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歴史人物浅評  作者: 張任
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栄光は泥血に塗れ

人生には時折、己個人では如何にもならぬ出来事が有る。

先の項でも記したが、ヴィクトル・スタルヒンに降り掛かった災難が正に其れだ。彼は故国の革命に依り亡命を余儀無くされ、北海道では已む無くの行動を非難され迫害を受ける。

其れでも自らの努力と善き人との出逢いも有り、やっと幸福を掴み取ろうとした矢先、彼の力に目を付けた者が権力を行使して築き上げた物を総て奪い去っていく。

『国家』と言う莫大に過ぎる存在に、スタルヒンは幾度も自らの人生を狂わされた。…そして其の苦難は未だ終わる事無く、彼の進路に寧ろ更に苛烈さを増して襲い来るのだ。


須田 博。


彼の生涯に付き纏う、此の忌まわしき名前と供に。


_____________________


「望郷の幻視」


新聞社の脅迫同然の勧誘の末、望まぬ形とは言え野球選手に就いたスタルヒン。そんな彼が最初に行った仕事は日米野球での登板、では無く、入団会見の際の質疑応答だった。

観客の動員数減少に焦りを見せていた新聞社側は、勧誘の前からスタルヒンの存在を大々的に公表。話も纏まらぬ内から世間の期待を煽るだけ煽っており、膨れ上がり過ぎた騒動を鎮静化する為にと此の会見を仕組んだのである。

同時に広く宣伝する事で退路を絶つ狙いも有ったのだろう。

故郷を喪った哀しみも癒えぬまま、有象無象のカメラと記者に囲まれて質問責めを受けるスタルヒン。そんな彼の細やかな心の支えに成ったのは、北海道で貰い受けた木彫りの熊。

例え自らの身体すら自由に出来ない環境だとしても、己の心だけは在るべき所に置いている…儚き願いなれど、其の熊を見ている間だけは彼は自由で居る事が出来た。


1934年、日米野球も後半の第17戦。8回からの敗戦処理が、スタルヒンのプロ初登板だった。鳴り物入りの人物とは思えぬ悲惨な出番、此の時の彼が投げた球は凄まじい豪速球なれど、何処か自棄気味の荒れ球だったと記録されている。


結局の所、試合で彼が活躍を見せる事は無く日米野球は幕を閉じた。其の後、スタルヒンは新聞社所有の球団へと所属。

本人の意向が如何にせよ、プロ野球選手として活動が始まった。波乱に満ちて激流に堪える、大嵐の中を往く人生が。


「自失喪失」


日米野球が終わり、プロ野球が始まってから数ヶ月。

スタルヒンは哀しみのドン底に居た。自らの能力のせいで。

北海道でも評判だった彼の速球は、確かに大人相手でも通用する凄まじい物だった。しかし速度と引換に制球の面で難が生じ、四球等を度々起こして味方の危機を招く事も屡々。

元々が未だ身体が出来上がっていない頃から無理矢理に現場に立たせている事、絶対的な時間不足に日毎に変貌していく肉体との兼ね合いも有り、此れに勧誘に依る精神の衰弱も併されば真っ当な状態で投げられる筈も無いのだが、事情を識らぬ同僚選手には不満の眼を向けられてしまう。

失投をすれば怒号と罵声が飛び交う状況にスタルヒンの精神は磨耗し、其れでも強制送還の恐怖から逃れる為に登板しなければならない彼の眼には何時も涙が流れていたと言う。


自分のせいで怒られた。己が劣っているから詰られた。

果てし無き自己嫌悪の闇に囚われ、踠き苦しむスタルヒン。

そんな時だった。憔悴した彼を救い出す漢が現れたのは。

漢の名は藤本定義。彼の所属していた球団の監督だった。


藤本は孤立していたスタルヒンに一人寄り添い、傷だらけの心を優しく慰め、そして苦悩を解決する努力の手伝をした。監督故に他選手よりも幾分か事情を識り、酷く不憫に感じていた事が上記の行動に繋がったのかも知れない。

何れにせよ監督と血反吐を吐く猛練習の結果、彼は問題だった制球の難を克服。一躍とエースとして大活躍していく。

1937年にはノーヒットノーランも達成。続く翌年からの球団連覇にも大きく貢献した。日本記録樹立に最優秀選手として激賞される等、当時の彼の活躍には枚挙に暇が無い。

素晴らしき師匠との出逢いから才能を開花させ、遂に偉大なる野球選手としての道を歩み始めたスタルヒン。

…しかし。彼の幸福は永くは続かなかった。


日本とソ連に依る武力衝突。其処から来たる、偏見と供に。


スタルヒンは其れ迄の人生の大半を日本で過ごした。

海外遠征の際に『外人が多いですね』と同僚に話して呆れさせた逸話も有る事から、彼の持ち合わせていた常識や認識が日本人と同種で在った事は疑うべくも無い。

だが彼の出生地、そして容貌は人々に疑惑の眼を向けられる格好の要因と成った。敵性国の人間と言う誹りのだ。

如何に自身が明るく振舞おうとも、何とか同僚選手が擁護しようとも、猜疑に駆られた視線から逃れる事は出来ず、理不尽な思考に依って日毎に世間からの不信感は募っていく。

そして溜まりに溜まったドス黒い澱は球団上層部、つまりは新聞社側の不安を煽り、遂に決定的な事態へと繋がる。


須田 博。スタルヒンの名を捨て、改名させる暴挙へと。


日露関係が悪化してる今、ロシア人を球団で使うのは危険が大きい。此の問題を彼の名前自体を変える事で解決しようとしたので在る。確かに名称だけでも変更すれば世間からの逆風も弱まるだろう。大元の新聞社だけならば。

しかしスタルヒンにとっては何の利も無い話。寧ろ両親より頂いた名を強制的に捨てさせる苦行でしか無い。更に言えば彼は日本国籍すら取得させて貰えなかった。

正に百害有って一利無し。…其れでもスタルヒンは命令に従った。家族を守る為、監督の恩義に報いる為、そして生涯の友たる野球を続ける為に。彼は其の為に『自分』を捨てた。

だが。襲い来る運命はそんな儚い夢すらも奪い去っていく。

日露戦争勃発。並びに在日外国人への弾圧及び連行。

謂れ無き罪で軟禁先へと連れて行かれる彼等の中に、彼の選手スタルヒンは居た。其の双眸から光を喪いながら。


戦争に突入する程の関係悪化は、彼の現状を更に最悪な物にしていた。敵性外人の排除を目的とした非情なる判断。

球界追放。野球をも禁じられた、余りにも無体な行為。

故国を追われ、故郷には帰れず、名すらも棄てられ、そんなに成ってまで守ろうとした野球すらも掌から零れ落ちた。

希望を追い求め努力し、そして何もかもを奪われたスタルヒン。そんな彼の胸中から情熱の火が消え亡骸の人形と化したとして、誰が其れを責める事が出来ようか?


「儚き夢よ、もう一度」


時は流れ、第二次世界大戦の終結後。在日だった事から進駐軍の通訳として、失意のスタルヒンは日本で暮らしていた。

家族の為にと仕事を続けてはいたものの特に遣り甲斐を感じる事も無く、只管に灰色の日々を送り続ける毎日。

俺の人生は此の儘で進むのだろうか…そう彼が思っていた頃、突然と転機は訪れる。またしても或の人物に依って。

其の日、何時もの様にジープに乗って通訳の仕事をしていると一人の男性が眼に留まった。其の漢は自分をじぃっ…と見つめたまま動こうとしない。はて、何故だろうか?

不思議に思い近付いて…余りの衝撃に息を呑んだ。


彼は。彼こそは。かつて自分を救い出してくれた師たる人。

藤本 貞義。自分の所属した球団の、元監督だったからだ。


何たる偶然で在ろうか。自分の良く知る人物に酷似している、故に眺めていた事が切掛だった再会はスタルヒンの傷付いた心を癒し、かつ呼び醒す出来事とも成った。

話をしている最中、現在の彼が通訳を生業としている事を聞いた藤本は其の才能が野に埋もれている事を強く惜しみ、スタルヒンを自分が新しく創設しようとした球団へと誘う。

安定した現在と比べて給金は大幅に下がり、設備も他所と比べると貧弱其の物。人数も足りていないので労働環境は過酷に成る…そんな状況だが、もし許されるのならば…。

勧誘にしては正直に過ぎる言葉を続ける藤本の口を、件のスタルヒンの手が遮る。此れ以上の事を言う必要は無いと。

そんな彼の眼には光が有った。情熱と希望と、そして感極まった事から流れる涙に溢れた、歓びの光が。


スタルヒン、再度の球界復帰。今度は自ら望んでの、だ。


再びのプロ野球は事前の連絡通り、楽な物では無かった。

設備も整わない中での練習は過酷を極め、血反吐を吐く努力をしても試合には中々勝てず。更には元の球団…つまりは新聞社側が彼が離反した事に憤慨し、契約を守らない狼藉者云々と日々批判を書かれ、謂れの無い悪評を立てられた。

其れでもなおマウンドへと向かったのは信頼出来る師の許に居た事、自分の活躍を観に来るファンの為に奮起した事、何よりも枷の無い状態で野球が出来る興奮が彼を突き動かす。

苦難苦闘の果ての1955年。此の年、スタルヒンは偉大なる事績を成し遂げた。前代未聞、プロ野球史上初の300勝投手。此の偉業を人々は大いに讃える。其の祝福する者達の中には藤本氏、故あって敵軍の監督をしていた師も居り、両者は涙を大いに流しながら歓びと感謝の言葉を伝えたと言う。

球史に残る偉人として大記録を打ち出した彼は、其の後。


幸福が終焉を迎えたかの如く、事故に依って世を去った。


1957年、1月12日。深夜に車を運転していたスタルヒンは通行中の電車と激突。40歳の若さで生涯の幕を閉じる。

後日、彼の訃報が新聞に掲載されたが『何故か』300勝投手と言う偉業については記されておらず、単に一人の外国人男性が死亡したとされる酷薄な記事が遺るのみだった。


_______________


さて。当時の紙面では事故死とされたスタルヒンだが、彼の死には幾つかの不審な点が見受けられる。

事故の当日。彼は学生時代の友人に同窓会へと誘われていた。車を持つスタルヒンが友人を会場へと連れて行く途中、駅周辺で突然と停止して友人に電車で向かうように促したと言う。曰く用事を思い出したから一人で戻るとの事だったが、友人の一人はそんな彼の様子を不思議がった。

後に分かった事だが、スタルヒンは車を同窓会の会場とは逆へ走っていた。そして友人を降ろした後に事故を起こす。


まるで機を見計らったかの如く。


当時の証言に拠ればスタルヒンの顔には覇気が無く、何処か虚ろ気な表情すらしていたらしく、不安に思った友人が元気を出させようとしたのが同窓会へと誘う切掛だったらしい。

幸福の絶頂に居た筈の彼が何故、そうも塞ぎ込んだ状態だったのか?…理由は存在する。余りにも酷い、事実が。

時は少し戻り、1955年。300勝を達成した後の事。

彼は現役を引退し、球界から身を退いた。いや。


強制的に身を退かされたとの方が、正しいかも知れない。


スタルヒンは試合後のインタビューで現役続行の意欲を見せており、事実、翌年も選手として奮闘するつもりだった。

しかし。彼は上役から今季での引退を勧告される。当時の監督は藤本氏では無く別人で在り、彼との間には多少ながらもいざこざが有ったので、其れも原因の一つには成ったのかも知れない。とは言え体力低下で完投が辛くなったのも事実。

スタルヒンは引退試合を条件に許諾。最後の試合に向け、特訓に励む。監督側も多大に貢献していた彼には華やかな舞台に立たせる事を望み、此方も思案を続けていた。

そんな折。彼の引退試合に協力したいと申し出た球団が現れる。元の古巣、或の新聞社が所有する球団で在る。

スタルヒンは以前の扱いから幾分か警戒したが、監督側としては貧乏な自分の所より金を持つ向こうで華々しく引退を迎えた方が良いと彼を根気強く説得。

新聞社側の人間も最後の晴れ舞台ですからと頭を下げ、遂に根負けしたスタルヒンは移籍を決意して東京へと向かった。


其の日以降。球場に彼の姿が現れる事は二度と無かった。

引退試合も。移籍も。何もかもを反故にして、新聞社は適当な仕事を与えてスタルヒンを球界から追放した。選手としても。コーチとしても。野球に関わる、何もかもから。


スタルヒンはまたも新聞社に依って己の夢を奪われた。最後の最後、総てを締め括る一日を、余生を、無惨にも。

…話を事故へと戻そう。彼は事故の直前、幾分か酒を飲み、飲酒運転だったとの記録が有る。其れ迄の人生で酒類を殆ど飲まない生活を送っていたにも関わらず、だ。

総てを忘れるかの様に酒を吐く程に口へと流し込み、過去から逃げる様に同窓会の会場から遠ざかっていった。

そんな彼の現況と心境を鑑みるに、全く以て最悪の想像だが、人生に絶望して自殺した可能性も存在し得る。

そうで無いにしても、自棄になって荒い運転をしても不思議では無い様に思える。こうも。こうも人生を、抗えぬ大きな存在に歪められてしまっては仕方が無いと。

革命。戦争。政略。己以外の時代の大渦に巻き込まれ、人生の総てを破壊され尽くしたスタルヒン。だが。例え何もかもを喪おうとも、消えぬ物が有る。人の縁だ。

没後。彼の死を惜しんだ同級生達の熱心な活動に依り、北海道に創設された新たな球場に或る名前が付けられた。


スタルヒン球場。


彼の名が冠された此の球場は今もなお使用され、今日此の時もまた、白球に夢を観る人々を優しく包み込んでいる。

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