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歴史人物浅評  作者: 張任
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純白球の行末は

野球。世には多種多様のスポーツが溢れているが、一つ代表的な物を選ぶとなれば真っ先に浮かぶのは此れだろう。

戦前から人気を博し、今尚人々を熱狂させる此の球技には其れこそ無数の逸話、英雄、事件を創り出してきた。

一試合に選手や応援団の夢、希望、友情が詰め込まれた野球と言う存在は、今後も国民的な物として続いていくだろう。

とは言え。幾ら未来に向かって未だ進んでいるとは言え、過去の事を識らぬままにただ風化させる道理も無い。

未だ国内にプロ野球と言う概念が存在しなかった頃。

市場を開拓するべく努力した者の苦悩、策謀、群像劇に奇跡。そして何よりも、黎明期故に起きた悲劇を忘れぬ為に。


ヴィクトル・スタルヒン。


其の身を野球の神様に愛されながら、自らを取り巻く情勢に只管に翻弄された偉大な選手について今回は記そうと想う。


_____________________


「銀白の白雪」


スタルヒンは20世紀前半、プロ野球選手として名を馳せた人物で在る。名前から分かる通り、彼は日本人では無い。

彼の出生地はロシア、其れも未だ帝制が続いていた頃。当時のロシア帝国は共産主義の波に呑み込まれつつあり、王朝に仕えていたスタルヒン一家は革命派から迫害を受けていた。

此の儘では真っ当な生活など送れよう筈も無い。

逃亡生活を続けた結果、心身共に衰弱し切った両親は亡命を決意。正しく身を削って得た大金を払い、日本は北海道、旭川の地に住居を手に入れた。此れで漸くと安息の日が来る。

苦難を乗り越えた一家は皆、そう考えて安堵の息を吐く。


しかし。そんな彼等を待ち受けたのは厳しい現実。

当地に於ける異分子に向けられた差別的感情の嵐だった。


自らとは違う容姿、髪色、言語を持つ一家は旭川住民から奇異の目で視られ、事情が知れ渡るに連れて陰口すら囁かれる様になった。故郷を捨てた卑怯者と言う謂れなき非難を。

誤解を解こうにも言語すら違うのでは、会話すら至難の業。

差別と偏見に塗れた生活の中、最も深く傷付いたのは一人息子…未だ世間を識らぬ幼き日のスタルヒンだった。


子供特有の無邪気さは、時に加減無き残虐さにも繋がる。


当時の彼が受けた仕打ちが正に其れで突然と暴行を受けるのは日常茶飯事、酷い時には石を投げられ怪我にまで至る。

そして痛がる様子を観て投げた子供達は笑い転げるのだ。

国を棄てた『卑怯者』にはお似合いの格好だと。…当時の彼の心痛は如何許りか、余りの壮絶さに言葉も出ない。

身体と精神に受けた苦痛はスタルヒンを苛み、ロシアに居た頃は活発だった彼の姿は見る影も無く、ただ無言無心で日々を生きる様になる。幸福の光明すら見えぬ暗黒の日常。

そんな或る日の事だった、彼の人生に転機を齎す出来事が起こるのは。突如、自分の足元に転がり来る一つの白球。

野球、そしてチームメイトとの出逢い。其れがスタルヒンの人生に大いなる光を齎した。天才野球選手としての道をだ。


「冬、後に春。そして。」


1934年、北海道の或る球場にて。熱気に沸く人々の群の中心に、件のスタルヒンは居た。無敵のエースとしてだ。

小学生時代、偶然に出逢った少年野球が彼の人生を変えた。

白球を手にした事が切掛で試合に誘われたスタルヒンは、其処で才能を遺憾無く発揮。日本人離れした体格に加え卓越したセンスも活かし、八面六臂の大活躍を果たす。


投げれば同級生はおろか上級生、はたまた大人で在る教員すら掠りもしない豪速球を、打てば瞬く間に青空へと消え去り行く超特大アーチを、走れば一人だけ20m後方に下がった徒競走でぶっちぎりの一位を取る駿足を魅せたスタルヒン。


彼の驚異的な身体能力に人々は驚き、そして賞賛の声を挙げた。日々、悪辣な言葉を吐きかけられた彼にとって其の声は初めての、痛みでは無く安らぎを感じる物だった。

自分の成した事で他人が喜ぶ、此の経験はスタルヒンの脳裏へと深く焼き付けられ、野球選手を志す発端と成る。

其れだけでは無い。彼は夢以外にも大事な物を手にした。

仲間。共に過ごして、共に笑って、互いに助け合う存在。

初めて、そして漸くと現れたスタルヒンを真っ直ぐに観てくれる人々は苦痛で凝り固まった心を癒し、暗闇ばかりの人生に光明を見出す転機とも成った。彼等と過ごす時間はスタルヒンの精神を暗黒から救い出し、善き方向へと導いていく。

自己を護る為の殻を棄て去り、元来の天真爛漫な性格を取り戻した彼は野球仲間の応援と交遊、何より偏見の眼から自身を守護る尽力を以って、瞬く間に英雄への階段を駆け登る。


驚異的な能力の評判は人から人へと次第に伝播し、部内から学校、其所から街の一角、果ては県全体へと拡がり、何時しか『北海道の誇り』と称される程に彼は成長していく。


幼年期から続く苦難の日々の末、漸くと人並みの幸福を勝ち取る事が出来たスタルヒン。…しかし、彼が持ち合わせていた才能は余りにも大きく、そして眩し過ぎた。

輝きを目にした異界の住人の興味を惹かせてしまう程に。

時は1934年、事は日米野球。世間の荒波に揉まれたスタルヒンの人生は、此の時から激動の唸りを上げていく。


「慕情の汽笛」


日米野球を画策し、実行に移した某新聞社オーナーは難題に頭を悩ませていた。日と米の、圧倒的な実力差についてだ。

昨年実施された前大会は惨敗。17戦中17敗と目を覆う結果に終わり、今大会も既に5連続で敗北を喫していた。

此の儘では同様の結果に終わるやも、否、其ればかりか『先ずは一勝』と啖呵を切った手前、状況は更に悪いと言えた。

戦力、米国に対抗し得る人材が必要だった。何としても。


其の折だ。地方で活躍するスタルヒンの事を聞いたのは。


常人離れした彼の身体能力は正に求めていた物で、早速とオーナーは件の選手、スタルヒンの勧誘を部下に命ず。

必要と有れば俺の名前を使って何をしても構わない、とまで言い放つ。如何に日米野球に注力していたか分かる話だ。

さて此の勧誘、給金と待遇に糸目を付けない事で円満に成功した…訳でも無かった。寧ろ逆、事態は拗れに拗れた。

当時は学生の本分を護る為か、それとも『何か』が有ったのか、在学生をプロ野球の試合に招聘する事を禁止していた。当然ながらスタルヒンは学生。此の規約に引っ掛かる。

此の問題は学校を中退させて学生では無い事にして勧誘する力業で突破したのだが、拗れた原因は次の段階で現れた。


当の本人が進学を望み、野球選手の就職に難を示したのだ。


北海道の地を第二の故郷と定めたスタルヒンにとって、新聞側が提示した此の場所を離れる案は受け入れ難い物だった。

此の地に来て、此の地で育ち、此の地で救われた。

だからこそ此の地で恩を返したい。世話になった世界に貢献をしたい。其れが彼の偽らざる本音だったので在る。

とは言え新聞社側も成る程、それならば仕方無いとすごすご帰る訳にも行かない。他ならぬ社長命令で在る上に、日に日に日米野球の観客動員数は減っていく一方。是が非でも隠し球たる彼を連れて行かねばならないのだ。…だがしかし、利では無く情で動く人間を従わせるのは至難の業。

如何な方法ならばと彼等は情報を集め、思案を巡らせ、そして遂に方法を考え付いた。情深き彼を縛り付ける魔の法を。


或る日。スタルヒンが家に戻ると、幾度か勧誘を受けた新聞社のスカウトマンが其処に居た。…母親と一緒に。

奇妙には思ったが、兎も角と断りは入れねばなるまい。

彼は何度と無く口にした固辞の言葉を出そうとして、すんでの所で相手に遮られた。其の話をしに来た訳じゃ無いと。

勧誘では無い?ならば何故、此処に来た?スタルヒンの脳裏に嫌な予感が疾る。まさか。調べたのか、何かを。


『君の所に訪れる度、常々と不思議に思っていたんだ』

『何時も君か、若しくは母親としか会わなかったからね』

『変だよねぇ…一家三人で北海道に来た筈なのに…』


スカウトは淡々とした調子で話を続けていく。反面、聞いているスタルヒンの顔面は見る見る内に蒼白と化す。

彼等の話し振りから父親の事を識っていると気付いたからだ。殺人罪で捕まり、刑務所に収監された父の事を。

彼の父親は祖国情勢が原因の同僚との諍いの末、誤って其の人物を死に至らしめてしまった。理由が有るとは言えど殺人は殺人、罪を裁かれ償わない訳にはいかない。

不幸中の幸いで一家の知己の者達は亡命者と言う事情を理解していた事も有り、何かしらの迫害に遭う事は無かった。

しかし父の犯した罪はスタルヒンにも重くのしかかり、何処か心の中でしこりの様に何時迄も残り続けていた。

スカウトは此れに着眼し、罪悪の元たる其処を一気に突く。


『君等は亡命して此処に来たのに、犯罪を犯すなんて』

『恩を仇で返すとは、何とも嘆かわしい事じゃあないか』

『此の事を政府に伝えれば…どうなるか分かるかい』


『きっと本国へと強制送還されるだろうさ』

『貴族を殺したがっている君の祖国へとね』


…スカウトの冷酷な言葉を聞いてスタルヒンは息を呑み、吐き気と目眩に耐えながら必死で反論をする。

既に犯した罪は裁かれており、当人も刑務所へと服役している。にも関わらず強制的に送還される謂れは無いと。

だが相手は事も無げに答える。私の上役は政府高官とも交友関係が有る。彼等に融通して貰えれば、多少の真実など捻じ曲げて異国の人間を弾き出すなど容易い事だ。

スタルヒンは唖然とし、言葉を喪った。反抗の気概も消え失せ、ただ立ち尽くす事しか出来なかった。最早、何をしても意味が無い。選べる道など無いと理解したが故に。

後日。彼は母校に涙で滲んだ退部届を出し、そして逃げる様に走り去った。後方で声が聞こえた気がしたが、一度として振り返らなかった。戻る事など出来ないと識っていたから。


総てを投げ捨て、愛した地を放り出し。悲哀に満ちた彼を乗せ、列車は一路東京へと向かう。人の気持も識らぬ儘。

出発の汽笛が鳴り響く。少年には其れが仲間の声に聞こえた。自分を呼び止める、自分を救ってくれた者達の声に。


_____________________


画してヴィクトル・スタルヒンは本人の意志に関わらず、突如として野球選手の道を歩み始める事と成る。

祖国の都合で命すらも危うい幼少期を送り、漸くと安全な地に辿り着いたと思えば差別の被害を被る。其れでも努力して幸福を掴み取ろうとした矢先、積み上げた物を根刮ぎ奪われ、恐怖の首輪を付けられると言う悲劇。

革命に依る混乱、異分子への不安、難民に対する凶行と、彼の人生は国家と言う物に幾度と無く振り回された。

上記の事を見るだけでも、スタルヒンと言う人物が純然たる被害者で在る事は分かって頂けただろう。彼は何時でも、自分とは関係の無い事柄から不幸を齎された。


そして、其れはプロ野球選手に成ってからも続くのだ。

より冷酷に、より苛烈に。彼の精神を何処までも蝕む様に。


次回は彼の後半生、選手に成ってからの活躍、そして最期の時までを記そうと想う。世に振り回された、彼の闘いを。

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