後編
「丁寧に扱いなさい。汚したりしたらお仕置きですからね」
「はっ!」
馬車の御者に最後の荷物を渡したエリーゼは、大きく吹いた夜風にあおられた銀の髪を手で押さえた。
そしてふと、目の前にそびえる学園の校舎を見上げる。
城とも言っていい堅牢かつ優美なこの建物で過ごした期間は一年にも満たない。
短いが、この数週間はとても濃い日々を過ごさせてもらったが故、今日で最後だと思うと感慨深いものがあった。
(悪役の生家らしく、本当に愛情皆無の家で良かったわー。婚約破棄が決定的になるなり速攻で見限ってくれるのだもの)
……食堂での騒動からすでに半月。
先週、エリーゼとセルビオの婚約は正式に破談となった。
王子に捨てられた娘という肩書きは公爵家にとっての傷でしかなく、遠くに行きたいと言うエリーゼの希望はむしろ歓迎された。
同情たっぷりの目に見送られるのは嫌なので、こうして星空瞬く真夜中に、侍女と護衛を数人だけ連れて、夜逃げ同然で立ち去ることにしたのだ。
親には見限られたものの、正面きって勘当されたわけではない。
一応は生活費は出してもらえるし、今回も隣国への留学という形で国を出るのだ。
すでに編入手続きも済まされている。
ただもうこの国に戻ることはないだろうが。
「子羊ちゃんたちには、後で手紙でも書こうかしら」
ほんの少し、自分好みに育て上げた彼らのことが名残り惜しい。
(でも、文化も人柄も違うだろう新たな国で、また新たな苛めがいのある子を探すことはとっても楽しそう)
世界にはきっと、もっともっと可愛い子達がいるはずだ。
家柄や王子の婚約者といった色々なしがらみが薄くなった今の身では自由に動けることも増えるはず。
今までよりも更に沢山の人を侍らせてみたいと、エリーゼは燃えていた。
そんなことを考え希望に胸をときめかせながら校舎を見納め、さて馬車へと乗り込もうとした時。
「エリーゼお姉さまっ!」
かけられた声に振り返ると、ヒロインのサクラに手を出せなくなって以降、エリーゼの中で一番素敵な泣き顔だと思っている人物がこちらへ小走りでやってくるところだった。
「アンナ」
「窓からお姉さまが見えたもので……こんな真夜中にどちらへ」
肩で切りそろえられた彼女の茶髪は降ろされ、ネグリジェの上にカーディガンを羽織っただけの恰好だ。
急いで来たのだろう、吐く息が早く、頬も少し赤らんでいる。
「アンナ、淑女がそんな恰好で外へ出るなんて。何てはしたない子かしら」
「すみません……」
エリーゼの前に立ち、赤い顔をして身をすくめたアンナ。
彼女は隣に停まる馬車の開いた扉から大きな荷物が覗いていることに気づいたらしい。
その荷物と、明らかな旅装のエリーゼを交互にみて、おそらく察したのだろう。茶色い瞳が大きく揺れた。
「お姉さま……」
絶望に満ちた表情で唇を震わせ、エリーゼに泣きそうな顔を向けてくる。
言葉もでないほどに動揺している様子の彼女にもエリーゼは動じる事なく、凛とした態度を貫いた。
「もう痛みはないの? ずいぶん腫れていたでしょう」
「え、えぇ。もう平気です」
「そう。まぁ私にはどうでもいいけれど」
Sというより、ツンデレと呼んだ方がただしい反応をしていることに、エリーゼは一拍置いてから気がついた。
それに気づいているのかいないのか、アンナは不安そうに眉を下げる。
「お姉さま。また、お会いできますか?」
「……さぁ」
「っ、―――どちらに、行かれるのですか?」
「行先は隣国のナーヤの王都中央学園よ。さすがに人並みの学歴くらいは娘に持たせてやらないと立場上困るらしくて、親が」
「ナーヤ……そうですか」
明らかに沈んでいるアンナを前に、エリーゼはつんと顎を上げる。
「私、もうこの国は見限りましたの。つまらないのですもの。むこうの学校でいい子猫になりそうで、かつ将来有望そうな異性でも探そうと思うわ」
王子の婚約者という立場があったが為に甘やかされまくって育てられた。働く術なんてもちろんエリーゼは持っておらず、数年後に学校を卒業したあと一人で生きて行くことは出来ないだろう。
王妃という超安泰だった永久就職先も逃してしまった。
前世の記憶の中の自分はそんなに頭が良いわけでもなかったらしく、商売等始めるのも無理そうだ。
公爵家の娘なのだから元王子の婚約者の肩書きがあっても縁談はある。でも、この国にはもう極力関わりたくなかった。
だからこそ留学期間中に隣国で、一生泣かせて可愛がっていける伴侶を探したいところなのだ。
エリーゼの説明を聞いたアンナは、しばらく考え込むように黙っていた。
しかしやがて何かを決意したように固い声で言う。
「お姉さま、私もナーヤに帰ることにしました。今日明日というわけにはいきませんが、お姉さまが行く学校にわたしも編入します」
「帰る?」
「はい。実は私は、ナーヤからこちらに留学している身分なのです。……でも、お姉さまのお傍に付いて居たいので、帰ることにしました」
アンナの言葉にエリーゼは眉を吊り上げ、きっぱりと拒絶する。
「そういうのは、迷惑なのだけれど。なにかしら、ストーカーというやつかしら」
恥ずかしそうに頬を赤らめ縮こまるアンナは、でも引く様子はなかった。
「もっ、申し訳ありません。でもっでも……私、エリーゼお姉さま無しではもう生きていられない身体になってしまっていて……それに。お姉さま、ナーヤで伴侶探しをするとおっしゃいました、よね」
「えぇ。そうね」
「でしたら、とてもとてもお勧めの者がおります!」
「……へぇ?」
エリーゼはその話に興味をひかれた。
隣国ナーヤとこの国はあまり交易がない。
夫を探すと言っても伝手も情報もないのだ。
「どこの家の、なんという方かしら。貴方の名前を出せば通じる?」
「えぇ。もちろん。だって、ここにおりますから」
「は?」
アンナは頬を赤く染め、おっとりとほほ笑んだまま自分自身を指さしていた。
「アンナ、何を言って……」
意味の分からないことに苛立ったエリーゼが叱責しようとしたとき。
アンナが「失礼します」とエリーゼの右手を取り、そのまま彼女の胸へとペタリと当ててしまった。
相手が異性ならば色仕掛けにもなったのだろう。
だが、女が女の胸に手を当てられても何もならない。
本気でエリーゼが声を荒げようとして赤い唇を開いたところで、ふと。その手の感触に違和感を覚えた。
「…………」
「…………」
眉を寄せたエリーゼと、今か今かと叱られることを望んで目元を潤ませているアンナの視線が交わり合う。
エリーゼはそんなアンナの期待に反して、わずかに動揺した震えた声を出した。
「な、無い……?」
ささやかなんてものじゃない。
一切ない。
無いどころか、布ごしに触れているのは固い胸筋で、いくら鍛えているといったって女性には無理がある硬さだ。
しばらくアンナの胸元に手を当てたまま呆けていたエリーゼは、アイスブルーの切れ長の瞳を瞬かせつつ、おそるおそる声を上げた。
「アンナ。貴方、ただ小さなだけだと思っていたのだけど。その……」
目の前にあるアンナの顔は、女性にしては高めの身長のエリーゼよりもまだ少しだけ高い位置にある。
茶色い瞳は少したれ目気味。
目元にある泣きぼくろが、おっとりとして儚く見える彼女の雰囲気にとても合っていた。
その瞳と視線を合わせたままでいるエリーゼに、アンナは眉を下げて、少し申し訳なさそうな表情でほほ笑む。
「だますような形になってしまい、申し訳ありません。男です」
「なっ!」
「お疑いなら下にもどうぞ触れてくださいませ」
「っし、し、したって……! っていうか声色まで変わって……!?」
いくらドSだと言ったって、前世の記憶をもっていたって、良家の箱入り娘。
直接的な下ネタは刺激の強すぎる内容だった。
しかしアンナは止まらない。
はぁはぁと息を荒げ、勢いよく身をささげようとしてくる。
「エリーゼお姉さまになら、何処をどうされたって構いません! むしろご存分に上も下も苛めてくださっ―――むぐっ」
真っ赤な顔をしたエリーゼが、手のひらでアンナの口を思い切り抑えた。
顔は熱くてたまらないのに、エリーゼの背筋には悪寒が走っていた。
「まさか…お、男の娘だなんて……」
思わず滑りでてきた日本の専門用語にアンナは首を傾げたが、すぐに目元を下げる。
口を覆っていたエリーゼの手が取られたかと思えば、アンナはそれを両手で覆い、握りしめたのだ。
エリーゼが抵抗して手を引っ張っても、彼の手に捕らわれた手はびくともしない。
思い通りにならないことに苛立つエリーゼに、彼は興奮した様子で懇願した。
「わた……ではなく、俺と結婚してくださいませんか」
「え、えぇぇ? ―――というか、どうして女装を? 私に求婚してくるということは、心が女性というわけではないのでしょう?」
「はい。身も心も男です。その……我が家は男児のみが家督を受け継ぐ決まりでして、ちょっと激しくなりすぎて命の危険まで出て来た家督争いから隠れるために、名前と身分と性別を隠してこちらの国へ避難していたんです」
「あら」
結構複雑な事情だったのかと、女装に引いた自分が申し訳なくなった。
しかしそんな罪悪感は、次にキラキラと輝く瞳で吐き出されたアンナの言葉に吹き飛んでしまう。
「でもご安心ください! 先日、無事に家督争いから弾かれました!!」
「弾かれたんだ……」
「虐げられるのか好きだなんて、上に立つ立場としては問題がありますからね!!!」
「確かに。叱られて喜んで言う事を聞いていたら家の没落へ真っ逆さまよね」
「でも幾つか家業がございまして、将来はそのうちの一つを任される予定なので生活に苦労はさせません。まぁ公爵家と比べると劣るでしょうが」
「…………」
エリーゼは別に贅沢が好きなわけではない。
可愛いものも綺麗なものも好きであったし、家に金はあるから今まで使ってきた。
庶民から見れば贅沢過ぎるだろうが、身分相応な使い方だったと思う。
しかし家に見放された現在はもうこれまでほどの高価なドレスや宝石を手に入れるのは難しいと自覚していた。だからアンナに貰われても特に生活面での不満は起きそうにないのだ。
(え? いやいやいや。何を考えてるの私! どうしてアンナとの未来の生活を想像しちゃってるのよ!)
頭を振って自分の頭の中の思考を消そうとするエリーゼの手を握るアンナは、恍惚とした顔で言葉をつづけた。
「エリーゼお姉さまの美しく凛とした佇まいも、厳しくもお優しい心根も、俺を引きつけてやまないのです。どうか、お慈悲をください」
「いいいいいい加減にしてっ、アンナ! 理由があったって私を謀っていたのは事実でしょう。そんな子、もう私は会いたくもないわ」
「これ! これです……! 貴方に叱られると、こうして身体の奥が熱くうずくのです。今までに感じたことの無い快感です! もっと罵って下さい……!!!!」
「話を聞きなさい!」
「あぁ! もっとなじって下さい! その冷たい瞳で蔑んでください!!」
「アンナ」
「あぁぁぁぁ!!! ほらお姉さま! この躾のなっていない愚図な私めに罰を!!!!」
頬を両手にそえ、もじもじとする美少女…ではなく美少年。
なんだかとても興奮しているらしく、一人で大変盛り上がっている。
エリーゼは額に青筋を立てながら、これまででの人生で一番冷ややかに言い放った。
「アンナ―――――貴方、いい加減になさい」
「っ……!」
見るものの心を凍らせる、氷の女王。
その真なる迫力に、アンナはびくりと肩を揺らし顔を青ざめさせる。
喉を震わせ、じわじわと瞳を潤めたあと、握っていたエリーゼの手をそっと離した。
そうされてもなお厳しい顔を緩めるつもりはない。
完全にアンナへの怒りを心頭させているエリーゼに、アンナは青い顔をしたまま一歩、足を引いた。
彼は怯え黙り込んでいたが、しばらくしてわずかに震えた、か細い声で口を開いた。
「あ、厚かましいことを言ってしまって、申し訳ありません。お姉様が……行ってしまうのだと思うと、……止まらなくて。お姉様がいなくなったら、…もう……本当に生きている意味がないのです。 どうか、捨てないで下さい。お姉さまっ……つっ……!」
エリーゼが居ないと生きる意味さえないという。
そこまで言い放ち、エリーゼがいなくなることに絶望し、はらはらと泣く可憐な少女。
―――――――に見える男。
彼を目の前にし、更にエリーゼは眼差しをきつく細めた。
(うーん……)
ぐいぐい来られるのは、嫌だ。
主導権を握られるのは好きじゃない。
話を聞かずに一人ではぁはぁ言っている男なんて気持ち悪いとも思う。
けれど、こうやって赤くなって震えて泣くアンナの姿は、本当にとてもとてもエリーゼ好みなのだ。
この子の泣き顔は本当に可愛いのだ。
(――――あくまで、私がご主人なのよ)
ずっと泣き続けているアンナの揺れる瞳と赤く染まった頬を見ていると、嗜虐心をあおられる。
しゃくりあげる彼女を前に、エリーゼは熱い吐息を無意識に吐いていた。
――――男とか女とか、ではなく。
アンナの涙はとにかく、エリーゼ好みなのだ。
(この子の勢いに負けてなるものですか)
エリーゼは気合いを入れて背筋をただし、もっともっと冷淡に、かつ冷酷に見えるように自分を魅せる。
指の先まで優雅に。
足の先まで隙なく。
目元は冷ややかに細めたまま、口元だけに弧を描く。
「え、エリ、ゼ……さま……」
ゆったりとした動作でアンナへと一歩、二歩と近づいたエリーゼは、彼の目をまっすぐに射抜き、命令する。
「アンナ。……私を手に入れたいのなら、それだけの殿方になりなさい」
「っ!!!!」
茶色の瞳が大きく見開かれた。
「何をするか、どうするかまでは私に聞かないで、鬱陶しいわ。とにかく先ほどのような貴方は嫌よ。私の子猫ととして可愛くないもの。せいぜい、私がその気になるようにこれから頑張るのね」
「お姉さま! はい……!!!」
そうして先に隣国へと立ったエリーゼをアンナはストーカーのごとく追いかけてやって来る。
今度は完全に男となった姿で、男として求婚をしつつ、罵られることを求めてくる。
そんな彼に翻弄されながらも、絶対に主導権を渡してなるものかとエリーゼは苛めに磨きをかけまくった。
年月をかけて彼女は隣国で自分に服従する者たちを増やし、やがて大陸中に名を知られるほどの一大勢力を築き上げるのだった。