第1話:泥濘(ぬかるみ)の路地と、三丁目の青空
午前二時四十八分。
無機質な数字を刻むパソコンの画面右下を、結衣は乾ききった瞳で見つめていた。
まばたきをするたび、眼球の裏側にガラスの破片でも擦り付けられたような痛みが走る。オフィスには、低く唸りを上げるエアコンの送風音と、結衣が叩くキーボードの乾いた打鍵音だけが響いていた。二十席ほど並んだデスクの島はあらかた消灯され、結衣の座る一角だけが、青白い液晶の光に冷たく照らし出されている。
卓上には、飲み干されて底に黒い澱の沈んだブラックコーヒーの紙コップが二つ。賞味期限の切れた栄養ドリンクの空き瓶。そして、一口だけかじって放置され、すっかりパサついたコンビニのサンドイッチ。
ピコン、と冷酷な電子音が静寂を切り裂いた。
画面の隅に現れたチャットツールの通知ウィンドウ。送り主は、この案件の営業担当ディレクターだった。
『桐島さん、お疲れ様です! 先方からデザインの追加修正戻ってきました。「全体的にもっとエモーショナルな抜け感がほしい」「でも信頼感と重厚感は崩さないで」「フォントは丸ゴシックじゃなくて明朝系だけど、今どきの女子高生にも刺さるポップなニュアンスで」とのことです。朝イチの定例ミーティングまでに差し替えお願いできますか? よろしくです!』
「……エモーショナルな抜け感、ね」
ひび割れた唇から、乾いた苦笑がこぼれ落ちる。
桐島結衣、三十二歳。都内の中堅WEB制作会社に勤めるチーフデザイナー――といえば聞こえはいいが、実態は営業の無茶振りとクライアントの気まぐれに挟まれ、ひたすら右から左へピクセルを並べ替えるだけの、ただの社畜だった。
美大を卒業したばかりの頃は、デザインで誰かの心を動かしたい、日常を少しだけ温かく彩りたいと本気で信じていた。けれど現実は、終わりのない修正指示と、数字を追うだけのクリック率至上主義。どれだけ徹夜して画面を磨き上げても、クライアントの「なんとなく違う」の一言でゴミ箱行きになる。
誰のために作っているのか。何のために削られているのか。
考えることすら、とっくに放棄していた。
「うっ……」
みぞおちの奥を、熱した鉄の杭で突き刺されたような激痛が走った。結衣は思わずマウスから手を離し、腹を抱えて前のめりに突っ伏す。
ここ数ヶ月、胃痛は日常茶飯事だった。市販の胃薬を常用し、騙し騙しやってきたが、今夜の痛みは異質だった。冷や汗が額から噴き出し、視界の端がチカチカと白く明滅する。
「薬……飲まなきゃ……」
震える指先で引き出しを開けようとしたが、指に力が入らない。デスクの端を掴んでなんとか立ち上がろうとした瞬間、膝の関節からすべての感覚が抜け落ちた。
視界が暗転する。
けたたましい耳鳴り。キーボードに額を打ち付ける鈍い音。遠くで、自動販売機の冷却コンプレッサーの音だけが、やけに鮮明に聞こえていた。
――息が、苦しい。
――誰か。
――誰でもいいから、助けて。
声にならない叫びは、冷え切ったオフィスの天井へと吸い込まれ、結衣の意識は深い闇の底へと沈んでいった。
◆
「……おい。おい、しっかりしろ」
どこか遠くで、男のだみ声が聞こえたような気がした。
それと同時に、強烈な不快感が全身を襲った。
生ぬるい風。じっとりと肌にまとわりつく湿気。エアコンの効いたオフィスの、あの澄み切って乾燥した空気とはまるで違う。
そして、鼻腔を突く強烈な匂い。
ドブ川のヘドロ、焦げた石炭、排気ガスのツンとした刺激臭、それに混ざり合う、どこかの台所から漂ってくるような焦がし醤油と油の匂い。
(……何、これ……? 会社の非常階段……? 私、倒れたんじゃ……)
重い瞼を、指先で押し上げるようにしてゆっくりと開いた。
直後、網膜を焼き切るような強烈な光に、思わず目を細める。
青かった。
見上げる空が、信じられないほど高くて青かった。高層ビルの切り立った隙間から覗くような狭い空ではない。どこまでも遮るものなく広がる、真夏一歩手前の、暴力的なまでに力強い青空。
だが、その空を切り裂くように、無数の黒い電線が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。しかも、電線を支えているのは灰色のコンクリート柱ではなく、タールを塗りたくられた茶黒い「木の電柱」だった。
「……え?」
掠れた声が喉から漏れた。
横たわっていた身体を起こそうとして、手のひらにざらりとした痛みが走る。
アスファルトではなかった。路面は、大小の小石が混ざり合った未舗装の土煙立つ砂利道。ところどころに窪みがあり、昨夜降ったとおぼしき泥水が淀んでいる。
結衣はおそるおそる、自分の置かれた光景を見渡した。
「……なに、ここ……?」
立ち並んでいるのは、モルタル塗りの古びた看板建築や、黒ずんだ板張りの木造長屋ばかり。頭上には、赤や青のトタン屋根がひしめき合い、軒下には洗濯物がこれ見よがしに干されている。
耳に入ってくる音の洪水も、結衣の知る「東京」とは根本的に異なっていた。
ガタガタとけたたましいエンジン音を立てて砂煙を巻き上げていく、丸っこい形をした見慣れない軽三輪トラック。カンカンカンと遠くで鳴り響く踏切の警報音。魚屋の威勢のいい怒鳴り声。子供たちの甲高い笑い声。
そして、どこかの軒先に吊るされた街頭スピーカーから、割れた音質の陽気な音楽が商店街じゅうに響き渡っていた。
『こんにちは、こんにちは、西のくにから〜♪ こんにちは、こんにちは、東のくにから〜♪』
三波春夫の、あの有名な歌声。
大阪万国博覧会のテーマソング。
(うそ……でしょ……?)
呆然と立ち尽くす結衣の横を、人々が通り過ぎていく。
すれ違う男たちの服装は、極端に裾の広がったラッパズボンに、派手な大柄の開襟シャツ。髪はもみあげを長く伸ばした七三分けや、ボサボサの長髪。
買い物かごを提げた女性たちは、色鮮やかなパンタロンを履いていたり、真っ白な割烹着を身にまとっていたりする。誰も彼もが、令和の街では一度も見かけたことのない、まるで古い白黒映画やカラー写真の資料集の中から抜け出してきたような姿をしていた。
「夢……? 過労で、私、変な幻覚見てるの……?」
反射的に、ポケットを探った。
スマホ。スマホを見れば、現在地がわかる。時間がわかる。現実に戻れる。
しかし、指先が触れたのは、普段履いているはずのテーパードパンツではなく、薄手の頼りない綿のスカートだった。上着も、オフィスカジュアルのブラウスではなく、着古された半袖の開襟シャツに変わっている。
ポケットなど、どこにもない。
スマートフォンも、社員証も、財布も、家の鍵も。
自分を「令和の桐島結衣」たらしめていた現代のアイテムが、何一つとして存在しなかった。
「ない……ない、嘘でしょ、なんで!?」
急速に血の気が引いていく。心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、息が吸えなくなる。
パニックに陥った結衣は、ふらつく足で立ち上がろうとした。一歩、足を踏み出した瞬間――。
「きゃっ!?」
足元のドブ板が、激しい音を立てて跳ね上がった。
腐りかけた木板を踏み抜いたのだ。側溝の縁に足を滑らせ、結衣の身体は横ざまに倒れ込んだ。
ピシャリ、と冷たい飛沫が上がる。
雨水と泥、そしてヘドロの混ざり合った生温かい液体が、結衣のシャツと顔の半分を容赦なく染め上げた。
「痛っ……! うそ、やだ……!」
泥だらけになった両手。擦りむいた膝から、じんわりと赤い血が滲む。
痛い。生々しいほどに痛い。夢なら、こんな痛みを感じるはずがない。
立ち上がろうともがくが、泥に足を取られて滑る。みっともなく四つん這いになり、泥水をすすりそうになる自分。
通りを行き交う人々が、足を止めて結衣を見下ろしていた。
「なんだい、あの娘。昼間っから泥だらけになって」
「見かけない顔だねえ。どこぞの工場の子かい?」
「やだねえ、お酒でも飲んでるんじゃないのかい」
ヒソヒソと交わされる下町の人々の声。
冷たい視線。好奇の目。
令和のオフィスにあった「他人への無関心」とは違う。泥臭く、遠慮がなく、プライバシーの欠片もない、他人の領域へ土足で踏み込んでくるような生々しい視線が、無防備な結衣の全身に突き刺さる。
「やめて……見ないで……」
結衣はその場にうずくまり、泥まみれの腕で頭を抱えた。
自分がどこにいるのかもわからない。
どうやって帰ればいいのかもわからない。
仕事の締め切りはどうなったのか。自分の部屋はどうなったのか。家族は。友人は。
すべてが消え失せ、見知らぬ時代の、見知らぬ泥の上に放り出されたという事実が、冷たい氷の塊となって胃の腑に落ちていく。
過呼吸が起きそうになり、浅く早い呼吸を繰り返す。
泥の冷たさと、擦りむいた傷のズキズキとした熱さだけが、自分が生きていることを主張していた。
情けなくて、心細くて、孤独で。
結衣の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、泥水の中に小さな波紋を作った。
その時だった。
ガラガラガラッ――!
耳障りなほど甲高い、古いトタンの引き戸が開く音が響いた。
すぐ脇の路地に面した、小さな勝手口。
そこから、一人の小柄な老人が姿を現した。
年齢は六十代半ばといったところだろうか。白髪交じりの短髪に、深い皺の刻まれた険しい顔つき。着古した藍色の作務衣の上に、油とススで汚れた分厚い帆布の前掛けを締めている。
老人は、手に持っていたブリキのバケツから、野菜の皮やクズ肉などの生ゴミをペール缶へ放り込もうとしていた。
ガラン、と金属音が鳴り響く。
そして老人は、自分の店の裏口のすぐ脇で、泥まみれになって泣きじゃくっている結衣の存在に気がついた。
「あァ?」
濁った、ドスの利いた声。
老人は不快そうに眉根を寄せ、手元の煙草の吸い殻を地面に吐き捨てると、靴底で踏み消した。
「……おい。おい、そこの小娘」
結衣はビクッと肩を震わせ、泥にまみれた顔を恐る恐る上げた。
逆光の中に立つ老人の顔は、彫りの深い影に覆われていてよく見えない。ただ、前掛けの奥から漂ってくる、強烈な「匂い」だけが結衣の鼻腔をくすぐった。
動物性の脂の焦げた匂い。
何日も煮込まれたような、深い苦味と甘みを持つソースの匂い。
そして、わずかに香る、上質なバターの芳香。
「な、んですか……」
震える声で絞り出す結衣を、老人は値踏みするように上から下まで冷たく見下ろした。
そして、盛大に舌打ちを一つ。
「チッ……行き倒れか。厄介なもんが転がり込んできやがったな」
「あ……あの……」
「おい小娘。死ぬならウチの店の前以外で死ね。商売の邪魔だ」
容赦のない、氷のように冷たい言葉だった。
やっぱり、ここでも自分は邪魔者なのだ。令和でも、この見知らぬ世界でも、自分を必要としてくれる場所なんてどこにもない。絶望が結衣の胸を支配し、再び視界が涙で滲む。
だが――老人は踵を返そうとはしなかった。
「おい」
老人はペール缶のフタを荒々しく閉めると、ズボンのポケットに手を突っ込み、ため息をついた。
「……立てるか」
「え……?」
「耳が遠いのか? 立てるのかって聞いてんだよ。ドブ水啜って腹壊されたら、こっちの後味が悪ィだろうが」
ぶっきらぼうに吐き捨てながら、老人は結衣の目の前に、自身の右手を突き出してきた。
その手を見て、結衣は息を呑んだ。
節くれ立ち、手の甲には幾筋もの古い火傷の痕と、包丁の切り傷が刻まれている。爪の間には油煙が染み付き、皮膚はまるで使い込まれた革手袋のように分厚く硬そうだった。
決して綺麗な手ではない。
けれど――キーボードを叩くだけだった結衣の指先とは根本的に違う、何十年もの間、火と刃物と食材に向き合い続けてきた「本物の職人の手」だった。
「ほら、さっさと掴まれ。引きずり起こすぞ」
催促するように、無骨な手が結衣の鼻先で揺れる。
言葉は乱暴で、口調はどこまでも刺々しい。
けれど、その差し伸べられた掌には、結衣が令和のオフィス街で一度も触れることのできなかった、確かな「体温」が宿っているように見えた。
「……っ!」
結衣は泥に汚れた自分の右手を、無我夢中でその大きな掌へと伸ばした。
ギュッ、と皮膚が軋むほどの強い力で握り返される。
硬くて、熱くて、驚くほど太い指。
グイッと強引に引き上げられ、結衣の身体は宙を浮くようにして泥の中から引き抜かれた。
「うわっ……!」
「おっと、ふらついてんじゃねえよ。めし食ってねえのか、お前は」
老人は舌打ち混じりに結衣の腕を支えると、店の勝手口の板戸を足先で乱暴に蹴り開けた。
薄暗い店内の奥から、かすかに漂ってくる温かい湯気と、出汁の香り。
見上げると、煤けた軒先に、ペンキの剥げかけた木の看板がぶら下がっていた。
そこには、どこか誇らしげな太い筆文字で、こう記されていた。
『洋食 キリシマ食堂』
「……キリシマ……?」
自分の苗字と同じ名前の看板を、結衣は呆然と見上げた。
「突っ立ってねえで中に入れ。土間に上がったら泥を落とせ。雑巾はそこにある」
老人は結衣を促すように背中を押すと、奥の厨房へとスタスタと入っていく。
薄暗い土間に足を踏み入れた結衣の背後で、ガラガラと重い音を立てて引き戸が閉ざされた。
外の喧騒が、ほんの少しだけ遠のく。
土と油と、古い木の匂いに包まれた小さな空間。
冷え切っていたはずの結衣の心臓が、トクン、と熱い音を立てて脈打った。
令和のオフィスで死にかけた女が、昭和四十五年、東京下町の小さな厨房へと足を踏み入れた瞬間だった。




