(13) 本当の無重力空間
ようやくGEO(静止衛星軌道)ステーションに到着です。これから2泊、クライマーを離れてこの施設に一時滞在します。ここで乗客たちは、本当の無重力空間に出会います。クライマーの中の、微重力空間とはひと味違いますよ。
「おくつろぎ中のことと思いますが、お知らせいたします。あと15分ほどで当機は静止衛星軌道ステーション『The 1st STAR』に到着いたします。スクリーン上方をご覧ください。30kmほど先に見えてきますのが、第1の目的地『The 1st STAR』でございます」
コンパートメントで食休みをしていたとき、スクリーンにウィンドウが現れて、アリシアさんが目的地への到着を告げた。いよいよGEOステーションだ。
「おー、……って、まだどれかわかんないね。私には見えないや。お兄ちゃん見える?」
パーリャは、また目をしぱたたかせてスクリーンの上の方をにらんでいる。人相悪いからその見方やめて眼鏡かコンタクトにしろよ。と、何度目かのツッコミを心の中でして、僕は答える。
「ああ、見えるぞ。まだ点だけどな。たぶん太陽光発電のパネルか、通信アンテナか、そんな感じのものが光ってるんで、かろうじて何かあることがわかるくらいだ。もうちょっとすれば、だんだん見えてくるだろ」
そう言って、しばらく黙って上方をにらみ続けた。
ちなみにGEOとは、geosynchronous equatorial orbit(対地球同期赤道上軌道)のこと、平たく言えば静止衛星軌道のことだ。あまり平たくもないけどね。とにかくここは、宇宙エレベーターの文字通り重心であり、中心でもある施設だ。特徴としては宇宙エレベーター総延長10万キロ余りの中で、地球の衛星軌道に乗っているピンポイント、完全に無重力と言える唯一の場所だ。
「本機は、徐々に速度を緩めまして『The 1st STAR』に接近してまいります。現在車内はご承知の通りほぼ無重力となっており、この後減速を致しますと天井方向への加速度が生じます。お身体をコンパートメント内のシートに固定いただきまして、到着をお待ちいただきますようお願いいたします。また、『The 1st STAR』へのアプローチは全行程で15分間ほど必要です。到着しても、しばらくはお席を離れないようお願いいたします。準備が整いましたら、こちらからご案内いたします」
このアナウンスと同時にスクリーンに「シートベルト着用 減速による天井方向への加速度に注意」というメッセージが表示された。僕たちもシートのベルトを確認する。
アリシアさんの案内によると、GEOステーションへのアプローチ手順はこうだ。
GEOステーションの真下に接近したクライマーは、GEOステーションの200mほど手前まで進み、そこで一旦停止する。そのときGEOステーション側からの操作によってステーションのアプローチハッチが開く。そこは、マーキュリーを含めたターサ1号すべてがすっぽり入るくらいの大規模な空間だ。要するに駅のホームだと考えればいい。で、そこに進入する前に、まずマーキュリーの切り離し作業が行われるらしい。
大規模な空間と言っても、気密性があるわけでも、宇宙空間から分離されているわけでもない。まあいわば、クライマーや台車をメンテナンスするためのクレーンや足場を集めた空間で、そこは相変わらず真空だし、宇宙線だってビシバシ通過する空間だ。だからそこに進入したら、人間はできるだけ早くステーション内に移動したほうがいい。もちろん5分や10分いたからといって、どうにかなるわけではなく、無駄に居続けるのは避けた方がいいという程度である。
ちなみにステーション内の気密空間は、同時に宇宙線からも防護されている。人間が船外活動服なしに行ける空間は、地上と同等の安全性が確保されていると考えていいらしい。
ともかく、ターサ1号との接続が切られたマーキュリーは、そこから自走をはじめ、最初にアプローチハッチの中に進入する。その後、いったんハッチは閉じられて、マーキュリーをテザーから分離する作業を行うそうだ。
マーキュリーも、そしてターサ1号も、本体はテザーを挟んで二つの部分に分離できるようになっている。そしてさらに中央にはテザーを挟み込む車輪とモーターが載せられた台車部分がある。今回はその台車部分ごとマーキュリーを二つに割って、クレーンでメンテナンスのためのスペースに送り込むのだそうだ。
その作業に約10分。その後、再びハッチを開けて、今度はターサ1号がマーキュリーが取り去られた空間に進入して、ステーションに固定。気密構造になっているボーディングブリッジが合計4か所に接続され、接続の安全が確認され、気圧を調整した後、乗客を降ろす、というような手順になっているそうだ。
「ステーションにお入りいただきましたら、まずはステーションホテルにチェックインしていただきまして、お部屋にお入りいただきます。それから18時の夕食まではご自由に過ごしていただけますが、あらかじめお渡ししてあるスケジュールでヘルスチェックを受けていただきます。チェックイン時に場所と時刻などをご案内いたしますので、必ず受診をお願いいたします。」
「ステーション内でご利用可能な施設につきましては、ホテルのロビーやお部屋のアシスタントにお尋ねいただけます。もちろんスタッフにもお気軽にお尋ねください。」
そんな説明を聞いているうちに、クライマーは速度を徐々に落とし、スクリーンのステーションはだんだん大きく見えるようになってきた。クライマーがブレーキをかけると、ごく弱く加速度か生じ腕が持ち上がって、感覚的にはベッドにぶら下げられているような気持ちになるのが面白い。
このGEOステーションは、ターサの管制室やクライマーのメンテナンススペースを含んでおり、さらにステーションホテルが接続されているので、ひとまとまりで考えると相当大きい。
カタログによると、高さ方向に90m、横方向に210m×180mといった大きさがあるようで、まさにちょっとした駅ビル程度の構造物になっているらしい。もちろん、無重力下の建造物なので、ちゃんとした直方体のような形ではなく、必要最小限の構造材が、あちらこちらでつぎはぎされているようにくっついている。そしてこれからもいろいろとつぎ足されるようで、拡張用のフレームがいろんな方向に突き出ている。そのフレームの内部が、各施設への人間が通るルートになっているんだそうだ。もちろん太陽光発電のパネルや各種通信アンテナなども張り出しているので、そういう意味ではかなり不格好とも言えるが、機能美だと主張すればできないこともない。
そこでアリシアさんのアナウンスが入る。
「ただいま、ステーション前の所定の位置に停止いたしました。これからマーキュリーの切り離しとメインラインからの分離を行います。接続状況の様子はスクリーンでもご確認いただけますし、オペレーションメッセージは、引き続き車内音声チャンネル0番でお聞きいただけます」
「あ、そうだ、0番0番!ボリューム絞ってたんだ。『ボリューム上げて』!」
パーリャがあわててボリュームを上げたので、そこで初めてオペレーターが忙しく作業情報の交換をしているのがわかった。この声はもう聴きなれた、ギルバートさんの声だ。もう一人の声は知らない声で、たぶんステーション側の人の声なんだろう。
「ギルバートさん、こういう仕事をしてたんだな。接客が苦手でも別にいいよな」
「接客苦手っていうほどでもないよねえ。まあスキ・キライで言えば、キライなのかもしれないけど」
ひとしきりオペレーションの声が続き、どうやらマーキュリー関係の作業は終わったようだ。ギルバートさんの声が、一段と緊張感を帯びた気がした。いよいよステーションへの進入だ。アリシアさんの案内が入る。
「マーキュリーの剥離が終わりましたので、続いてターサ1号のステーションへの進入シークエンスを行います。クライマーが停止いたしましても、その後ボーディングブリッジが接続され、安全が確認されるまで、決してコンパートメントからお出にならないようにお願いいたします。クライマーからの退出は追ってご案内いたしますので、今しばらくお待ちください」
そして再び、ギルバートさんの声がさまざまな指示を飛ばす。声を聴いているだけでも、プロフェッショナルの仕事だという雰囲気が伝わってくる。かっこいいなあ。僕は素直に称賛したくなった。パーリャは僕よりも、もっと直接的に称賛する。
「ギルバートさん、すごいね。大したもんだ。いい仕事してるね。尊敬しちゃうよ」
そのうちにクライマーはステーション内に進入して停止し、その後、オペレーションの声と共に、ステーション内のクレーンに固定され、ボーディングブリッジが接続される。しばらくいろいろチェックして、最後にギルバートさんの指示が飛んだ。
「接続確認完了。エアロック気圧同調」
これで、ステーションとターサ1号の気圧が等しくなり、人の行き来ができるようになったはずだ。そのあとも、いろいろ確認作業が進んでいったようだが、それらもすべて順調に推移したらしく、「アンロック!」の声と共に、接続作業がすべて完了した。ほぼ同時にスクリーンのベルト着用表示が消え、アナウンスが入る。
「ただいま、ターサ1号とステーションの気圧が同調され、ボーディングブリッジの扉が開かれました。お声をおかけしましたコンパートメントのお客様から、ボーディングブリッジにお向かいください。コンパートメントにお荷物を置いていただくことも可能ですが……」
アリシアさんの注意はまだ続いていたが、早速僕たちのコンパートメントのドアがノックされた。
「カンパーネン様、お待たせいたしました。ご準備はお済みでしょうか。お済みでしたらステーションにご案内いたします」
そう言って、セルゲイさんがのぞき込んできた。僕たちはトランクを持って、……と言っても無重力なので荷物が勝手についてくる感覚だ。マグをオンにした状態で、ドアに向かって歩いていく。これからしばらくは、この狭い車内を離れて、もう少しは広い空間にいられるはずだ。パーリャもうずうずしているようで、先を争うように出ていこうとする。
「落ち着け!ステーションは逃げない」
「わかってるけど、早く見たいよ。先に行かせて」
「いいから、行け」
「はあい!」
そして僕らは、ボーディングブリッジを抜け、The 1st STARへの第一歩を記したのだった。
* * *
その空間は、上下のない空間だった。
重力減少を体験して、すでに3日は経っている。すっかり無重力にも慣れた気でいたが、それはまだ肉体の感覚だけであって、理性の準備は整っていなかったことが、一瞬で理解できた。
これまでは、コンパートメントの中や食堂やユーティリティルームなど、クライマー内の空間は、たとえ重力は無くなってもかならず床と天井が明確にあって、頭の中で上下感覚を作っていた。クライマーは地上から出発するのだから、上下が明確になっていないとなにかと不便である。一時的に重力が少なくなることもあるけれど、基本的には上下のある世界の構造物なのだ。
ところがここは違う。静止衛星軌道上にあって地表に降りたりすることはない、いわば永遠に重力の存在しない空間だ。そこはもとより上下の区別がない、上下の区別を必要としない空間なのだ。
だから、まず床がない。もちろん天井もない。ただ壁だけがあり、どこが天井でどこが床だとかの区別がされていないし、できない。この世界には、天井とか床という概念がないとさえ言える。照明は四方にまんべんなく設置されており、むしろ上下を定められることを拒否しているようにさえ見える。
ホテルのロビーは、柔らかい壁材で構成された、1辺4m程度の四角いチューブのような空間で、歩行者はマグを使って任意の壁を蹴って移動するのが基本だ。壁はぶつかってもそう痛くない、柔らかい素材で作られているが、同時にマグが吸着する素材でもある。だから、そこを歩くとすれば、ふかふかの絨毯の上を歩くような感触になる。それもいいけど、やっぱり無重力で、しかもクライマー内よりもはるかに広い空間なのだから、自由に飛んで行きたくなるのが人情である。
もし、空中に浮かんでいる時に、速度が足りないと感じたら、ベルトに装着している無重力空間移動用の圧搾空気のスラスターを使ってもいい。だが、その容量も限りがあるし、ここは不特定多数の通る通路だから、そう急いだりする必要も必然性もない。地上でも、歩道をダッシュで走っていく人はまれだし、場合によっては事故になることもあったりするのと同じだ。本当に必要な時に、最小限使うのがマナーだと僕たちは学んでいる。そもそも空間内には多少の空気の流れもあるので、漂っているだけでもゆっくりとどこかに流されていくことができる。川の中で浮かんでいるような感覚だろうか。
で、四角い壁で囲まれた空間が通路になっていて、そこの途中にはチェックインするためのフロントがある。だがそれは見た目には単なるディスプレイパネルであり、アシスタントに話しかけるとその場でチェックインの手続きを取ってくれる。その脇にフロントクラークが漂っていて、わからないことがあったり、トラブルがあると対処してくれるようだ。
チェックインが済むと、PC(Personal Communicator)に、部屋番号とキーとなるデータを転送してくれて、あとはそのPCのアシスタントが道案内を引き継いでくれる。荷物はポーターというドローンが運んでくれるようだ。圧搾空気によるガス推進で無重力空間をどこにでも行けるらしい。ポーターに荷物を任せて、僕たちの部屋に移動することにする。
僕たちの部屋は、マイナス4階層の41号室で、クライマーにあるのよりはかなり大きめの、オートステップに乗ってそこまで行くようになっていた。
このステーションに限らず多くのGEOステーションでは共通の事項なのだが、ベースのフロアをフロアゼロとし、そこを基準に地球から離れる方向はプラス、地球に近づく方向をマイナスと呼んでいるらしい。だから僕たちの部屋がある場所は、ここから地球側のマイナス方向に4階層降りたところにあるということだ。
今「降りたところ」と表現してしまったが、これも無重力に慣れていない証拠だ。オートステップに乗るときは頭から乗り込んでいったので、感覚的には「昇ったところ」ということになる。ああ、ややこしい。
そういうことで、オートステップでマイナス4階層に行くと、ロビーよりは少し狭めの廊下が続いていて、照明が僕らのいくべき場所を指し示してくれている。まさに光が指し示すその先に41号室があり、ドアがほんのり光っている。これは迷いようがないくらい親切だ。そしてPCに「オープン」と指示を出せば、部屋のドアが解錠され、僕らが2泊する部屋に入ることができた。
部屋に入ると、思わず安心の笑みがこぼれた。というのもその部屋は、ちゃんと上下のある、一般的なホテルの部屋のようにデザインされていたからだ。そしてクライマーのコンパートメントよりもはるかに広い。もちろん無重力空間なのだから、ソファーは床に固定されているし、ベッドも同様に床に固定されている。よく見るとソファーもベッドも椅子も、無重力仕様のギミックがいろいろついているので、ここで利用するのにも不便でないようになっているのだろうけれど、とにかく上下の基準が設けられているだけで、安心する自分がいる。パーリャは何を感じたんだか、こんな感想を漏らしていた。
「わー、なんか自分が幽霊になったような気分だねー。ベッドや椅子がそこにあるんだけど、自分はふわふわ浮いてて、座れないし座る必要も感じない。生きてた時が懐かしい、って幽霊の気持ちがわかるような気がするねー」
ともかく、僕たちはポーターから荷物を受け取って入り口近くのクローゼットに固定した。ポーターは、
「ごゆっくりお過ごしください」
そう言って、戻っていった。
僕たちはそのまま、部屋を見て回った。バスもトイレもついている。もちろん無重力仕様なのだが、コンパートメントのよりも多少広めで、機能も多そうだ。何よりもバスとトイレ、脱衣室と洗面所が別になっているのがありがたい。パーリャと二人でコンパートメントを使うのは、少し不自由だったのだ。
他にも冷蔵庫と小さなバーカウンターもある。アメニティも十分だろう。無重力であること以外は、地球のホテルと比べても何らそん色はない。もちろん無重力特有のアメニティも充実していて、トレッドミルだってちゃんと置いてある。ただし体重計は置いていない。昨日だったか、セルゲイさんに聞いたのだが、慣性体重計はあんまり小さくは作れないらしい。それで各部屋には置けないんだそうだ。もちろん医務室に行けば利用はできると言われた。たぶんここにもあるのだろう。そんなことも確認した後、少し気疲れした僕たちはくつろぐことにした。
はあ、たった数十メートルを、しかも空中に浮かんだまま移動してきただけなのに、妙に疲れた。にもかかわらず、ベッドに倒れこむこともできない。もともと体中に力が入っていない状態だったので、張りつめていた気を抜くことはできても、緊張していた筋肉を弛緩させて体の力を抜く、という爽快感が味わえなくなってしまっている。無重力ってのは、案外疲れる空間なのかもしれない。そんな感想が真っ先に思い浮かんだのだった。
「さあ、ヘルスチェックがあるって言ってたな。あと10分くらいか、休んでいる暇はないな。かといって急いでいかなきゃならないわけでもないか。医療センターってホテルのロビーからすぐだったよな。さて、どうしよう?」
そう言って態度を決めかねていると、パーリャはすぐに積極的に動き出した。
「『このホテルの施設案内を出して』」
部屋のアシスタントにそう告げたのだ。この部屋の窓も、スクリーンになっていて、今はやっぱり宇宙空間が映っている。そこに、施設案内のドキュメントが大写しになった。
「んー?何があるのかな?この後ヘルスチェックが済んだら、何しよう?ねえ、どうする?」
そう言ってパーリャは、やっぱり目を細めながらスクリーンを眺めていた。
「そうだな、パーリャの方が先で、その後僕がヘルスチェックだから、ここで待ち合わせしないか?そしたらその後、ちょうどお茶の時間になるだろう。こっちのラウンジでお茶しよう」
地図を指しながら、午後の行動をパーリャと打ち合わせし、僕たちはヘルスチェックに行くことにした。
部屋から出たとたん、例の上下のない世界が僕たちを待っていた。この時、PCが自分の行先について、しつこいくらいに鮮やかに行く先を表示してくれていた理由をさとった。部屋から出たとたんに、上下も左右もない世界に放り出されると、その瞬間自分の位置情報がすべてクリアされてしまい、周囲の状況についての理解が白紙状態になってしまったのだ。
なるほど、こんなことがあるんだ。僕は自分の認知能力がどれほど上下の感覚に依存していたかを改めて認識させられた。無重力という状態は部屋の中だって同じなのだが、ただ上下を示す視覚的なシンボルが目の前から消えただけで、もはや自分がどこから来たかもわからず、どちらに行けば見知ったところに行けるのかもわからない。そうして行きたいところにいけず、戻りたいところにも戻れなくなった人が続出したのだろうか。過剰なくらいの行先案内は、そんな状況への大事な解決法だったのだろう。
僕がそうしてドアを出たところで立ち尽くしていた時、パーリャは何食わぬ顔で、行先を指し示すと、
「こっちだよ。ほら光が続いてるじゃん、どうしたの?いくよ?」
またこいつは順応している。全くうらやましい性格をしている。僕だって光が行き先を示していることは知っている。だが、光が指し示す方向と、自分自身の中にある感覚がまったく一致していないところが問題なのに、パーリャはそんな問題をまったく感じていないようだ。
ここでは、これまでの常識にとらわれた頭の固い理性なんて役に立たない。自分の置かれた環境を素直に受け入れ、その中で自分の中に新しい法則を作り上げていかなければならないのだろう。それがごく自然にできるというところが、パーリャのすごいところなんだろうな。
僕はパーリャを追いかけて医療センターに向かった。医療センターではパーリャが先にチェックを受け、その後で僕が受けることになっている。パーリャが出てくるまで結構待たされた。その間にステーションにある様々な施設について予習をしておいた。
ちなみにこの医療センターの待合室も、上下のあるデザインだ。どうやらターミナルの中と施設と施設を結ぶ通路以外はわざわざ上下を作り出しているようだ。そうでないと都合の悪いこともあるのだろう。お医者さんの問診を受けるときも、相手と上下がさかさまだったりしたら、話しづらいし、たぶん不都合もあるに違いない。意外と上下のある空間も多いのかも、などと考えながら呼ばれるのを待った。
1時間ほどもして、ようやく僕の番になった。パーリャは先に出ていって、そのまま待ち合わせ場所に向かうようだ。退屈しないといいけれど。そう考えながら、僕は検査室に入っていった。
医療センターのヘルスチェックの項目は多岐にわたった。最初の契約時に示された書類にもあったように、このツアーの一つの目的は、宇宙に観光旅行に出る乗客が、心身にどのような影響を受けるか、を総合的にチェックしてデータを集め、今後の観光事業と宇宙開発に生かすというものだ。もちろん我々には関係ないことだが、SEMにとっては重要なことだし、そしてよりデータ集めに積極的だったのが国連の下部組織である宇宙開発協力機構だったと聞いている。
現在でもアストロノーツ(宇宙飛行士)による宇宙探査は盛んに行われている。すでに月面や周回軌道上には複数の基地が作られ、常時数十人のアストロノーツが、資源開発や月面探査を日々進めているし、火星やいくつかの小惑星にも、それぞれ基地建設が進んでいるところだ。そしてイオやタイタンなど、外惑星の衛星にも有人探査の手が届き始めている。科学的な進歩を目指す側面と、産業の振興や高度化を推し進めるという側面が一致した結果だ。
一方、宇宙太陽光発電所の建設は、もう20年も前から進められていて、数百人単位の建設作業員が交代で、GEOと地上の往復をしている状況だ。長い人は半年から1年以上宇宙に滞在する人も珍しくないと聞いている。そのように、探査目的にしても建設目的にしても、多数の人たちが常時宇宙と地上を行き来している状況は、すっかり定着している。
しかしそれらの人たちは、宇宙を自分の職場として自ら選んだ人たちであり、いわばプロフェッショナルたちばかりだ。職業だから義務として訓練もするし、適応しようという意思も堅い。それに対して我々のように、特に職業を目指したわけでもなく、たまたま余暇で訪れて去っていくような人たちが、宇宙に出てどんな変化を体験するか、どんな肉体的、心理的ストレスを受けるかというようなことに関するデータはこれまで集められたことがなかった。
もちろん、数秒間、弾道飛行を楽しむだの、数分間、地球を周回する衛星軌道を体験するだのといった類の、ほんの一時宇宙を体験する、といったツアーはこれまでにも数多く実施されてきてはいたけれど、今回のツアーのような、数週間にわたって継続的に無重力が続くような旅だったわけではない。
いろいろと貴重な、そして今後人類の宇宙進出がさらに拡大されていくであろう今日の情勢にとって、重要な示唆を含む初めての資料が集められるであろうことは、想像に難くない。
そんなわけで、単なる身体的な測定の数値から、血液検査、尿検査、各種の身体反応の検査を始め、書面によるアンケートまでひととおり回答するのには、軽く1時間ほどかかったのだ。僕も待たされたし、パーリャも今頃は待ち合わせ場所の中央展望園で待ちくたびれていることだろう。僕は検査が終わって最後の問診を受けたが、ヴァイタルもメンタルも特に異常なし、今後も旅を楽しんでください、と医者に言われてさっさと医療センターを後にした。
たしか、医療センターを出た後右に進めばよかったはずだけど、……右ってどっちだ。
そう、右を知るためには前だけでなく上がどっちであるかを知らなければならない。だが、ここには上なんて概念はない。出口を出て右に行く、では正しい経路を選ぶことができないのだ。というわけで、PCから出た案内のための電波を受信した通路が、光で案内してくれるのにただただついていくしかなかった。そうすれば、何の迷いもなく、最短経路で目的地に行けるのだ。つまり、スクリーンに投影された平面の地図なんて、ここでの現実には役に立たないってことでもあるな。そんなことを思いながら、光の案内を追いかけていくと、パーリャの姿が見えた。
待たせたろうな。どうやって謝ろうかなどと考え始めたとき、パーリャが楽し気に誰かと会話していることに気が付いた。後ろ姿だが、あれは……。ギルバート・フェルデン兄弟のどちらかだと思う。ここからでは顔さえ見えないし、たとえ顔が見えたところで判別はつかないのだが、それでもたぶん、確信に近い思いでパーリャの話し相手はフェルデンさんだと推理することができた。その理由は、見るからに話が弾んでいて、パーリャがけたたましく笑っているからだ。ギルバートさん相手であの表情はあり得ないだろう。そう思いつつ、僕は二人に向かって進んでいった。
「あ、お兄ちゃん!やっと来た」
パーリャが気づいたのは、もうフェルデンさんの肩に触れられるくらいの距離にまで近づいた時だった。フェルデンさんも振り向いて、挨拶をしてくれた。
「あ、こんにちは」
「こんにちは、フェ……ギ・ギ?」
「なに?フェギギ……?」
「いや、……ギルバートさん、パーリャの話相手をしてくれてたんですね。ありがとうございました」
危ないところだった。絶対フェルデンさんだと確信していたのに、名札はギルバートさんだったのだ。念のために確認してよかった。ギルバートさんは急にしかめっ面、……ではないが表情のギャップがすごかったのでそう錯覚するくらい、いつもの顔になってぼそっと答えた。
「いえ、別に……」
「ここの展望園ね、ギルバートさんが基本設計したんだって、すごいよね!」
「い、いや、僕も設計に加わったってだけで……」
待ち合わせにした展望園というのは、役割で言えば中央広場、とでも言えばいいだろう。このGEOステーションの各施設を接続する通路の多くが集まっている合流点で、直径10メートルくらいの球形をしている。
広場と言ってもそうだだっ広い空間があるわけではない。他の通路と同様の3~4メートル程度の幅の通路が、外側に円形に走っていて、それが結果として球形をなしているという感じだ。で、球の中心部は直径3mくらいの大きなモニュメントみたいになっていて、そこにスクリーンが集まった形になっている。
そのスクリーンはコンパートメントやホテルの部屋にあるのと同じように、アシスタント付きでいろんな用途に使えるもののようだが、今はここから見える宇宙の姿が映されていて、見た目には宇宙を裏返して一つの球にまとめた、みたいな意味性を感じる形になっている。展望園という名前もわかる気がする。
「そうなんですか、でもこの設備は以前の『The 1st Space Elevator』の時の設備を流用しているんですよね。この広場は前からあったんですか?」
そんな質問をすると、ギルバートさんは解説してくれる。解説するのは好きなのかな?
「この通路自体はありましたし、あとから追加したのはこのホテルに向かう通路と、プラス方向のメンテナンススペースに向かう通路だけです。だけど以前は、ここはだだっ広い空間だけしかなくて、いささか問題のある通路だったんですよ」
ギルバートさんはそう言って、広い空間の危険性を解説してくれた。
その話によると、無重力下に広い空間があると、困るのは空気のよどむ場所が作られて、酸素の薄い場所になる可能性があるということ、しかもそういう場所は同時に質量の集まりやすい場所になるので、ごみやほこりがたまりやすくなり、場合によっては広い空間の真ん中で取り残されて、どこにも移動できなくなる人が出ることもありうるということだった。
そもそも慣性の法則というのがあって、外部から何も力が働かない限り動いている物体はは永遠に動き続けるし、止まっている物体は止まり続ける、というのは誰もが知っている基本的な物理学だ。しかしそれは真空の宇宙での話で、今我々がいるこの空間は、1気圧の空気の満たされた空間で、そこには空気の流れがある。この空気が、動いている物体にも止まっている物体にも少なくはない力を与えるのである。
宇宙機でもクライマーでも、無重力状態になる気密構造の空間には空気の流れを作らなければならない。なぜなら、人間がそこの酸素を吸って二酸化炭素を吐き出すうちに、酸素と二酸化炭素の比率が徐々に変化していくのだ。人間がよく通る場所は、酸素の濃度が下がり、代わりに二酸化炭素の濃度が高くなる、その空気を流して周囲と平均化させていかないと、いつか空気があるのに酸素が極端に薄く、窒息してしまう空間にもなりかねないのだ。通常の重力下にある空間では、温度差によって対流が起こり、多かれ少なかれ空気は常に循環している。しかし無重力空間では温度差があっても対流はおこらず、よどんだ空気はずっとよどんだままなのである。
そんなわけで宇宙機やこのようなステーションの中では、エアダクトを各所に設けて、常に空気の流れを作り出し、新鮮な酸素を供給し、二酸化炭素を回収するように作られているのだ。だがこの場所、周囲からの通路が合流して作り出されているこの広い空間には、エアダクトが近くに存在せず、空気の流れがよどんでしまう構造になってしまっていたのだそうだ。空気がよどむということは、ごくわずかでも空気の渦ができていると言うことで、万が一そのあたりにごく小さい運動量で人が漂っていった場合、空気のよどみに吸い寄せられ、そこから動けなくなることもあるというわけだ。
今でこそ、圧搾空気のスラスターがステーション内の全員に配られているけれど、「最初の宇宙エレベーター」の頃には、そんなものはなかったんだそうだ。そういうわけで、そうやって取り残されて、やがて自分の周りから酸素がなくなっていって、ついに死んでしまった、そんな人の怨念が集まった場所がステーション内に何ヶ所かあって……というような話は、この宇宙時代になってもいろんなところで語り継がれているらしい。
もちろん、そんな事故が実施に起こったと言う記録はない。仮にそんな空気の淀みにはまり込んで動けなくなってしまったとしても、そんな時はなにか自分の持っているもの、できるだけ質量のあるものがいいが、なければ上着を一枚脱いでもいい。とにかく何か質量のあるものを投げれば、その反作用でどこかの壁にたどり着くことができるはずだ。だから、実際にそんな事故になることはまずあり得ない。
それでも、危険なことに変わりはないし、危険でないとしてもごみやほこりはたまるので、どちらにしても早急に改善されるべき場所として、チェックの入った場所だったということなのだ。
ギルバートさんたちは監督官庁からそんな指導を受けて、このステーションを改善……いや、ギルバートさんの用語を使えば「改造」しまくったらしい。そのひとつが、このモニュメントなんだと言っていた。少し誇らしげに語っていたギルバートさんは、ふと急に焦るような顔つきになって、
「あ、おしゃべりしすぎました。これからミーティングの予定がありますので、すいません、失礼します」
そう言って、そそくさと立ち去って行ったのだった。最後にパーリャと合わした視線が、なにやら親しげで意味深なようにも感じたが、僕らはそのまま彼を見送るしかなかった。そして打ち合わせの時に言っていたように、すぐ横のラウンジに移動して午後のティータイムを過ごすことにした。
席についてアシスタントに紅茶とケーキを注文すると、パーリャは先ほどの話をし始めた。ちょうどいい、僕も確認したいことがあるのだ。
「すごい人だね、ギルバートさんは」
「お前、あの人とどのくらい話をしてたんだ?」
「んー、私がヘルスチェックを終わってここに来た時からだから、かれこれ1時間は経ってるかな?ギルバートさん、ミーティング遅刻したんじゃないかな?大丈夫かな?」
「待たせたけど、それほどヒマでもなかったか」
「うん、ギルバートさんがいろいろお話ししてくれたんで、退屈しなかった、というかすごく楽しかったよ。あ、そういえば、お兄ちゃん、最初フェルデンさんと間違えかけてたでしょ?名札見ればよかったのに」
「あ、いや。あんまりお前と楽しそうに話してるもんだから、絶対フェルデンさんだと確信してたんだけど、ギルバートさん、だったんだよな?」
「うん、私あの人があんなにおしゃべりな人だとは思わなかったよ。私があのモニュメントに近づいていくと、どこからか出てきて、モニュメントの解説をし始めるんだもん。よっぽどあれがお気に入りなのかなあ。まあ私も退屈しないで楽しかったからいいんだけどね」
モニュメントじゃなくて、別のものがお気に入りだったんじゃないか、なんて考えもしたけれど、まあそれは置いとく。なんかご近所のおばちゃんじみた発想が自分から出てきたことが、ちょっとショックだったので。
「楽しかったのか。モニュメントの他にはどんな話をしたんだ。まさか1時間ずっとあれの話だったのか?」
「まさか、いろんなこと聞いたよ。最初は、あのドッキングとか今日の入り口に入るところとかのオペレーションの声ってギルバートさんでしょ?って聞いたら、そうですよってニコッと笑って、それでこのステーションの話とか、クライマーのメンテナンスの話とかから始まってさ、明日はターサ1号をひっくり返すイベントがあるから見にくるといいとか、下のテザーと上のテザーが結合された場所でこのステーションが繋がってるから、下から上まで一直線に昇ることはできないんだとか、行きよりも帰りの方がステーションでの滞在時間が短いからクライマーの付け替え作業が大変だとか、もういろんなことを次々と話されたんで、ほとんど忘れちゃったよ。」
けっこう覚えてるんじゃないか、とも思ったけれど、特にツッコミはしないでおく。
「ギルバートさんってまだ21歳なんだって。若いのにすごいんですね、って言ったら、他にもすごい人はいっぱいいるんでついていくのに必死なだけだ、とか謙遜してたんだよ。まあ、面白い人だよね。」
ギルバートさんの話が面白いって、普通の女子ではめずらしいんでは、とさらにツッコミたい気もしたけれど、それも置いておく。
「そうそう、こんな話も聞いたよ。えっと、このステーションは無重力状態なんで、なにか質量があってもそこに浮かばせておいたら、いつまでもそこに漂ってるでしょう?それでいろいろ置いておくのに都合がいいんで、ここのステーションの周りにはいろんなものが漂ってるんだって。たとえば、カウンターウェイトにつないでたんだけど、テザーがちぎれて他のものを道連れにしてどこかに飛んでっちゃいそうになってたロケットエンジンだとか、ここのステーションのユニットをくっつけるときに使って、結局余っちゃったロケットの推進剤のタンクだとか。……もちろん中身はまだ使えるはずだって言ってた。あと、これは絶対に秘密だって言ってたんだけど……」
パーリャはそう言って周囲を見渡し、声を潜めて話を続けた。
「ここの『ターサ』って、以前あった位置から動かして修復したって言ってたじゃない。で、動かしてからギルバートさんたちが、修復計画を立てるってんで調査に昇ってきたとき、以前の『最初の宇宙エレベーター』としてここを使ってた時の資材の残りで、希少元素が使われてて結構高価なアセンブリが倉庫にいっぱい残ってたらしいんだ。で、それが残ってるのを当局に知られたら、税法上まずいってセルゲイさんが言い出して、そんでどうすればいいんだーってことになって……」
パーリャはさらに声を潜めて続けた。
「太陽光パネルの裏側にロープをひっかけてぶら下げて隠してるんだって。いざというときの隠し資産として置いとこうってんで、ほとぼりが冷めるのを待ってるとこだって言ってたよ、特に、アリシアさんには絶対秘密なんだって……」
「まあ、パーリャさんとカンパーネンさん!」
どこまで本当のことなんだかわからんという気がして、問いただそうとしたとき、急に聞きなれた声がした。あわてて振り返るとそこには、そのアリシアさんが立っていた。
「ああ、あ、アリシアさんっ!こんにちは!」
パーリャの声は、聞くからに焦っている。そこで自分の感情を瞬時に消せるようじゃないとなあ、などと思ったりもしたが、それはこっちの話だ。
「こんにちは、パーリャさん。たまたまここを通りかかったらパーリャさんがいて、一緒に私の名前も聞こえたもんだから、ごあいさつしとこうと思ったんです。こんにちは、カンパーネンさん」
「こんにちは、アリシアさんはお仕事中ですか?」
「いえ、今ミーティングが終わったところで、これから夕食まではフリーなんです。私もちょっと休みたいと思って、久しぶりに展望園に来てみたくなったんです。そしたらお二人を見かけたもんで」
ツアーの乗客ならこのあたりには他にも何人かいますよ。なんでわざわざこっちへ来たんですか、なんてツッコむこともできない。社会でのしきたりに従って、ここはお誘いしなければならないところだろう。
「よろしかったらご一緒にお茶でもいかがですか?僕たちも、夕食までは特にすることもなくて……」
「ありがとうございます。パーリャさん、お邪魔していいですか?」
「はい、どうぞどうぞ」
アリシアさんは席について、「『ニルギリを、ミルクティーで』。」と注文した。その後、一拍置いて、パーリャに追及を開始した。
「ねえ、パーリャさん、先ほどのお話ですけれど、なんだか私の名前が出てきたもんで、気になってしまって……。私って、どんな噂になってたんですか?」
来た。とパーリャは思っただろう。けど、さっきの話はたとえ関係の深い本人にも話すわけにはいかない。パーリャは当事者でもなんでもなく、単にうわさ話を耳にしただけの第三者だ。パーリャもそれはわかっているだろう。どう切り抜けるのか、僕もパーリャの対応を見てみたい気になってきた。パーリャは少し、おろおろとした顔で考えていたが、意を決したようにアリシアさんに対峙した。
「あの……、確かにアリシアさんのお名前を出しました。……でも、今のお話は私が別の人から聞いただけの、本当かどうかもわからないお話で……、その人には内緒って言われていたんですけれど、単なる世間話のつもりでお兄ちゃんに聞かせただけなんです。だから……、その……、すいませんっ!お話しできないですっ!ごめんなさいっ!」
パーリャはその場で、アリシアさんに頭を下げた。
「でもっ、決してアリシアさんの悪口とか、そういう話ではなくて、……えーと、そのー、アリシアさんを尊重しているからこそ、秘密にしておきたいというか……。あああ……なんかいいわけすればするほど、話しちゃいそうになるので……、すいませんっ、……ごめんなさいっ!」
アリシアさんは、ちょっとおどろいたように、でもなんだか安心したようにも見える顔で、パーリャにこう言った。
「そうですか……。私こそ、パーリャさんを困らせるようなことを聞いてしまって、ごめんなさい。でもそんな風に、人との約束を守り、誠意を尽くして私に謝ったパーリャさんを、私は尊敬します。意地悪なことを言って本当にごめんなさいね。なんだかパーリャさんを、試してみたくなったの。どうしてかしらね、入社試験みたいなものかな?」
そこまで言って、アリシアさんはむしろ自分の発言に驚いたようで、口元を押さえて少し間を置いた。それでも、その発言を取り消すでもなく、続けた。
「カンパーネンさんも、結果的に巻き込んでしまってすみませんでした。お詫びというわけでもないんですけれど、ここは私が持ちますね」
そう言って、アリシアさんは会計の請求先の変更手続きをパネルで行った。僕は素直に受け取ることにした。それでこの件はチャラ、と言うことだ。そして、
「今はまだ、パーリャさんはお客様なのでこれくらいで引き下がりますけど、もしパーリャさんがウチの社員になったら、今のこともきっと、社長命令で白状してもらいますからね!」
なんて言葉でパーリャにくぎを刺すことも忘れなかった。そう言うアリシアさんは、これ以上ないくらいのニコニコ笑顔だった。
なんだか、立派なビジネスパーソンと、未熟な若者が混然となった人だなあ。僕はそんな風にアリシアさんの言葉や行動を、記憶に刻み込むようにその後の会話を楽しんだのだった。
ツアー5日目の午後 現在地点:高度3万5800kmのGEO(静止衛星軌道)ステーション滞在初日 重力は0G 無重力状態
二人は「本当の無重力空間」を初めて体験しました。マエーク君は、いろいろと思うところがあって混乱もしたようですが、パーリャちゃんは対照的にすんなり順応しちゃったようです。
そんな中、たまたま出会ったギルバートさんとそしてアリシアさん。
ギルバートさんは、これまでの無口でシャイな印象に反して、パーリャちゃんには進んでいろいろと説明してくれたようです。その時間はパーリャちゃんにとってもまんざらでもなかったみたいですよ。
そして、思いがけず引き入れてしまったのはアリシアさんでした。ちょっと意地悪だったアリシアさんの攻撃を、パーリャちゃんはなんとか、でもみごとに切り抜けました。自分が直接の攻撃対象ではなかったマエーク君には、そんなアリシアさんがますます興味深く映ります。一方、アリシアさんは、パーリャちゃんが可愛くってたまりません。ついついいじめたくなるんですけれど、お姉さんぶることも忘れません。どうやらアリシアさんとパーリャちゃんは、相思相愛の関係みたいですね。マエーク君は、……さてどうなんでしょう?
次回は、「The 1st STAR」の中でのさまざまなイベントです。GEOステーションの役割についてのお話も出てきます。