第14話:泥つきの端切れが黄金に化ける刻
七月半ばの東京下町は、梅雨の最後のあがきのような陰鬱な長雨に見舞われていた。
鉛色の雲が初音銀座商店街の低いトタン屋根を押し潰すように垂れ込め、途切れなく降り続く雨粒が、未舗装の砂利道をドロドロの泥濘へと変えていく。軒下のブリキの雨樋からは滝のような雨水が側溝へと音を立てて雪崩れ込み、湿った泥と古い木造家屋の黴の匂いが、逃げ場を失って路地に澱んでいた。
午前九時。
普段なら仕入れを終えた商店主たちの威勢のいい怒鳴り声が飛び交う時間帯だが、通りを歩く人の姿はまばらで、雨具を深く被った住人が足早に通り過ぎるばかりだった。
キリシマ食堂の向かいに店を構える青果店「八百杉」の店先には、不穏な静けさと焦燥が張り詰めていた。
「……クソッたれが。雨、雨、雨……どいつもこいつも長雨のせいで市場の相場が狂っちまいやがって」
店の奥、薄暗い作業場で、杉本勇は泥のついた長靴を爪先で苛立たしげに床へ叩きつけていた。
藍色の前掛けは水気を含んで重く垂れ下がり、短く刈り上げた髪には雨の雫がびっしりと光っている。その足元には、神田の青果市場から運んできたばかりの巨大な杉木箱が、無造作に十数箱も積み上げられていた。
木箱の隙間から覗いているのは、お世辞にも「八百杉の特級品」とは呼べない無残な野菜の山だった。
途中で二股や三股に割れて奇妙にねじくれた人参。表面がひび割れ、泥水を吸って丸々と肥大化した不格好な玉ねぎ。小指の先ほどの太さしかない貧相な人参の端切れや、皮が裂けて茶色い芯が露出した小玉ねぎ。
長雨による日照不足と急激な過湿がもたらした、市場の暴落と規格外野菜の大量発生だった。
「勇……どうするんだい、これ全部」
作業場の奥から、母のトミが力のない足取りで現れた。
いつもなら商店街中に響き渡る胴声を張り上げている女将の顔が、今朝ばかりは心労で青ざめ、目元には深い疲労が刻まれている。
「市場の競り人が『持ってかねえと今日の仕入れ枠を減らす』って脅すからって、こんな奇形野菜ばかり引き取ってきて……。長屋のお客さんたちに並べたって、誰も銭なんか出してくれやしないよ。みんな綺麗な人参や玉ねぎから買っていくんだから」
「分かってらァ!」
勇は手近な木箱の縁をドンと殴りつけた。
「分かってるけどよ! 競り落とさなきゃ、明日からの上等な野菜を回してもらえねえんだよ! 弱小の八百屋が市場で生き残るためのお付き合いってやつだ! ……チクショウ、半分以上がゴミ箱行きだ。今月稼いだオムライスのまとめ買いの儲けが、この一撃で全部吹き飛んじまう……」
勇は頭を抱え、作業場の隅のビールケースに崩れ落ちた。
先週、キリシマ食堂の結衣から持ちかけられた「週間一括契約・まとめ買い」によって、八百杉は確実に利益の基盤を作ったはずだった。だが、天候という自然の暴力は容赦なく下町の個人商店を襲う。売れ残れば腐り、腐ればそのまま損失となる生鮮品の残酷な宿命。
「……源さんとこに、引き取ってもらえないかい」
トミがぽつりと、すがるような視線を向かいのキリシマ食堂へと投げた。
「ほら、オムライスで毎日大量の玉ねぎと人参を使うだろ? あそこの娘さん、頭がいいからさ、少しばかり安く引き取って――」
「バカ言え!」
勇が跳ね起きるように立ち上がり、目を吊り上げた。
「みっともねえ真似ができるかよ! 俺は先週、結衣さんに『八百杉の看板にかけて、神田の市場で一番ピカピカの極上品を届けてやる』って大見得切ったんだぞ! こんな泥だらけの割れ玉ねぎや奇形人参を押し付けてみろ!『八百杉の男工は口先だけの安物売りだ』って笑われるのが関の山だ! 情けをかけられて野菜を引き取らせるくらいなら、川に全部流した方が何倍もマシだ!」
「勇……!」
「俺のプライドの問題だ! 二度と源さんとこの名前を出すんじゃねえ!」
叫ぶ勇の肩は、激しい悔しさと無力感で小刻みに震えていた。
――その時だった。
チャプ、チャプと、泥濘を踏む静かな水音が響いた。
「失礼いたします」
透明な雨傘をすぼめ、八百杉の作業場の土間へ足を踏み入れてきた人影。
トミの娘から貰った洗いざらしの絣のブラウスに、清潔な生成りのエプロンをきりりと締めた桐島結衣だった。
傘の雫を手早く払い、結衣は作業場の中に広がる異様な光景――積み上げられた不揃いな野菜の山と、仁王立ちになって顔を真っ赤にしている勇の姿を、その澄み切った瞳に静かに収めた。
「……け、結衣さん……!?」
勇の喉が引き攣った。
見られたくない、一番惨めで情けない現場を、もっとも意識している相手に真正面から目撃されてしまったのだ。勇は慌てて自分の大きな身体で木箱の山を隠そうとしたが、あまりの量に隠しきれるはずもなかった。
「な、何しに来たんだよ! 今朝の納品なら、ちゃんと傷一つない極上の玉ねぎと人参を八キロ、源の親父に届けただろ! 何か文句でもあんのかよ!」
刺々しい、拒絶のトゲを含んだ声。
だが、結衣は怯むどころか、ゆっくりと勇の前へと歩み寄った。
視線を足元の木箱へと落とす。
二股に分かれた人参、皮が裂けて不揃いな玉ねぎ、泥にまみれた根菜の端切れたち。
結衣は腰を落とし、泥のついた不格好な人参を一つ、素手で拾い上げた。
「おい、触るなよ! 手が汚れるだろ!」
勇が制止しようと手を伸ばすが、結衣はその人参を鼻先に近づけ、指先で泥を拭って断面の匂いを嗅いだ。
「……甘い」
結衣の口から漏れたのは、嘲笑でも同情でもなく、純粋な感嘆の吐息だった。
「え……?」
「形は歪んでいますけど、皮の張りも、実の締まりも抜群です。長雨で水分を吸いすぎて皮が弾けちゃっただけで、土の中でじっくり育った力強い香りがします。……玉ねぎも、割れ目から蜜のような糖分が滲み出ていますね」
結衣は立ち上がり、土まみれになった自らの掌を見つめ、それから勇の血走った瞳を真っ直ぐに見据えた。
「勇さん。この木箱の規格外野菜、全部で何キロありますか?」
「な……何キロって……人参が約三十キロ、玉ねぎが五十キロだ。……それがどうしたんだよ」
「すべて、買い取らせてください」
淀みのない、明瞭な宣告だった。
「価格は、通常の仕入れ単価の半値でいかがでしょうか。今ここで、現金でお支払いします」
作業場の中に、雨音だけが重く響いた。
トミが目を見張り、息を呑む。
だが――勇の反応は、歓喜ではなく、激しい侮蔑と怒りだった。
「……ふざけんな」
地を這うような、低いだみ声。
勇の拳がギリリと音を立てて握り締められた。
「ふざけんじゃねえぞ、桐島結衣……!」
「勇さん?」
「情けをかけるなっつったのが聞こえねえのか!!」
怒号が、八百杉の薄暗い土間に炸裂した。
「俺が売れ残りで頭抱えてるのを見て、哀れんで引き取ってやろうって魂胆か!? 規格外のゴミ野菜を半値で買い叩いて、施しでも与えるつもりかよ! そんなもん、キリシマ食堂で客に出せるわけがねえだろうが! あそこの看板は、源の親父の浅草仕込みのプライドで持ってる店だぞ! こんな泥だらけの二股人参や割れ玉ねぎを使って、もし料理の格が落ちたらどうすんだ! 客を舐めるな! 職人を舐めるな!!」
勇の叫びは、下町の商人としての誇りそのものだった。
自分が苦境にあるからといって、大切な幼馴染の店に粗悪な食材を押し付けるわけにはいかない。ましてや、結衣という一人の女性に対して、情けをかけられて救われることなど、男のプライドが絶対に許さなかった。
「勇、アンタなんて言い草を……! 結衣ちゃんは親切で――」
「親切なんざクソ食らえだ! 商売に同情を持ち込んだら終わりなんだよ!」
トミの制止を怒鳴り散らし、勇は肩を上下させて息を荒げた。
だが。
結衣は一歩も引かなかった。
泥のついた人参を両手でしっかりと抱き締めたまま、その瞳を青い炎のように研ぎ澄ませ、静かに口を開いた。
「同情ではありません」
その声の冷徹なまでの静けさに、勇の呼吸がピタリと止まった。
「施しでも、哀れみでもありません。……勇さん、あなたは八百屋のプロなのに、この野菜たちの『本当の価値』が見えていないんですか?」
「な、なに……?」
「見た目が悪いからゴミ? 形が二股だから価値がない? ……笑わせないでください」
結衣は人参の泥を親指で力強く擦り落とした。
「お皿の上にそのまま盛り付ける温野菜なら、形の美しさは命でしょう。でも、私たちが作ろうとしているのは、姿形をそのまま見せる料理ではありません。素材の細胞を極限まで加熱し、繊維を断ち切り、甘みと香りと旨味だけを抽出する料理です」
結衣は一歩、勇へと詰め寄った。
「規格外だろうと、割れ玉ねぎだろうと、含まれている糖度とアミノ酸は正規品と何も変わりません。むしろ、過酷な天候に耐えて水分を蓄えた分、加熱した時の甘みのポテンシャルは一級品です。それを『見た目が不揃いだから』という理由だけで川に捨てるなんて……農家の方々に対しても、この野菜の命に対しても、それこそ最大の冒涜じゃないですか!」
「っ…………!」
「私は、キリシマ食堂の料理の格を落とす気なんて微塵もありません。この泥だらけの端切れを使って、銀座の一流フレンチでも出せないような、極上の奇跡を一皿作ってみせます」
結衣は懐から、寺岡堂の大学ノートを取り出し、勇の胸元へと突きつけた。
「一時間。……一時間だけ時間をください。これから源さんと一緒に、この規格外野菜を使って料理を作ります。それをあなたの舌で味わってください。もし、一口でも『安物の味がする』『店の格が落ちる』と感じたら、私は二度と規格外野菜の引き取りを口にしません。代金も一切いただきません」
「結衣さん……」
「逃げないで、確かめてください。これが――私たちが結んだ『提携』の、本当の価値です!」
◆
キリシマ食堂の厨房に、激しい雨音を突き破るような金属音が鳴り響いていた。
「おい結衣! 本当にこれ全部使う気かよ!」
大山源三が、持ち込まれた八十キロの不揃い野菜の山を前にして、目を剥いていた。
「全部使います、源さん! 仕込み時間はあと四十五分しかありません。手分けして一気に下処理を終わらせますよ!」
「チッ、人使いの荒い小娘だ!」
文句を言いながらも、源三の研ぎ澄まされた包丁がまな板の上で電光石火の速さで踊り始めた。
トントントン、トトトトトン!
二股に分かれた人参の皮が薄く剥かれ、傷んだ黒ずみの部分だけがミリ単位の正確さで削ぎ落とされる。繊維に逆らわず、均一な薄切りへと姿を変えていく。
割れ玉ねぎも同様だ。外側の傷んだ薄皮だけを剥ぎ取り、芯の太い部分は包丁の刃先で十字に切り込みを入れてから、極薄のスライスへと刻まれていく。
形が不揃いだろうと、包丁を入れてスライスしてしまえば、そこにあるのは瑞々しい鮮やかなオレンジと純白の野菜の山だった。
「源さん、オーブンです! 鉄板に薄くラードを引いて、人参と玉ねぎを敷き詰めてください!」
「炒めるんじゃねえのか!?」
「炒めるだけじゃ水分が飛びきりません! まずは強火のオーブンで一気にローストして、野菜の余分な青臭さを焼き切り、糖分をメイラード反応でカラメル化させるんです!」
「めいら……なんだと!?」
「いいから放り込んでください!」
源三は言われるがまま、巨大な天板二枚に薄切りの人参と玉ねぎを広げ、真っ赤に熱せられたガスオーブンの中へと滑り込ませた。
バタン! と重い鉄扉が閉ざされる。
数分後――厨房の中に、劇的な変化が訪れた。
オーブンの排気口から立ち上ってきたのは、焦げた野菜の嫌な匂いではなかった。
焼き芋を焼いている時のような、あるいは上質な黒糖を煮詰めている時のような、暴力的なまでに甘やかで、香ばしい芳香だった。
高温の熱風によって野菜の表面の糖分が凝縮され、パチパチと小さな音を立てて飴色へと変色していく。
「今です、出してください!」
オーブンから引き出された天板の上には、端がほんのりときつね色に焦げ、凝縮された人参と玉ねぎが湯気を噴き上げていた。
「寸胴へ投入します!」
手前の大鍋には、あらかじめ鶏ガラと香味野菜の端材で取っておいた、澄んだチキンブイヨンが煮立っていた。
そこへ、ローストされた飴色の人参と玉ねぎが一気に投入される。
ジュワアアアッ――!!
激しい沸騰音とともに、甘い蒸気が厨房を満たす。
「火加減は中火! 野菜が木べらで触るだけで崩れるまで、二十分間煮詰めます!」
源三は長い木べらを握り、沸き立つ鍋の中を丹念に掻き回し始めた。
灰汁を丁寧にすくい取る。
煮崩れていく人参から溶け出した色素が、黄金色のチキンブイヨンと混ざり合い、鍋の中全体が深い、濡れたような「琥珀色」へと染まっていく。
「……すげえな」
源三が、思わず唸り声を漏らした。
「砂糖もみりんも一粒も入れてねえのに……なんだこの甘みは。スープの表面に、野菜の蜜が膜を張ってやがるぞ」
「これが、ローストによって引き出された根菜の本来のポテンシャルです」
結衣は時計の針を睨みつけた。
残り十五分。
ここからが、最大の難所だった。
令和の厨房なら、ハンドブレンダーを鍋の中に突っ込んでスイッチ一つで数十秒でペースト状にできる。だが、昭和四十五年の下町食堂にそんな文明の利器はない。
「源さん、漉し器です! 目の細かい真鍮の裏漉し器を用意してください!」
「おうよ! 腕っ節なら浅草仕込みだ!」
大鍋の中身が、巨大な裏漉し器の上へとあけられた。
源三が木べらの背を使い、煮崩れた野菜を力任せに、かつ円を描くようにして網目へと擦り付けていく。
ギシッ、ギシッ、ギシッ!
老職人の太い二の腕に、血管が縄のように浮き上がる。
網目の下から、ポタポタと、絹のように滑らかな濃密なピューレが落ちていく。
食物繊維の硬い筋だけが網の上に残り、極限まで微細化された野菜のペーストが、下のボウルへと溜まっていく。
「結衣、牛乳と生クリームだ!」
「はい!」
結衣はあらかじめ湯煎で人肌に温めておいた新鮮な牛乳と、隠し味の少量の生クリーム、そして塩を一摘み投入した。
泡立て器で素早く攪拌する。
重厚なピューレが、乳白色の油脂と混ざり合い、とろりとした極上のポタージュへと姿を変えていく。
そして――仕上げ。
源三が小さな銅鍋をコンロの強火にかけ、黄色い有塩バターを一欠片落とした。
パチパチパチッ!
バターが激しく泡立ち、黄色から茶色へ、そしてナッツのような香ばしい香りを放つ「焦がしバター(ブール・ノワゼット)」へと変わった瞬間――。
ジューーーッ!!
ポタージュの鍋の上から、焦がしバターが一気に回しかけられた。
爆発的な香気。
ローストされた人参の力強い甘み、玉ねぎの深いコク、ミルクのまろやかさ、そして焦がしバターのナッツのような芳香。
すべての要素が完璧に乳化し、混ざり合い、スープの表面には息を呑むほどに美しい、琥珀色の光輪が浮かび上がっていた。
「……できたぞ」
源三が息を整え、額の汗を手ぬぐいで拭った。
時計の針は、約束の一時間をきっかり指していた。
「八百杉の若造を呼んでこい、結衣。……俺たちの答えを、飲ませてやろうじゃねえか」
◆
雨音の降りしきる初音銀座。
キリシマ食堂の正面引き戸がガラリと開き、作業着姿の杉本勇が、固く強張った表情で店内に足を踏み入れてきた。
腕組みをし、長靴を鳴らしながら、値踏みするようにカウンターを見据える。
「一時間経ったぜ、結衣さん。……大口叩いた結果がどうなったか、見せてもらおうじゃねえか」
勇の声は依然として低く、冷ややかだった。
しかし、その鼻腔が、店内に充満している異様なほど甘く香ばしい匂いを捉えた瞬間、眉根が微かに動いた。
「どうぞ、こちらへ」
結衣は静かに微笑み、カウンターの一番手前の席を示した。
勇が丸椅子にドカッと腰を下ろすと、源三が無言で前に進み出た。
コト、と静かな音を立てて、白磁のスープ皿が勇の目の前に置かれる。
「……え?」
勇の瞳が、驚愕に見開かれた。
そこに現れたのは、泥水のようなどす黒い煮込みでも、安っぽい食堂の薄い味噌汁でもなかった。
まるで、磨き上げられた琥珀の宝石をそのまま溶かしたような、深く艶やかなオレンジゴールドの液体。
立ち上る真っ白な湯気。
表面には、螺旋を描くように細く垂らされた純白の生クリームと、鮮やかなパセリの微塵切りが散らされている。
そして、鼻腔をダイレクトに殴りつけてくる、焦がしバターと焼き野菜の、甘やかで気品に満ちた芳香。
「これは……なんだよ」
勇の喉仏が、無意識にゴクリと音を立てて上下した。
「キリシマ食堂の新メニューです」
結衣が、銀色のスープスプーンを手渡した。
「名付けて――『初音銀座の特製・琥珀ポタージュ』。……材料は、あなたが『ゴミだ』と言い放った、あの割れ玉ねぎと二股人参だけです。どうぞ、召し上がってください」
勇は、震える手でスプーンを握りしめた。
信じられなかった。
あの作業場の土間に転がっていた、泥まみれで不格好な廃棄寸前の野菜たちが、どうしてこんな銀座の高級ホテルのメインダイニングで出るような、息を呑むほど美しい一皿に化けるというのか。
ハッタリだ。
見た目を取り繕っただけで、中は青臭くて不味いに決まっている。
そう自分に言い聞かせながら、勇はスプーンの先を琥珀色のスープへと沈めた。
ポタージュは、驚くほどぽってりとした重みを湛えていた。
すくい上げる。
銀のスプーンの上で、滑らかな液体がとろりと揺れる。
ふう、と息を吹きかけ、勇はそれを意を決して、口の中へと流し込んだ。
その瞬間――。
「っ……………………!?」
勇の全身が、落雷に打たれたように硬直した。
スプーンを持つ右手がピタリと止まり、見開かれた瞳孔が激しく揺れる。
言葉が、出ない。
声が、出ない。
まず舌の上に広がったのは、砂糖を煮詰めたキャラメルのような、圧倒的で濃密な「甘み」だった。
だが、それは人工甘味料のようなベタつく甘さでは断じてない。
土のミネラルをたっぷりと吸い込み、雨水に耐えて蓄えられた、根菜本来の生命力そのものが爆発したような、力強く、どこまでも澄み渡った自然の甘露。
青臭さは微塵もなかった。
あるのは、オーブンでじっくりローストされたことによって生まれた、焼き栗のような深い香ばしさ。
そして、舌触り。
ざらつきが、全くない。
源三の熟練の裏漉しによって極限まで微細化された野菜の粒子が、温かいミルクと焦がしバターを抱き込み、まるで上質なベルベットのように、滑らかに舌の上を滑り落ちていく。
喉を通った瞬間、胃の腑にじわりと広がる、圧倒的な滋養と温もり。
「な……な……」
勇の唇から、震える呼気が漏れ出した。
「なんだ……これ……! 甘い……! 人参が……あの泥だらけの二股人参が、なんでこんなに甘いんだよ!? 砂糖を入れたのか!? ハチミツでもぶち込んだのかよ!?」
「砂糖なんて一粒も使っていませんよ」
カウンターの奥で、源三が腕組みをしたまま、誇らしげに鼻を鳴らした。
「八百杉の野菜の力だ。強火のオーブンで水分を飛ばして、野菜の持ってる糖分を限界まで引き出したんだよ。……形は悪りィが、味の芯は本物だったぜ、勇」
「う……あ……っ」
勇の右手が、まるで何かに憑りつかれたように猛烈な勢いで動き出した。
一口、また一口。
ガツガツとスプーンを動かし、琥珀色のポタージュを胃袋へと流し込んでいく。
飲むたびに、身体の奥底から熱い力が湧き上がってくる。
雨の冷たさに凍えていた手足の先まで、温かい血がドクドクと巡り始める。
美味い。
ただ美味いだけじゃない。
自分が市場で競り落とし、傷物だからと見捨てようとしていた野菜たちが、いま、この美しい皿の中で、最高の輝きを放って命を燃やしている。
最後の一滴。
勇はスプーンを置き、両手でスープ皿を持ち上げると、皿の縁に口をつけて綺麗に飲み干した。
カラン。
空になった皿が、カウンターの上に置かれた。
店内に、再び雨音だけが戻ってくる。
勇は両手を膝の上に置いたまま、肩で荒い息を吐いていた。
その顔は、先ほどまでの怒りではなく、驚愕と、感動と、そして自らの浅ましさに対する深い羞恥で赤く染まり上がっていた。
「……負けたよ」
絞り出すような、掠れた声。
勇はゆっくりと顔を上げ、結衣を真っ直ぐに見つめた。
「完敗だ。……ぐうの音も出ねえよ」
「勇さん……」
「俺は……八百屋のプロ面してたくせに、野菜の『見た目』しか見てなかった」
勇は拳をぎゅっと握りしめた。
「泥がついてるからって、形が歪んでるからって、ゴミ箱行きにしようとしてた。……でも、あんたたちは違った。泥の奥にある野菜の命をちゃんと見て、こんな……こんな奇跡みてえな美味い料理に化けさせてくれた」
勇は立ち上がった。
そして――カウンターの結衣と源三に向かって、深々と、九十度の礼をした。
「結衣さん、源の親父。……さっきは偉そうなこと言って、本当に悪かった。……頼む。あの規格外野菜、全部買い取ってくれ。半値なんて言わず、三割引きでいいから、引き取ってくれねえか」
「いいえ」
結衣は即座に首を横に振った。
「約束通り、半値で買い取ります」
「え……?」
勇が顔を上げる。
結衣は柔らかく、だが商売人としての確固たる眼差しで微笑みかけた。
「半値で仕入れさせていただくからこそ、このポタージュスープを、一杯百円という破格の値段で提供できるんです」
「百円……!?」
「はい。オムライスやカツレツをご注文のお客さまに、『プラス百円で、本日の特製ポタージュがつきます』とご案内するんです」
結衣は寺岡堂の大学ノートを開き、鮮やかな数字のチャートを指し示した。
「原価の計算をしましょう。規格外野菜を半値で仕入れることで、このポタージュ一杯あたりの食材原価は、わずか二十二円に抑えられます。百円で売れば、原価率は驚異の『二十二パーセント』です!」
「にじゅう……にパーセント!?」
「そうです。超高利益メニューです。オムライス単体だと原価率が高くて利益が薄いですが、このポタージュをセットで注文していただければ、客単価は三百三十円に跳ね上がり、店舗全体の平均原価率は一気に四十パーセント台前半まで劇的に改善します!」
結衣の淀みないプレゼンテーション。
八百屋の廃棄ロスをゼロにし、仕入れ原価を極限まで圧縮し、客には百円という手軽な追加料金で極上の満足感を提供し、店には確実な純利益を残す。
誰一人として損をしない、完璧なる「フードロス・マネジメント」。
「八百杉さんは売れ残りの赤字から救われ、キリシマ食堂は高利益の看板サイドメニューを手に入れ、お客さんは最高に美味しい栄養を安く摂れる。……勇さん、これが私の目指す商売です。誰も泣かせない。関わるすべての人を、笑顔で満腹にするためのデザインです」
「…………」
勇は、呆然と立ち尽くしていた。
ただ美味しい料理を作るだけではない。
ただ安い野菜を買い叩くのでもない。
下町の人間関係のぬくもりと、冷徹な経済の合理性を、ここまで完璧な調和で結びつけてしまう、桐島結衣という女性の底知れない器の大きさ。
ドクン、と。
勇の胸の奥底で、何かが激しく音を立てて跳ねた。
敬意。畏怖。
そして――一人の男として、この凛とした美しい女性に、魂の根底から心を奪われてしまったという、抗いがたい熱い衝撃。
「……へっ」
勇は照れ隠しに前掛けで顔を拭い、破顔した。
「まいったな、本当に。……女帝様どころの話じゃねえや。あんた、神様か何かかい」
「ふふ、ただの社畜ですよ」
「だから、そのしゃちくってのが何なのか教えろってんだ!」
厨房に、源三の豪快な笑い声が響き渡った。
「がはは! いい気味だ、勇! これで今夜の仕込みは山盛りだぞ! 八十キロの野菜、全部寸胴にぶち込んでやるからな!」
「おう、望むところだ! 今すぐリヤカーで残りの箱も全部運んでやるよ!」
勇は威勢よく叫ぶと、雨の中へと勢いよく飛び出していった。
その背中には、今朝までの重い絶望は微塵もなく、下町の若旦那らしい力強い生命力が満ちあふれていた。
降り続く雨の音。
だが、キリシマ食堂の厨房には、寸胴から立ち上る黄金の湯気と、甘く香ばしい香りが満ち満ちていた。
泥にまみれた端切れが、知恵と技術の手によって、本物の黄金へと姿を変えた瞬間。
下町の女帝・桐島結衣の改革は、いよいよ商店街の胃袋を完全に掌握する「第二段階」へと、力強く歩みを進めていた。




