第1章ー1
締めつけられるような激痛が走る胸をぎゅっと握りこぶしで押さえたまま、彼女はパソコンのキーボードに顔をうずめた。声を出すことができない。息すらまともにできない。
(このまま、あたし死んじゃうわけ……?)
(キーボードの跡を顔につけたまま冷たくなって、明るくなってから出勤して来た人たちに発見されるんだ……きっと朝イチから驚かせちゃうよね、ごめんなさい)
と、佐藤結衣二十六歳は思った。
(最期は誰も残っていない深夜のオフィスか。せめて自宅のベッドの上が良かった。苦しむことなく、寝ている間に心臓が止まるとかが良かったよ……)
そこまで考えてから、結衣は急に空しくなってきた。痛みはもう感じない。きっともうすぐ心臓も止まってしまうのだろう。
(あれか、21グラムの魂ってやつかな、今のあたし……)
人が死亡した直後、質量が21グラムだけ軽くなっていた。きっとそれが魂の質量だ、なんていう記事をネットか何かで見たような気がする。
(ていうか、良い人ぶって先輩の仕事まで引き受けて、睡眠時間もプライベート時間も削りに削って頑張った結果がこれかぁ。あたし可哀相すぎない?)
(大学生の時は良かったよなぁ。それなりに忙しくバイトはしてたけどさ、ダラダラしながら乙女ゲームとかやってたよなぁ)
と、そこまで考えてからハッとする。
(ってかこの流れって、死んで乙女ゲームの悪役令嬢に転生して無双しちゃう流れじゃない? きっとそうだ。なら、来世は何があっても絶対に確実に……)
結衣は気持ちだけ握りこぶしを天高く振り上げた。
(定時で帰ってやるんだからなぁぁぁっ!!!)
などと、佐藤結衣はこと切れた瞬間でさえも考え続けていたのである。
だから。
「ユイカ様? お加減でも悪いの? 先ほどからずっと胸を押さえてらっしゃるけれど?」
密やかな小声で話しかけられた瞬間まで、周囲の環境が一変していたことに気づかなかった。ハッと我に返り、辺りを見回した結衣は今度こそ心臓が止まるかと思った。
いや、一度完全に停止したのだが。
「なっ……!?」
高い天井。何メートルあるのか分からないほど大きなガラス窓。その窓から柔らかな陽光が降り注いでいる。
外からは鳥の鳴き声だろうか、穏やかで気持ち良さそうな囀りが聞こえ、まさに優雅な貴婦人の午後、という雰囲気ですらある。
そして今、結衣が立っている場所は、学校の廊下のようだった。無駄に豪奢できらびやかではあるけれども。
なぜ学校だと思ったかというと、周りにいる若者たちが皆揃いの制服を身につけていたからである。そしてひそひそと声を落として話しながら結衣たちを見ている。
しかし結衣は彼らが話している内容よりも、自分が無遠慮に見られていることよりも、彼らが着用している制服に目が釘付けになった。そのデザインにものすごく、本当にものすごく見覚えがあったから。
「ルミナス……学園……?」
彼女が死ぬ前に走馬灯の中で思い出していた大学時代にやりこんだ唯一の乙女ゲーム。
『乙女の祈り~ルミナス学園の光となりて~』のキャラクターたちが着ていた制服に違いなかった。
本当に自分は異世界転生してしまったのか、本当にあの紅い髪と同色の意思の強そうな瞳を持つ、美しいが気位の高い悪役令嬢、エグランティーヌ・ド・ローランに転生してしまったのだろうか。
その時。目の前にいた女生徒がくるりとこちらに振り向いた。その紅い瞳には嘲りのような色が混じっていた。
「一体何をぶつぶつ呟いてらっしゃるの、ユイカ様? ただでさえ陰気なのに、余計に気味が悪いですわよ?」
まったくもって失礼な物言いだが、当のご本人に全く悪びれた様子はない。結衣はまたしても驚きのあまり声を出せなかった。
「この私、エグランティーヌと共にありながら放心するなんて、無礼にも程があるのではなくて?」
鮮やかな深紅の瞳が結衣を睨みつけている。
美しい造形の顔を歪ませ、その手に持った扇で結衣の眼前を指し、イライラした様子で悪役令嬢エグランティーヌ・ド・ローランは両脇に二人の取り巻き令嬢を従えて立っていた。
そうだった、と結衣は思った。思い出した。人に良いように便利に使われた挙句、電池の切れた玩具のように結衣の心臓が動きを止めたこと。
つまり過労死したことを。
そして自分はこの世界で名前を持っていること。そう、ユイカ・フォン・フォルンシュタインだ。
目の前の紅い髪、紅い瞳を持つ彼女はこの乙女ゲーム内の悪役令嬢。
ユイカは三人いる悪役令嬢の取り巻きの内の一人ではあるが、ゲームでは名前も立ち絵も顔もないモブであること。
事実、ユイカの立ち位置もこの取り巻き三人の中では最下位であった。愛想笑いを顔に貼り付けて、エグランティーヌの取り巻き、という立ち位置を必死に守り続けていたのだ。
(転生した先でも、あたしは自分を殺して生きてたのか……情けない)
突然に、急激に、大量に呼び起こされた前世の記憶と、この世界で十八年間刻んできた記憶が混ざり合ったことによって起こった混乱を振るい落とすように、ユイカは頭を何度か振り、深呼吸をしてから両手をぎゅっと強く握った。
(死ぬ前の決意を思い出せ結衣。あたしは、もう良い人ぶって自分を削り続けた人生を繰り返したりなんかしない!)
大きく息を吐き、視線を上げた。はっきりと良く通る声で、ユイカは目の前の公爵家令嬢に物申した。
「失礼いたしました、急に眩暈がしたもので。それと同時にバカバカしくなりまして」
と。
※次回、悪役令嬢に物申すモブC!!




