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歴史人物浅評  作者: 張任
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忘却の幸福

生物の脳とは不思議な物で在る。たかだか1000g程度の小さな物体が身体の至る箇所を自由に動かし、複雑怪奇な思考を可能にし、多種多様に渡る感情を表現させる。

医学の発達した現代に於いても脳の全容は解明されておらず、生物最大の謎を秘めた匣として研究が進められている。

と同時に、余りにも難解過ぎる存在が故に事件を引き起こす要因とも成り得る。今回紹介する人物の行為の様に。


エガス・モニス。


世に悪名高い術式、人を人足らしめる部分を切除するロボトミーを考案した医者の話を今回は記そうと想う。


_______________


「堕ちたる栄誉」


エガス・モニスは20世紀に名を馳せた医者の一人で在る。

彼は或る術式を考案した事で当時の人々から賞賛を受け、1949年にはノーベル賞を受賞する程に評価をされた。

世間から其処まで注目を浴びたモニスの研究とは『ある種の精神病に対する前頭葉白質切截術の治療的価値に関する発見』と言う物。専門用語が多く初見では分り辛いので、自分なりに乱暴にだが要約して説明するとだ。


頭の一部分を切り離す事で、鬱や癇癪に効果有りとの事だ。


さて此の文章だけでも嫌な予感めいた物が漂っているが、実際の施術の様子を観ると不安は確信へと変わる事だろう。

なにせ目の真上辺りを切開して穴を創り、其処を通じて特注のメスを用いて目的の部位を切り離すのだから。

彼は件の術式を施す事で負の感情を吐き出す事が無くなり、鬱等の精神病を治療する事が出来ると考えていたのだ。そして其れは効果を発揮はした。してしまったと言うべきか。

手術を受けた患者が症状を再発する事は確かに無かった。

精神外科と呼ばれた此の医療、今となっては名前を聞く事も無いが当時は爆発的に流行したとされる。言わずもがな、モニスが出した精神云々の研究結果が要因で。

当時…と言うより古来からだが、精神病は不治の病とされてきた。古来より狐憑き等の名称で呼ばれている通り、妖怪や神秘的な物で説明している事が其れを如実に表している。

モニスの研究とは、そんな誰にも治療出来ない病いの悩みを解消出来るやも知れない逸品だった。故に世間の者は大いに讃え、最上の栄誉を授かる事も出来たのだろう。


程無くして、治療の成果に疑問が生じるまでの話だが。


先述した通り、彼の提唱した術式は効果は有った。だが同時に欠点も存在していたのである。余りにも大きな問題が。

著しい人格の欠損。憤怒、憎悪、哀愁を抱かない代わりに、幸福、感動、友愛を感じない人形同然の存在と化す。

モニスが考案し実施した『ロボトミー』は、患者を其の様な状態へと変貌させる恐るべき側面を持ち併せていたのだ。


「人間性の計算」


如何に脳に対する知識が現代より乏しかったと言えども、人間を動かす部分で在る事は当時から既に周知の事実。

にも関わらずモニスは何故、正しく致命的な部分にメスを入れる凶行に至ったのか。人体実験も厭わぬ程に知識欲を拗らせたからなのか?否、其処には普通の医者と何ら変わらぬ、人を救うと言う感情が絡んでいると私は想う。

彼、エガス・モニスは生来の医師と言う訳では無い。

大学で医学を学んではいたものの政治の道へと進み、国会議員から外務大臣へと階段を昇り上がり、更には第一次世界大戦後の講和時に首席代表を務める程の大躍進を果たす。

また文筆家としても有能でベストセラーを執筆し、妻の為にと独自でドレスを創る等、非常に多才な人物だった。


そんな彼が医学界に腰を落ち着けたのは1919年以降。

栄華を極めた政治家の地位を自ら降り、古巣の大学で自分が学んだ神経の教授としての立場を得てからの話だ。


様々な場で才能を発揮したモニスは此処でも其の才を発揮。

現代でのレントゲンの祖とも言える技術を考案して、患者に負担を掛けずに病巣を発見する偉業を成し遂げる。

此の時点でも彼は世間から大いに持て囃され、ノーベル賞の候補にも二度選ばれたものの受賞の栄光には届かなかった。

折角の大発見にも関わらず、功績相応の評価は得られなかったモニス。だが、彼は諦めず次の技術考案に腐心していく。

そんな彼の情熱の原動力と成ったのは、或る研究の発表。

現代の私達から見れば悍ましい、狂気の実験で在った。


研究名。チンパンジーの眼窩前頭皮質を切除した際の経過。

内容。脳の一部を切除した際の、精神変化についての記録。


そう。後に悪名を轟かす術式は、此れを人間に転用した物。

学生の頃より精神病問題の解決を目指し、取り分け鬱や統合失調の治療方法を模索していた彼が見つけ誤った希望を抱く切掛と成った、何処までも何時までも濁り輝く光。

患者の抱く重篤な苦悩を此れで解決出来ると、本当にそう信じた善意から起きた、災厄の組み合わせだったので在る。


「返答」


モニスは自身の経験と上記の実験から、精神障害を脳細胞の反応不具合が原因だと推察をしていた。脳から出された命令が細胞間で移動する際に伝達が上手く行かず、命令を何度も繰り返す事から強迫等の不安定な精神に成るのだと。

そして、こう結論付けた。ならば阻害している部分を切り離せば問題は文字通り取り除かれ、正常へと戻るだろう。

結果、件の術式『ロボトミー』が考案されたと言う訳だ。


そして発表から数ヶ月後。彼は人間への施術へ至る。


患者は高齢の女性。彼女は重度の鬱に長年悩まされており、症状改善の程度を見るには打って付けの人物で在った。

手術後は鬱の症状は劇的に改善し、患者は記憶を喪わず会話も行う事が出来た…が、モニスにとっては不満を抱く結果に終わってしまう。言わずもがな、人格の欠損に依って。

女性は以前の性格とは打って変わり、まるで幼児の様な行動や言動をする様になったと言う。退行したと言う訳だ。

初期の手術は原因を取り除けはしたが、同時に他の重要な部分をも傷付けた。故に人格に影響が出たのである。

結局、最初の手術は失敗に終わった。だが、しかし。顕著な効果が見られた事が、モニスの心に火を付けてしまう。


それから数年。其の間、彼は十数名の患者に治療を施した。


道具を変え、部位を変え、日数を変え。様々な事柄を変更し、遂にモニスは手法を確立し、世に喧伝した。…そして其れは上記の項を見て貰えば分かる通り、評価をされた。

奇しくも同時期に勃発したベトナムでの戦争、是に端を発する心的外傷者の著しい増加が後押しと成ったのだろう。

彼は兵士達を救う英雄として持て囃され、考案した術式は世に溢れ返り、果てには大いなる権威すら手に入れた。

此の時のモニスは天にも昇る心地だった事だろう。だが、やはり上項でも記したが其れも効果が疑われる迄の間。

一転して罵詈雑言の嵐へと放り込まれた彼は次第に衰弱して行き、そして或る最悪の形で自分の業を思い知らされる。


1949年、向精神薬の誕生。其れは手術に依る外傷及び人格喪失が起きない、極めて画期的な治療薬だった。

そう。モニスが求め続けた療法は他所でも誕生したのだ。

己の方法とはまるで違う、著しい損傷を伴わない物として。


1955年、エガス・モニス死去。其の最期は華々しい半生とは対照的に、陰鬱で悲哀に満ちた物だったとされる。


_______________


モニスが考案したロボトミーと言う術式は現代に於いて黒歴史、ノーベル賞内でも屈指の過ちとして語り継がれている。

記録上の手法の残酷さや重大な欠点が存在する事を考えれば、今日での評価が間違っているとの事は無いだろう。

現在、ロボトミーに依って人間性を奪われたとして患者が集まり、ノーベル賞の撤回を求めているのも無理からぬ話。

エガス・モニスの名が禁忌扱いなのも仕方がないと言える。


しかし、だ。最悪の医療を考案したからだとしても。

果たしてモニスだけが問題の主要なる原因なのだろうか?

違う筈だ。例え彼が狂気的な医学者だったとしても、其の発想を賞賛し剰え普及させたのは世間で在ろう。


当時、ロボトミーを実施した医者の中には問題、人格の損失を認識していた者も居た。しかし彼等は表面上は問題が解決されているとして、異を唱える事なぞしなかった。

寧ろ彼の研究に積極的に協力し、歪んだ進化を遂げさせた医者も存在する。曰く『素晴らしい医療』の手伝をと。


そもそも戦争の心的外傷者に件の手術を求めたのは誰だ。政府、病院、群衆ではないか。彼等は早期からロボトミーの危険性を薄々と勘付きつつも、なお手術を推し進めた。効果を欲したからだ。落ち着きはする、と言う効果を。

モニスは確かに元凶と呼べる存在だろう。だが彼を医師から悍ましき怪物へと育て上げたのは世間、正義や救済を謳って『厄介者』の人権を踏み躙らんとした歪んだ意志だろう。

時代は一人では無く、皆が創る物で在る。当然の話だ。


…ところで。精神外科が廃された現代に於いても、モニスの術式が形を変えて存在している事はご存知だろうか?


当時は脳の研究も然程進んでおらず、器材も発達していなかった為、問題の部分以外にも損傷を与えてしまった。

しかし今ならば正常な部分には傷を付けず、異常な部分だけをレーザー等で切り離せると言う事で、極々一部だが精神病・薬物中毒の患者に手術が行われている。

後遺症についてはロボトミーと違い、大きな問題とはなっていない。…少なくとも周囲の者達の認識では、だが。


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