油と豚汁の洗礼
ガラガラ、ピシャリと、建て付けの悪い木製サッシの引き戸が、乱暴な手つきで閉ざされた。
途端に、外の騒々しい音――けたたましい軽三輪のエンジン音や、スピーカーから垂れ流される万博音頭の陽気な歌声――が、膜を一枚隔てたようにくぐもった。
結衣は、薄暗い土間に立ち尽くしていた。
足元は叩き固められた三和土で、ところどころがひび割れ、長年の油と煤が染み付いて黒光りしている。
空気の密度が、外とはまるで違っていた。
古い木材が吸い込んできた湿気。換気扇のダクト周辺にこびりついた動物性の脂の匂い。微かに鼻をくすぐる焦げた醤油の芳香。そして、長年ここで人間が暮らし、飯を食い、汗を流してきた証のような、泥臭くも濃密な生活の匂い。
令和のオフィスにあった、除菌スプレーとオゾン脱臭機で完全に無機質化された空気とは、対極にある空間だった。
「おい、小娘。いつまで突っ立ってんだ」
前を歩いていた老人が、振り返りもせずに言った。
作務衣の背中は丸まっているが、肩幅は広く、どこか巌のような頑丈さを漂わせている。老人は土間と厨房を隔てる板戸を足先で押し開けると、すぐ脇の洗い場からブリキのたらいと、使い古して雑巾のようにクタクタになった手ぬぐいを放り投げてよこした。
バシャリ、とたらいの底に溜まっていた水が跳ね、結衣の泥だらけのつま先を濡らす。
「井戸水だ。蛇口をひねりゃ幾らでも出る。手足の泥を落とせ。ウチの敷居をドブの足で跨がれたら、商売上がったりだ」
「あ……はい、すみません……」
結衣は言われるがまま、たらいの前に膝をついた。
真鍮の蛇口をひねると、ゴボゴボと空気を噛むような音を立てて、勢いよく水が噴き出した。
冷たい。
思わず息を呑むほどに澄み切った冷水が、泥と血で汚れた両手を洗い流していく。
令和のオフィスビルでは、ぬるま湯が出るのが当たり前だった。センサーに手をかざせば、決まった温度の水が、決まった量だけ静かに流れる。そんな清潔で守られた世界から、自分は本当に切り離されてしまったのだという実感が、手の甲を刺す水温の冷たさとともに、じわりと骨の髄まで染み渡っていった。
手ぬぐいで泥を拭い去り、恐る恐る膝の擦り傷を押さえる。幸い、皮が剥けた程度で深い傷ではなかった。
顔を上げると、老人はすでに厨房の中に入り、結衣のことなど視界から消え去ったかのように背を向けていた。
「あの……」
結衣が控えめに声をかけるが、返事はない。
老人は黙々と、細身の研ぎ澄まされた包丁を手に取り、まな板の前に立っていた。
トントントン、と心地よいリズムが店内に響き渡る。
淀みのない、正確無比な刃の動き。切られているのは大根と人参、それに牛蒡のようだった。皮を剥く手つき、乱切りにする角度、包丁が木肌を叩く乾いた音。そのどれ一つを取っても、老人が何十年もの間、この場所で包丁を振るい続けてきた本物の料理人であることを雄弁に物語っていた。
カチリ、と鈍い金属音が響く。
老人が古いガスコンロのツマミを回すと、ボッと青い炎が立ち上がった。
年季の入った黒光りする鉄鍋が火にかけられる。
ラードが一筋投入され、ジュウと甲高い音を立てて溶けていく。そこへ放り込まれたのは、薄切りの豚バラ肉だった。肉の焼ける香ばしい匂いが立ち上り、次いで乱切りにされた根菜たちが一気に投入される。
ジャアアアッ――!
激しい炒め音とともに、野菜の青臭い水分が甘やかな湯気へと変わっていく。
老人は無言のまま、平杓子で鍋の中をあおり、手早く具材に油をまとわせていく。
そして、傍らに置かれていた真鍮の寸胴鍋から、黄金色に透き通った出汁を柄杓ですくい、一気に鉄鍋へと注ぎ入れた。
ジュワッ、と巨大な湯気が立ち上り、老人の白い頭髪を包み込む。
結衣はその動きから、目を離すことができなかった。
無駄がない。
一切の虚飾がなく、ただ「美味いものを作る」という一点のためだけに極限まで洗練された、職人の身体言語。
画面の中でピクセルを動かし、クライアントの機嫌を取るためだけに表面を飾り立てていた自分の仕事とは、根本的に違う世界の営みがそこにあった。
「おい」
突然、低くだみ声が飛んできた。
老人が、首だけをこちらへ向けて結衣を睨みつけていた。
「そこに突っ立ってると埃が舞う。小上がりに上がってろ」
「あ……はいっ」
結衣は慌てて靴を脱ぎ、土間の脇にある四畳半ほどの小上がりに腰を下ろした。
畳は擦り切れて黄色く変色し、座布団も綿がへたってペラペラだったが、泥だらけの路地を彷徨っていた身には、信じられないほど温かく感じられた。
座卓は、長年の拭き掃除で角が丸くなった欅の一枚板。木目の隙間に染み込んだ醤油の輪染みが、この店が重ねてきた年月を物語っている。
厨房からは、火の燃える音と、グツグツと何かが煮立つ重い音が響き続けていた。
やがて、パチパチと炭の爆ぜるような音が混ざり始める。
魚焼きの金網に火が当てられ、一切れの魚が乗せられたようだった。じわじわと脂が滲み出し、炭火に落ちて白い煙を上げる。魚の皮が焦げる、芳ばしい匂いが漂ってくる。
結衣の喉が、無意識にゴクリと鳴った。
そういえば――自分は最後にまともな食事を摂ったのはいつだっただろうか。
昨日か、一昨日か。
締め切りに追われ、自席で冷めきったコンビニのパサパサのおにぎりを、味も感じずに胃に流し込んだ記憶しかない。水分代わりに飲んでいたのは、胃を痛めつけるだけのブラックコーヒーと、合成甘味料の味が舌に残るエナジードリンク。
お腹が空いているのかどうかすら、もう麻痺してわからなくなっていたはずだった。
なのに、この空間に満ちる匂いは、結衣の奥深くに眠っていた原始的な飢餓感を、容赦なく揺り起こしてくる。
ぐう、と情けない音が腹の奥から鳴り響いた。
結衣が慌てて腹を押さえた時、厨房の板戸がギィと開いた。
「ほらよ」
ドン、と鈍い音を立てて、木製のお盆が結衣の目の前の座卓に置かれた。
結衣は目を見張った。
そこに並んでいたのは、決して高級なコース料理でも、華やかな洋食でもなかった。
ごくごくありふれた、日本の、昭和の朝の飯。
だが、その放つ存在感に、結衣は息を呑んだ。
まず目に飛び込んできたのは、陶器の深い茶碗に山盛りにされた白飯だった。
羽釜で炊き上げられたばかりなのだろう。米粒の一つ一つが欠けることなくピンと立ち、真珠のように艶やかな光を放っている。立ち上る真っ白な湯気からは、穀物本来の力強い甘い香りが溢れ出していた。
その隣には、大きめの椀に並々と注がれた汁物。
先ほど老人が手際よく火にかけていた、豚汁だった。
表面には豚肉から溶け出した澄んだ脂の玉がキラキラと浮かび、青ネギの鮮やかな緑が散らされている。熱い汁の底からは、大根や牛蒡がこれでもかと顔を覗かせていた。そして何より、味噌の芳香の奥に、ほんの少し香ばしい焦がし醤油の匂いが仕込まれていた。
小皿には、炭火で皮目をパリッと焼き上げられた、分厚い紅鮭の塩焼き。身はしっとりと紅く、端の脂がまだパチパチと小さな泡を立てている。
そして、小さな小鉢に割り入れられた、真新しい生卵。
黄身は驚くほどこんもりと盛り上がり、指でつまめそうなほどの弾力を湛えていた。
「……これ……」
「見りゃわかるだろ。飯だ」
老人は結衣の向かいに腰を下ろすこともせず、腕組みをしたまま立った姿勢で見下ろしてきた。
「ウチの賄い(まかない)の残りだ。捨てるのも勿体ねえからな。食うなら食え」
「でも、私……お金も持ってないですし、見ず知らずの……」
「金なら取らねえよ。ドブで野垂れ死にされたら、この初音銀座の連中に『源さんが見殺しにした』って噂を立てられる。それが癪に障るだけだ」
老人はそう吐き捨てると、プイと横を向いた。
「さっさと食え。箸を動かさねえなら、今すぐ生ゴミのバケツにぶちまけるぞ」
脅すような口調だったが、その瞳の奥には、飢えた野良犬を見つめるような、微かな苛立ちと、それ以上の不器用な気遣いが滲んでいた。
「……いただきます」
結衣は震える手で、塗り箸を取り上げた。
指先が微かに震えていた。
まずは、両手で豚汁の椀を持ち上げる。
ずっしりとした重み。漆塗りの椀を通して、熱が手のひらにじんわりと伝わってくる。冷え切っていた指先が、それだけで解けていくようだった。
ふう、と息を吹きかけ、立ち上る湯気を割りながら、汁を一口すする。
「っ…………!」
電撃が走ったような衝撃が、結衣の舌先から脳天へと突き抜けた。
美味い。
そんな陳腐な言葉では、とても表現しきれなかった。
鰹節と昆布で極限まで丁寧に引かれた出汁の重厚な旨味が、まず口いっぱいに広がる。化学調味料のトゲトゲした不自然な味付けなど微塵もない。
そこへ、じっくり炒められた豚バラ肉の甘いコクと、根菜から溶け出した滋味深い甘みが重なり合ってくる。赤味噌と白味噌を絶妙な配合で合わせた味噌の塩気、そして最後に鼻を抜ける、隠し味の焦がし醤油の香ばしさ。
熱い液体が喉を通り、食道を通って、冷え切っていた胃の腑へと落ちていく。
ジュウ、と音を立てて、止まっていた内臓の歯車が回り出すような感覚。
「あ……っ、あ……」
声にならない吐息が漏れた。
結衣は夢中で箸を動かした。
汁の底からすくい上げた大根を口に運ぶ。
前歯を当てるだけで、抵抗なくホロリと崩れた。出汁と豚の旨味を芯まで吸い込んだ大根から、熱いスープがジュワッと口内に溢れ出す。牛蒡は野性味あふれる土の香りを残し、豚肉は脂身まで甘く、噛むほどに旨味が滲み出てくる。
身体が、細胞が、悲鳴を上げてこの栄養を求めていた。
結衣は茶碗を抱え、炊きたての白飯に箸を突き立てた。
一塊を口に放り込む。
ふっくらとして、驚くほどみずみずしい。
噛みしめるたびに、米の持つ自然な糖分が口いっぱいに広がる。コンビニのおにぎりのような、油でコーティングされた冷たい米ではない。太陽の光と豊かな水を吸って育った穀物の、圧倒的な生命力そのものの味だった。
続いて、鮭の身を箸で崩す。
パリッと焼き上げられた皮の下から、湯気とともに鮮やかな紅色の身がほぐれる。
強めの塩気が、鮭の濃厚な脂の甘みを引き立てている。それを口に放り込み、すかさず白飯をかき込む。
至福。
塩気、油、米の甘み。それらが口の中で渾然一体となり、味蕾のすべてを歓喜で震わせる。
止まらなかった。
結衣は我を忘れていた。
小鉢の生卵に、卓上にあった濃口醤油を一筋垂らし、箸で手早く溶きほぐす。
黄金色の液を、山盛りの白飯の頂点から一気に回しかけた。
ツヤツヤとした卵液が米粒の隙間へと流れ込み、白飯を黄金色に染め上げていく。
茶碗に口をつけ、箸をかき鳴らすようにして、卵かけご飯を胃袋へと流し込む。
濃厚な黄身のコク。醤油のキレ。温かい米の熱でほんの少しだけとろみを増した卵が、喉を滑り落ちていく。
そこへ、再び熱い豚汁を流し込む。
(……あたたかい……)
胃袋が熱い。
血が巡る。
指先まで、急速に体温が戻っていく。
それと同時に、胸の奥底に澱のように溜まっていたものが、熱い波に押し流されるようにして込み上げてきた。
令和のあのオフィス。
誰の顔も見ず、ディスプレイの光だけを見つめていた日々。
徹夜が続いても、誰も「大丈夫か」と声をかけてはくれなかった。チャットの文面はどこまでも礼儀正しく、どこまでも冷徹で、少しでもミスをすれば容赦のない叱責が飛んできた。
納期に追われ、数字に追われ、自分の存在価値を証明するために、すり減らしてきた心と体。
コンビニのプラスチック容器に入った飯を、作業しながら流し込むのが当たり前だった。
食事とは、ただ活動を続けるための「燃料補給」でしかなかった。
なのに――。
この見知らぬ老人が作った飯は、どうしてこんなにも、胸を締め付けるのだろう。
ボロボロと、大粒の涙が目から溢れ出した。
一度流れ出すと、もう止まらなかった。
頬を伝い、顎から滴り落ち、卵かけご飯の上にポタリと落ちる。
「う……っ、ひぐっ……」
鼻水をすすり、喉を詰まらせながら、それでも結衣は箸を止めなかった。
止めてしまえば、この温もりが消えてしまうような気がした。
泣きながら、鮭を食らい、豚汁を啜り、米粒を最後の一粒まで箸で拾い集めて口に放り込む。
「……おいおい」
腕組みをして見ていた老人が、心底呆れたような声を漏らした。
「泣きながら飯食う奴があるかよ。行儀が悪ィ」
「だっ……だって……っ、おいし、いです……! こんなの……こんなに温かいご飯……わたし、ずっと……っ」
言葉にならなかった。
しゃくりあげながら、空になった茶碗と椀を座卓に置く。
きれいに平らげられた器を見て、老人はフンと鼻を鳴らした。
「当たり前だ。ウチの出汁は毎朝四時から火ィ入れてんだ。そこらの立ち食い蕎麦屋のペラペラな味と一緒にすんじゃねえよ」
毒づく言葉とは裏腹に、老人の口元は、ほんのわずかに緩んでいた。
完食された器を見る料理人の目は、どこまでも誇らしげで、温かかった。
結衣は鼻をすすり、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
「……ごちそうさまでした。本当に……ありがとうございました」
深々と、頭を下げる。
畳に額がつきそうなほど深く曲げられた結衣の背中を、老人は黙って見下ろしていた。
やがて、老人はポケットから灰皿と煙草を取り出し、マッチを擦った。
シュッとリンの匂いが立ち、紫色の煙が立ち上る。
「……食ったら少しは人心地がついたか」
「はい……生き返りました」
「なら、さっさと自分の家に帰りな。親が心配してんだろ」
「あ……」
現実が、冷水を浴びせかけるようにして結衣の脳裏に甦った。
家。
帰るべき場所。
そんなものは、ここにはないのだ。
結衣が言葉に詰まり、再び顔色を青くした、その時だった。
ガラガラガラッ――!!
勝手口の引き戸が、さっきの老人よりも遥かに乱暴な勢いで跳ね開けられた。
「源さん! 源さんいるかい!?」
鼓膜を突き破らんばかりの、強烈な胴声。
土間に踏み込んできたのは、頭に豆絞りの手ぬぐいを巻き、色褪せた紺色の前掛けを締めた、恰幅のいい中年女性だった。
年齢は五十代後半といったところか。日に焼けた赤ら顔に、太い眉と鋭い目つき。手には、泥のついた立派な白菜を二束、まるで薪のように小脇に抱えている。
「なんだいトミ、騒々しいな。まだ仕込み中だぞ」
老人が煙草をくわえたまま、眉をひそめて煙を吐き出す。
トミと呼ばれた女性――向かいの青果店「八百杉」の女将、杉本トミは、源三の小言など微塵も気に留める様子もなく、土間にドカドカと踏み込んできた。
「仕込み中もへちまもあるかい! 表で近所連中が噂してんだよ! 源さんの店の前で、若い娘がドブに頭から突っ込んで野垂れ死んでるってさ! まさかアンタ、年甲斐もなく若い娘を連れ込んで悪さしてんじゃないだろうね――って、あんらあ!?」
トミの視線が、小上がりに座る結衣に突き刺さった。
泥を落としたとはいえ、着ている服は濡れてシワだらけ、目の周りを真っ赤にして鼻をぐずらせている見知らぬ娘。
「ちょっと源さん! 本当に若い娘がいるじゃないかい! 誰だいこの子! 見かけない顔だねえ、どこの工場の工員さんだい!?」
トミは白菜を土間の台に放り出すと、結衣の目の前までズカズカと詰め寄ってきた。
近い。顔の距離が信じられないほど近い。
相手のパーソナルスペースなどという概念は、この昭和の下町には存在しないらしかった。トミは結衣の顔を左右からまじまじと覗き込み、手首を掴んで引き上げた。
「やだ、手足がこんなに冷たくて! 顔色も真っ青じゃないか! おい娘さん、名前は!? どっから来たんだい!? 家出かい? それとも悪い男に騙されて追われてるのかい!?」
「えっ、あ、あの……! 私、は……」
機関銃のような問い詰めに、結衣の思考回路は完全にパンクした。
令和の人間関係では絶対にあり得ない、圧倒的な距離の近さと、土足で踏み込んでくるような過剰なおせっかい。
「おいトミ、やめろ。質問攻めにしてどうすんだ」
源三が煙草をもみ消し、助け舟を出した。
「行き倒れてたのを拾って、残りの飯を食わせただけだ。口もきけねえくらい参ってやがったんだよ」
「なんだって!? 行き倒れ!? 情けないねえ、若い身空で! 親御さんはどうしたんだい!?」
「わかりません……」
結衣は消え入りそうな声で絞り出した。
ここで「令和からタイムスリップしてきました」などと言えば、間違いなく精神病院送りにされるだろう。
「記憶が……よく、思い出せなくて……。気がついたら、そこの路地に倒れていて……」
苦し紛れの、ドラマのような記憶喪失の嘘。
だが、トミはその言葉を疑うどころか、大げさに両手を叩いて天を仰いだ。
「記憶喪失!? まあ可哀想に! きっと酷い目に遭って、頭をどっかにぶつけたんだよ! なんてこったい、こんな若い娘が……!」
トミの目は、早くも同情と涙で潤んでいた。下町特有の、単純で、熱烈で、疑うことを知らない善意の嵐。
結衣は罪悪感を覚えつつも、その圧倒的な熱量に気圧される。
ふと、トミの脇に置かれた新聞紙が目に留まった。
白菜を包んでいた、古新聞の束。
そこに印刷された、大きな活字のニュース。
『大阪万博 入場者数三千万人を突破』
『銀座に初の歩行者天国 若者で賑わうサンデー・プロムナード』
そして、紙面の最上段に小さく印字された、発行日付。
――昭和四十五年 六月十四日(日曜日)
白黒の粗い写真。
太陽の塔の尖塔が、紙面の中で傲然と天を衝いていた。
(……昭和……四十五年……)
三十二年後の未来から来た自分。
生まれるどころか、自分の両親すらまだ小学生か中学生だったはずの時代。
スマートフォンもない。インターネットもない。
あるのは、泥と、煙と、羽釜の飯と、目の前で自分の手首を握りしめて涙ぐんでいる、名前も知らない八百屋のおばちゃんの体温。
結衣は、ゆっくりと息を吐き出した。
もう、夢だとか幻覚だとか言って逃げることはできない。
自分は本当に、この泥臭くて、騒々しくて、暴力的なまでにエネルギーに満ちあふれた「昭和四十五年」の世界に、放り出されてしまったのだ。
「よし、決めたよ!」
トミがパンと自らの太ももを叩き、立ち上がった。
「源さん! この子、行くアテがないんだろ? 記憶が戻るまで、アンタんとこの二階に置いといてやりな!」
「あァ!?」
源三が目を剥き、怒声を上げた。
「何を馬鹿なこと言ってやがる! ウチは宿屋じゃねえぞ! ただでさえ赤字続きで、飯食わせるだけで精一杯だってのに!」
「何言ってんだい、色気のない年寄りが! 二階の物置、ずっと空き部屋にして埃被せてるじゃないか! 若い娘一人転がしとくくらい、減るもんじゃないだろ!」
「減るわ! 俺の寿命が減る!」
「減りゃいいんだよ、頑固親父が! おい娘さん、名前はなんて言うんだい!? それくらいは覚えてるだろ!」
怒鳴り合う二人の間で、結衣は目を白黒させながら、小さく口を開いた。
「……ゆい。桐島、結衣です」
「結衣ちゃんかい! いい名前じゃないか!」
トミは満面の笑みを浮かべ、源三の肩をバシバシと叩いた。
「決まりだ! 結衣ちゃんは今日から、田舎から出てきた源さんの姪っ子だよ! 近所にはアタシからそう言っとくからね! いいね源さん!」
「おい待てトミ! 勝手に話を――!」
「じゃあアタシは店に戻るよ! 結衣ちゃん、着替えはうちの娘のお下がりを持ってきてやるからね! しっかり飯食って元気出すんだよ!」
言いたいことだけを機関銃のように吐き捨てると、トミは嵐のように勝手口から飛び出していった。
ガラガラ、ピシャリ。
再び訪れた静寂。
残されたのは、煙草の煙が漂う薄暗い土間と、頭を抱えて深いため息をつく頑固親父。
そして、空になった茶碗の前で、ただ呆然と座り込む結衣だった。
「……チッ」
源三は舌打ちをすると、結衣を忌々しそうに睨みつけた。
「……おい、結衣とか言ったな」
「は、はい……!」
「タダ飯食わせてタダで泊めるほど、俺もお人好しじゃねえぞ。明日から、店の仕事死ぬ気で手伝ってもらうからな。皿洗いからドブ掃除まで、手加減しねえぞ」
刺々しい言葉。
けれど、その言葉は結衣に「ここにいていい」という居場所を、確かに与えてくれていた。
「……はい! なんでもやります!」
結衣は頭を下げた。
令和で擦り切れたWEBデザイナーの第二の人生が、昭和四十五年、東京下町の小さな洋食屋の土間から、今まさに始まろうとしていた。




