第12話:算盤(そろばん)を弾く女帝、原価率という名の現実
七月。東京の下町に、本格的な盛夏が到来していた。
初音銀座商店街を覆うトタン屋根は、日中の陽射しをたっぷりと溜め込み、日が暮れて夜の九時を回ってもなお、巨大な鉄板のように生ぬるい熱気を路地へと放射し続けていた。
未舗装の砂利道には、近所の長屋から打ち水された跡が黒ぐろと染みを作っている。どこかの窓からは、白黒テレビから流れるプロ野球中継の歓声と、蚊取り線香の青い煙が漂い、遠くのガード下を走る京成電鉄のけたたましいモーター音が、重い湿気を引き裂くように響いていた。
ガラガラ、ピシャリ。
キリシマ食堂の正面の硝子戸が閉ざされ、内側から重い木製の閂が下ろされた。
表には、使い古された木札が揺れている。
『本日分 すべて完売御礼』
店内には、昼から夜にかけて何十人もの客が残していった熱気と、ラードの焦げた匂い、そしてデミグラスソースの甘く重厚な余韻が、濃密な空気となって漂っていた。
「かァーーーッ! 美味い! この一杯のために生きてるようなもんだぜ!」
客席の中央のテーブルで、大山源三が豪快な喉鳴らしとともに、アサヒビールの茶色い大瓶からコップへと琥珀色の液体を注ぎ、一気に呷っていた。
白頭巾を脱ぎ捨て、首に巻いた手ぬぐいで汗を拭う源三の顔は、赤銅色に染まり、満面の笑みを湛えている。
無理もなかった。
結衣が『特製・開花オムライス』を投入し、店舗のファサードを磨き上げ、手書きの黒板POPを掲げてから、ちょうど一ヶ月。
キリシマ食堂の快進撃は、とどまるところを知らなかった。
最初は本田鉄工所の男たちだけだった客足が、近隣の町工場全体へと波及し、今や昼の開店前には二十人以上の行列が当たり前になっていた。三十食限定だったオムライスは連日一時間足らずで完売し、夜の営業でもポークカツレツやハヤシライスが飛ぶように売れた。
向かいの蕎麦屋「やぶ忠」や中華「宝来軒」の嫌がらせすら、押し寄せる客の波の前には完全に無力化されていた。
「おい、結衣! お前も突っ立ってねえで、サイダーでも飲みな! 今日は八百杉の勇の奴が、市場の美味いスイカを持ってきてくれたんだ。切ってやるぞ!」
源三は立ち上がり、座敷の奥から冷えた大玉のスイカを抱え出してきた。
カウンターの木製レジ引き出しは、半開きになったままだった。中には、折れ曲がった百円札、真新しい五百円札、そして銀色に輝く百円玉や五十円玉が、トレイから溢れんばかりにぎっしりと積み重なっている。
「見ろよ、この札の山を!」
源三は上機嫌で引き出しを叩いた。
「俺が浅草で店を畳んで、この初音銀座に逃げてきてから十五年……こんなに金が入ってきた月は一度もねえぞ! 売上は去年の同じ月の倍以上だ! 倍だぞ、倍! がはは! ざまあ見やがれってんだ、やぶ忠の忠吉め! チンドン屋だのインチキだの抜かしやがって、これが本物の職人の腕の力よ!」
源三はビールをもう一杯あおり、ご機嫌で鼻歌を歌い始めた。
客は入った。料理は絶賛された。街の噂になった。
昭和の昔気質な料理人にとって、「客が押し寄せ、レジに札束が唸っている」という光景は、完全無欠の勝利そのものだった。
――だが。
その浮かれきった空気のただ中で、桐島結衣だけは、まったく笑っていなかった。
「…………」
結衣は客席の一番隅、白熱電球の光が辛うじて届く薄暗いテーブルに、一人で腰掛けていた。
卓上に広げられているのは、寺岡堂から買い求めてきた三冊の厚手の大学ノート。
その横には、使い込まれた黒塗りの四珠そろばん。
そして、八百杉、肉屋の「肉の丸長」、乾物屋、酒屋、氷屋から回されてきた、油と醤油の染みた無数の納品伝票の束だった。
パチ、パチパチパチ……。
静かな店内に、そろばんの乾いた木片の弾ける音だけが、氷のように冷たく響いていた。
結衣の顔から、完全に血の気が引いていた。
額にはじっとりと脂汗が滲み、鉛筆を握る指先が小刻みに震えている。
「……嘘でしょう……?」
かすれた呟きが、結衣の乾いた唇から漏れ出た。
そろばんの珠を払い、もう一度、慎重に数字を弾き直す。
パチパチ、パチパチ、パチ……ご破算で願いましては。
何度計算しても、導き出される答えは同じだった。
一桁の狂いもなく、ノートの右下に引かれた二重線の横に、その残酷な数字が鎮座していた。
「おいおい、結衣ちゃん。まだ帳面つけなんかやってるのかい?」
引き戸の隙間から、穏やかな声が響いた。
寺岡雅之だった。
商店街振興会の集金鞄を肩から提げ、銀縁の丸眼鏡を指先で直しながら、涼やかな顔で入ってきた。
「大山さん、こんばんは。景気がいいですね。表まで笑い声が聞こえていましたよ。……今月の振興会費と、街灯の維持積立金の集金に伺ったのですが」
「おお、寺岡か! 上がれ上がれ、ビール飲んでけ! 今月の会費くらい、鼻紙に包んでくれてやるわ! がはは!」
源三が豪快に手招きする。
寺岡は苦笑しながら客席へ足を踏み入れ、ふと、鬼気迫る表情でそろばんを睨みつけている結衣の姿に目を留めた。
「……桐島さん? どうされたのですか、そんな恐ろしい顔をして」
「寺岡さん……」
結衣は震える瞳で、寺岡を見上げた。
「寺岡さん……お願いです。この数字、検算してもらえませんか……? 私、昭和の通貨感覚でおかしくなっちゃったのかと思って……手が、震えて……」
「え……?」
ただならぬ気配を察知した寺岡は、穏やかな笑みを引っ込め、結衣の隣の椅子を引いた。
卓上の大学ノートを覗き込む。
そこに描かれていたのは、寺岡がかつて見たこともないほど緻密で、完璧に体系化された「管理会計シート」だった。
上段には、日ごとの売上高。
中段には、食材ごとの仕入れ高(変動費)。
下段には、ガス、水道、電気、氷代、店舗の地代、そして減価償却費(固定費)。
それらが、単なる入出金の記録ではなく、項目ごとに分類され、売上に対する構成比率まで算出されていた。
「これは……」
寺岡は眼鏡の奥の目を丸くし、息を呑んだ。
「素晴らしい……複式簿記どころの話ではないな。大企業の財務部が使うような、完璧な損益計算書(P/L)だ。……しかし、桐島さん。この最下段の数字は……一体どういうことですか?」
「見間違いじゃないんですよね……? 寺岡さんから見ても……」
「ええ……。検算するまでもありません。計算のロジックに寸分の狂いもない」
寺岡の声が、強張った。
二人の深刻な囁き合いに、ようやく気づいた源三が、ビール瓶を片手に眉をひそめて近寄ってきた。
「なんだなんだ、二人して湿気た面突き合わせやがって。せっかくの大入り満員の夜に、葬式みてえな空気出すんじゃねえよ」
「源さん」
結衣は立ち上がらなかった。
座ったまま、鉛筆を置き、ゆっくりと源三の顔を見上げた。
その瞳の奥に宿る光は、昼間の明るい看板娘のものではなかった。
数字の冷徹な刃で幾重もの修羅場をくぐり抜けてきた、令和のディレクター――組織の真実を容赦なく暴き出す「冷徹な参謀」の顔だった。
「源さん。……今月の売上、いくらあったか分かりますか?」
「あァ? そりゃあ、引き出しを見りゃ分かるだろ。十万……いや、十一万近くはあるはずだ。去年の倍だぞ! 大儲けじゃねえか!」
「十一万二千四百円です」
結衣はノートの最上段の数字を読み上げた。
昭和四十五年における十一万円。大卒初任給が約四万円の時代において、個人経営の小さな飲食店が一ヶ月で叩き出す売上としては、まさに破格の数字だった。
「ほら見ろ! 十一万だ! 俺の目に狂いはねえ!」
源三は胸を張り、ビールを煽ろうとした。
だが――結衣の次の一言が、その腕を空中で完全に凍りつかせた。
「じゃあ、源さん。……今月、この店に残った『純利益』は、いくらだと思いますか?」
「あァ……?」
源三が怪訝そうに目を瞬かせた。
「純利益だァ? そんな小難しいこと知るかよ。仕入れの金を払って、ガス代払って、残った金が全部利益だろ。引き出しに札が唸ってんだから、三万や四万はガッポリ残って――」
「マイナス、三千二百円です」
「…………は?」
源三の口から、間の抜けた音が漏れた。
店内の空気が、ピシリと音を立てて凍結した。
換気扇の回る音も、遠くのプロ野球中継の歓声も、すべてが遠い世界の出来事のように消え去っていく。
「……おい。小娘、今……なんて言った」
「マイナス三千二百円。赤字です」
結衣は、淡々と、しかし一言の容赦もなく宣告した。
「先月の閑古鳥が鳴いていた時期の赤字が、約五千円でした。今月、あれだけ毎日行列を作って、三十食限定のオムライスを完売させ、夜も満席にして、朝から晩まで死ぬ気でフライパンを振って……手元に残ったのは、利益どころか、三千二百円の『持ち出し(赤字)』です」
「ざ、ざけんじゃねえぞッ!!」
ドガァン!!
源三が手にしたビールのコップを、テーブルの上に叩きつけた。
泡立った黄色い液体が飛び散り、ノートの端を濡らす。
「テメエ、人をからかうのも大概にしろよ! 十一万も売り上げたんだぞ!? 毎日毎日、客が押し寄せて、飯を炊くのが追いつかねえくらいだったんだぞ! その金がどこへ消えたって言うんだ! 誰かが金を盗んだってのか!?」
「誰も盗んでいません。全部、正規に支払われたものです」
結衣は飛び散ったビールを布巾で静かに拭い、ノートを源三の目の前へ突き出した。
「源さん、これを見てください」
ノートの見開きいっぱいに、赤と青の鉛筆で引かれた、巨大な円グラフと棒グラフが描かれていた。
「これが、今月の支出の内訳です」
結衣は人差し指で、円グラフの半分以上を占める巨大な赤い扇形を叩いた。
「まず、最大の元凶――食材の仕入れ代金。これが、売上十一万二千円に対して……なんと、六万一千円に達しています」
「なっ……六万……!?」
「飲食店の経営において、売上に対する食材費の割合――『原価率』は、通常三十パーセントから、どんなに高くても三十五パーセント以内に抑えるのが鉄則です」
結衣の声は、冷静沈着そのものだった。
「寺岡さん、商店街の他の飲食店……やぶ忠さんや宝来軒さんの原価率は、だいたいどれくらいですか?」
振られた寺岡が、眼鏡の位置を直しながら重い口を開いた。
「……ええ。振興会の帳簿を見ている限り、蕎麦屋や大衆中華は、だいたい二十五パーセントから三十パーセント前後ですね。粉物やラーメンは原価が低いですから」
「そうですよね」
結衣は源三を見据えた。
「でも、キリシマ食堂の今月の原価率は……驚異の『五十四パーセント』です」
「ご、ごじゅう……四……!?」
源三の顔から、急速に赤みが引いていった。
「売上の半分以上が、食材の仕入れだけで消えているんです。残りの四十六パーセントの中から、何が引かれるか分かりますか? 連日中華鍋とオーブンをフル稼働させたプロパンガス代、寸胴を洗い続けた水道代、そして氷室の氷代。これが跳ね上がって、売上の十五パーセント。さらに、店舗の地代と雑費が二十パーセント。……全部足し算してください。五十四足す、十五足す、二十は?」
結衣は寺岡堂のそろばんの珠を、ジャッと力強く弾いた。
「八十九パーセント。……ここに、割れた皿の補充代や、八百杉へ払うべき月末の追加請求書を乗せたら、ちょうど百パーセントを超過します。手元に一銭も残らないどころか、源さんの人件費――給料すら一円も出ていません!」
「な……な、なんでだ……」
源三は膝から崩れ落ちるように、丸椅子へドカリと腰を落とした。
小刻みに震える両手。
「なんでそんなに仕入れがかかるんだよ……! オムライスは二百三十円取ってんだぞ! 蕎麦の倍以上の値段だぞ!?」
「理由は三つあります」
結衣はノートをめくり、一枚の原価積算表を突きつけた。
「第一に、源さんの『職人気質による過剰なポーション(盛り付け量)』と、材料の無駄遣いです」
「む、無駄遣いだと……!?」
「無駄遣いです」
結衣は容赦なく切り捨てた。
「開花オムライス。朝採れの新鮮な卵を三個、裏漉しして贅沢に使っています。これだけで卵代が約三十円。チキンライスの鶏肉は、冷凍の安物を使わずに新鮮な若鶏のモモ肉を惜しみなく百グラム近く放り込んでいる。さらに、ラードだけじゃなく上質な有塩バターを一皿に二欠片も投入している。……極めつけは、あの秘伝のデミグラスソースです!」
結衣は厨房の奥の真鍮の寸胴鍋を指差した。
「牛脛肉と牛骨を何キロも焼き、香味野菜を山のように煮込み、赤ワインを惜しげもなく注ぎ込む……。浅草の一流店の味をそのまま再現しているから、あのデミグラスソースは、お玉一杯だけで原価が四十円以上かかっているんです!」
「…………!」
「原価を計算してください。卵三十円、鶏肉三十五円、米と調味料で十五円、バター十円、デミグラス四十円……一皿の食材原価だけで、合計百三十円を超えています。二百三十円で売って、原価が百三十円。原価率は五十六・五パーセントです!」
数字の弾丸が、老職人の胸を容赦なく撃ち抜く。
「一皿売るたびに、百円しか粗利が出ないんです。そこからガス代と人件費を引いたら、オムライスを一皿作るたびに、源さんはタダ働きどころか、自分の寿命と店の資産を削って客に寄付しているのと同じなんです!」
「ぐ……っ、だ、だがよ……!」
源三が、脂汗を流しながら苦し紛れに絞り出した。
「オムライスは看板だから原価がかかるとしても、他の料理で取り返せばいいじゃねえか! ポークカツレツだって、ハヤシライスだって、飛ぶように売れたんだぞ!」
「それが第二の理由です」
結衣の鋭い眼光が、源三の逃げ道を塞いだ。
「ポークカツレツ。二百円。……源さん、仕入れの豚ロース肉、あらかじめ肉屋にグラム指定して切らせていませんよね? 塊肉で仕入れて、自分の目分量で包丁を入れてますよね」
「あ、ああ……俺の長年の勘で、一番美味い厚みに切り落としてる」
「その『勘』のせいで、一枚あたりの肉の重量が、百二十グラムから百五十グラムまでバラバラなんです!」
結衣は納品伝票を突きつけた。
「豚肉の仕入れ単価から逆算すると、カツレツ一枚の肉代だけで百十円。そこに揚げ油のラード、高級生パン粉、添え物のキャベツとトマト、そしてデミグラスソース……原価は百二十五円に達しています。二百円で売って原価率六十二・五パーセント! オムライスより酷い大赤字メニューです!」
「な……に……!?」
「そして第三の理由。価格設定が、十年前のまま据え置かれていることです」
結衣は壁に貼られた煤けた短冊メニューを睨みつけた。
「昭和三十年代後半から、日本の物価はどれだけ上がりましたか? 肉も、野菜も、油も、この数年で三割から五割も値上がりしています。それなのに、源さんは『下町の常連に申し訳ねえから』と、ビフテキ以外の定食の値段を十年前から一円も上げていない! 仕入れ値だけが上がって、売値が据え置き……利益が出るわけがないじゃないですか!!」
静まり返る店内。
源三は、両手をテーブルについたまま、がっくりと項垂れていた。
反論の言葉など、どこにも見当たらなかった。
自分は、美味いものを作っていた。
客を喜ばせ、腹一杯食わせ、笑顔で送り出していた。
浅草で修行した職人としての誇りを胸に、妥協のない最高の食材を使い、火の番をし続けていた。
その結果が――「赤字」。
大繁盛の果ての、無一文。
「……嘘だろ……」
源三の掠れた声が、喉から絞り出された。
「俺は……朝の四時から仕込みをして……一日中鍋を振って……客をあんなに笑顔にして……。なのに、一銭も儲かってねえってのかよ……? 俺のやってきたことは……全部、間違いだったってのか……?」
老職人の瞳から、光が失われていた。
何十年も守り続けてきた「職人のプライド」という名の城が、無機質な数字の前に、音を立てて瓦解していく。その背中は、痛々しいほどに小さく丸まっていた。
「大山さん……」
寺岡が痛ましげに声をかけようとした。
だが、結衣は容赦しなかった。
ここで同情して傷を舐め合っても、待っているのは破滅だけだ。
結衣はテーブルに両手を突き、源三の鼻先へと身を乗り出した。
「源さん。このままいけば、何が起きるか分かりますか?」
「…………」
「『黒字倒産』です」
冷酷な響きを持つ、四つの文字。
「令和の時代にも……いえ、未来の日本でも、星の数ほどの飲食店がこれで潰れていきました。客は並んでいる。注文はひっきりなしに入る。売上は過去最高を記録している。……それなのに、月末の支払いの日に、銀行口座のお金が底をついて、仕入れ代金が払えなくなって、ある日突然シャッターを下ろすことになるんです」
結衣の声が、店内に重く響き渡る。
「八百杉の勇さんが届けてくれた新鮮な卵も、肉の丸長さんが信用で回してくれた豚肉も、月末に支払えなくなったらどうなりますか?『キリシマ食堂は売上を持ち逃げした』『源さんは夜逃げした』と後ろ指を指され、この街で築いてきた信用は一瞬で灰燼に帰すんですよ!?」
「っ……!!」
源三の肩が、激しく跳ね上がった。
「そんなのは……そんなのは絶対に嫌だ!!」
源三は顔を上げ、血走った目で叫んだ。
「俺は……浅草で一回、店を潰してんだ! 借金を背負って、死んだ女房に苦労ばかりかけて、逃げるようにこの初音銀座へ流れてきたんだ! この店まで潰したら……俺は、何のために今まで生きてきたのか分からねえよ!!」
老職人の魂の叫び。
剥き出しの恐怖と、後悔と、絶望。
その激しい感情を、結衣は真正面から、逃げずにすべて受け止めた。
ふう、と。
結衣は小さく息を吐き出し、強張っていた表情をすっと和らげた。
そして、テーブルの上の大学ノートを、パタンと音を立てて閉じた。
「潰させません」
その声は、驚くほど静かで、温かく、そして鋼のように強靭だった。
「源さん。私がこの店にいる限り、キリシマ食堂を絶対に潰させたりしません」
「結衣……?」
源三が呆然と結衣を見上げる。
結衣はエプロンの紐をきゅっと締め直し、仁王立ちになって胸を張った。
その立ち姿は、もはや雨の日に路地裏で泣いていた行き倒れの娘ではなかった。
下町の小さな食堂を背負い、時代の荒波から大切な居場所を守り抜くことを誓った、真の「女帝」の姿だった。
「人を呼ぶだけじゃ、店は守れません。美味しいものを作るだけじゃ、商売は続けられないんです」
結衣の瞳に、不屈の闘志が燃え上がっていた。
「いいですか、源さん。数字は残酷です。でもね、数字は絶対に嘘をつきません。弱点がどこにあるのか、どこを直せばいいのかを、完璧に教えてくれる最高の地図なんです」
「地図……?」
「そうです。客を呼ぶためのデザイン(集客)は成功しました。次は――店に確実にお金を残し、源さんが正当な利益を受け取るための『経営の構造改革』を始めます」
「けいえいの……りすとら……?」
横で聞いていた寺岡が、思わず唾を飲み込んだ。
「桐島さん……一体、何をするおつもりですか?」
結衣は寺岡に向き直り、不敵な笑みを浮かべた。
「明日から、徹底的な『仕入れと原価の完全改革』に着手します」
結衣は指を一本ずつ立てて、淀みなく戦略を告げた。
「第一に、メニューの絞り込みと『ABC分析』。売れていない死に筋メニューをすべて排除し、食材のロスを極限までゼロにします。第二に、八百杉さんと肉の丸長さんに対する、仕入れ値の『まとめ買い(バルク購入)交渉』。相場に左右されない安定価格を勝ち取ります。そして第三に――規格外の野菜や肉の端材を、極上の高利益商品へと化けさせる『新メニューの開発』です!」
寺岡の銀縁眼鏡の奥が、カッと見開かれた。
「規格外の素材を……高利益商品に……!?」
「はい。源さんのあの神がかった腕があれば、ゴミ同然の端材だって、銀座の高級洋食に化けさせることができます。原価率を三十パーセントまで引き下げ、なおかつ客単価と満足度を同時に跳ね上げる……下町最強のビジネスモデルを構築します!」
結衣の言葉には、一片の迷いも、誇張もなかった。
令和の過酷な市場競争の中で、数々のクライアントの事業再生を裏方として支え続けてきたプロフェッショナルのロジック。
その圧倒的な熱量と説得力に、寺岡は鳥肌が立つのを抑えられなかった。
「……恐ろしい人だ」
寺岡は感嘆の溜息を漏らした。
「大山さん……あなたは、とんでもない守護神を拾い上げましたね。この方は……ただの看板娘などではない。この初音銀座商店街を丸ごと変えてしまうかもしれない……本物の『参謀』ですよ」
「…………」
源三は、言葉を失っていた。
テーブルの上に乗せられた、結衣の華奢な手。
その手は、泥にまみれ、クレンザーで荒れ、鉛筆の黒鉛で汚れていた。
自分を助けるために。
この店を守るために。
一晩中そろばんを弾き、数字と格闘し、冷酷な現実を突きつけ、そして誰よりも力強く「潰させない」と言い切ってくれた、未来から来た少女。
源三の目頭が、熱くなった。
老職人は、両手で顔を覆い、深く、深く頭を下げた。
「……結衣」
震える声。
「頼む。……俺に、商売のことは分からねえ。美味いもんを作る以外、能のない阿呆だ。……だが、お前の言う通りにする。鍋の振り方以外は……全部、お前の指図に従う。だから……この店を、助けてくれ」
浅草の誇り高い頑固親父が、三十以上も歳の離れた娘に対して、深々と頭を垂れた。
その姿に、結衣の胸も熱く震えた。
「はい!」
結衣は力強く頷いた。
「任せてください、源さん。……私たちが作る料理は、絶対に世界一です。だから、商売だって絶対に負けません!」
柱時計が、ボーン、ボーンと深夜零時を告げる鐘を鳴らした。
夜気は依然として熱く、初音銀座商店街は深い眠りへと沈んでいた。
だが、キリシマ食堂の灯りだけは、消えなかった。
机の上に広げられた大学ノートと、黒光りするそろばん。
感情論と勢いだけで走り抜けた第一幕が終わり、冷徹な数字と戦略を武器にした、真のサバイバルが幕を開けようとしていた。
令和の社畜女子・桐島結衣が、下町を統べる「女帝」として、その鋭い牙を研ぎ澄まし始めた瞬間だった。




