第10話:終わらぬ和音(最終話)
庭園から、賑やかな声が聞こえてきた。
ひ孫たちの笑い声に混じって、大人の声がいくつかする。困ったような、しかし楽しそうな声。
「あ、団長が捕まってる」
セフィラがバルコニーから身を乗り出して、くすくすと笑った。
見れば、庭園の芝生の上で、ヒカルがひ孫の一人に馬乗りにされていた。白髪が風になびき、以前より少し猫背になったその背中に、五歳くらいの女の子が嬉々として乗っている。もう一人が「じいじ、次は私!」と駆けてくる。
その傍らで、亜麻色のショートカットをした小柄な女性——リリアが、両手を腰に当てて苦笑していた。
「さあ皆さん、そろそろ夕餉の時間ですよ。ヒカル様も、いい加減お立ちください」
「えー、もう少しだけ!!」
孫たちが口を揃えた。ヒカルも、それに便乗するように静かに言った。
「……仕方ないだろう。楽しいんだから」
「もう、ヒカル様まで!」
リリアがため息をついた。それでも声に棘はなく、長年この方に仕えてきた者の、諦めと愛情が混じった溜め息だった。
「毎日かくれんぼに付き合わされているのよ、リリアは」
レヴィアが呆れたように笑った。
「メイド隊総動員で、お城中でかくれんぼするの。昨日は東の塔の物置でリリアが見つかって大変だったって」
「本当に」とルーナが苦笑した。「リリアが物置から出てきた時の顔といったら」
ソイルが、バルコニーから庭園のリリアを静かに眺めていた。その目が、懐かしそうに細くなる。
「リリアさんには、私も随分と遊んでもらいました」
「そうでしょう」とテラが穏やかに言った。「小さい頃、よく面倒を見てくださっていましたね」
「転んで泣いたら、いつも一番に来てくれて。お城のどこで泣いていても、必ず見つけてくれるんです。どこに隠れていても——気配を殺してじっとしていても」
「それはリリアだもの」
セフィラが少し真剣な顔で言った。
「あの人の索敵能力は本物よ。竜族の感知魔法より、ずっと静かで確実。……鍛え方が、そもそも違うから」
部屋が少し静かになった。
誰もが知っている。リリアがどういう訓練を経てきた人間か。その小柄な体に、どれだけのものが刻まれているか。それでも今こうして、孫たちの乳母として笑っている。
「王室メイド隊長官は今日も現役ね」とレヴィアが静かに言った。誰も笑わなかった。それが最大の敬意だった。
庭園では、リリアが孫たちの手を引きながら、ヒカルに何か言っている。ヒカルが頷いて、ゆっくりと立ち上がった。
リリアが、ふとバルコニーの方を見上げた。私と目が合う。
彼女は深く頭を下げた。私も静かに頷いた。
五十年。この方もずっと、変わらずここにいる。
しばらくして、庭園から足音が近づいてきた。扉が開き、ヒカルが顔を出した。
白髪が混じった黒髪、穏やかな茶色の瞳。部屋の中の顔ぶれを見渡して、ヒカルがわずかに目を瞬いた。
「……今日は多いな」
「何か問題でも?」とレヴィアが言った。
「問題はないけど」ヒカルが苦笑した。「リリアに『夕餉までには戻ってください』と言われたので来た」
「ヴァルキリア様とアクア様も、たまにいらっしゃいますよ」とソイルが言った。
「あの二人も来るのか?」
「先週はヴァルキリア様が法律の相談で。アクア様は昨日、政策の草案を持って」
「『たまたま近くを通った』という顔で来るのよ」とレヴィアが言った。
「それが彼女たちらしい」と私は静かに言った。
ヒカルが少し笑いながら、私の隣の椅子を引いた。座り際に、ごく自然に私の手を取る。長年連れ添った夫婦の、当たり前の仕草だった。
「模型作りはどうだった?」とヒカルがソイルに聞いた。
「最終案が完成しました。ご覧になりますか?」
「見せてくれ」
ソイルが模型を差し出す。ヒカルは少し身を乗り出して、円形の議事堂を眺めた。
「……きれいだな。円卓が中央にあるのか」
「ヒカル様の、お父様の作戦円卓の理念を引き継いで設計しました」
「俺の?」
ヒカルが少し驚いた顔をした。それから、模型をもう一度静かに見た。
「……ありがとう、ソイル」
その言葉は短かったが、重かった。ソイルが静かに頷いた。
「ねえ、ひ孫たちと何してたの?」とセフィラが聞いた。
「かくれんぼ。……毎回同じ場所に隠れているのに、なかなか見つけてもらえなくて。さすがにティアとフレイも今日は訓練があると言って、途中で切り上げていってしまった」
「あの二人も忙しいですからね」とルーナが穏やかに言った。
「それでもひ孫たちの相手を毎日してくれているのだから、十分よ」とレヴィアが言った。
「クレイとマールは?」とヒカルがソイルに聞いた。
「クレイはまだ工房にいます。来月には戻ると手紙が来ました。マールは今日も仕事で……」
「そうか。クレイが戻ったら、この模型を見せてやれ。きっと喜ぶ」
「ええ、そのつもりです」
ソイルが模型を撫でながら、少し嬉しそうに笑った。
部屋に、温かい笑いが広がった。
笑い声が少し落ち着いた頃、私はヒカルの隣で静かに窓の外を見ていた。
新王都の夕景。石畳の街路に灯火が灯り始め、人と竜とエルフが行き交う。五十年前、荒野だったこの場所が、今はこうなっている。
ヒカルの手が、私の手をゆっくりと握り直した。
(残された時間は、長くてもあと二十年か三十年——)
人間の命は短い。ヒカルも、私も、竜姫たちと比べれば瞬きの間に老いていく。竜姫たちの時間は永遠に近いが、私たちの時間はもう多くない。
だが、恐怖はなかった。
ユリウスがいる。あの不器用な息子が、私の刻んだ法を受け継いで、今日も誰かと正論をぶつけ合っている。ソイルがいる。テラの娘が、私が文字で書いたものを石と木で形にしようとしている。
そして——この部屋に集まった人たちがいる。
レヴィアは五十年経っても変わらず騒がしく、しかし誰よりも真っ直ぐにヒカルを愛している。テラは静かに全員を包んでいる。ルーナは光を灯し続けている。セフィラは自由に飛び回りながら、要所要所で戻ってくる。
ヴァルキリアは……、今日は来ていないが、先週も法律の相談で顔を出した。アクアは昨日、新しい政策草案を持って来た。どちらも「たまたま近くを通った」という顔をして来るのが、この方たちらしい。
みんなが、ここにいる。
「……ねえ、レオーネ」
ヒカルが静かに言った。
「何ですか?」
「俺、ちゃんと礼を言えてたかな。今まで」
私は少し驚いてヒカルを見た。
「何の話ですか、突然」
「いや、ソイルの話を聞いてたら……。お前がずっと、俺の見えないところで色々やってくれてたんだなって、改めて」
「もう、今更ですか」
「今更だけど……」
ヒカルが、少し苦笑した。
「俺は優しいものしか信じられない人間だから、冷たいものが見えない。お前が俺の見えない場所で、冷たい盾になってくれてたんだろうと思って。……王だった間も、引退した後も、ずっと」
私はしばらく黙った。
「……知っていたのですか?」
「全部は知らない。でも、お前がいなければ、この国はもっと早く綻んでいたと思う」
レヴィアが「珍しく素直じゃない」と言った。テラが「静かに聞きましょう」と嗜めた。
私はヒカルを見た。白髪が混じっても、その瞳の奥の光は変わらない。あの降伏交渉の場で初めて見た、静かで深い眼差し。嘘をつかない人間の目。
「礼ならば」
私は静かに言った。
「この五十年を、隣で生きてくれたことが、すでに十分ですわ」
ヒカルが少し目を細めた。
「……それはこっちの台詞だ」
夕日が、新王都を黄金色に染めていた。
石畳の街路、円形の市場、遠くに見える建設中の議事堂の骨格。この景色の全てに、誰かの時間が刻まれている。
庭園の方から、子供たちを呼ぶリリアの声が届いた。「ライオス様、シズク様もお揃いですか——夕餉の準備が整っております」。ライオスとシズクも今日は王都にいるらしい。夕餉の席は、また賑やかになるだろう。
ユリウスは今日も議会で遅いとソイルが言っていた。帰ってきたら、この模型を見せよう。あの子はきっと、音響設計の法令基準がどうとか言い出すだろう。それでいい。
「本当に素晴らしい人生でした」
私は静かに言った。
「貴方という奇跡の和音に出会えて。そして皆様と一緒に生きられて」
ヒカルが、私の手を握ったまま答えた。
「君の厳しくも優しい伴奏があったから、僕はちゃんと王でいられたんだ」
レヴィアが「なんか今日はヒカルがかっこいいわね」と言った。
「今日だけじゃないでしょう」とルーナが穏やかに言った。
「たまにはね」とレヴィアが言った。
ヒカルが苦笑した。私も、つられて笑った。
ソイルが、静かに模型を撫でた。建設中の議事堂と、手元の模型を見比べるように。
「完成したら、一番に見てください。お義母様」
「ええ。必ず」
テラが、窓の外に目をやった。
「グラウンドも、帰ってきた時に見せてあげたいですね」
「あの子、帰ってくるかしら」とセフィラが言った。
「帰ってきます」とテラが静かに言った。「たぶんお腹が空いたら」
また笑いが起きた。
ヒカルが、庭園の方を見た。ひ孫たちがまだ走り回っている。リリアが追いかけながら、それでも笑っている。夕暮れの光の中で、小さな影が弾けるように動いている。
「あの子たち、元気だな」
「毎日かくれんぼですから」と私は言った。
「やれやれ明日も付き合わないといけないな」
「太王様が一番楽しんでいるのですから、仕方ありません」
ヒカルが「そんなことない」と言った。誰も信じなかった。
私は目を細めて、夕日に染まる新王都を見た。
帝国の皇女として生まれ、敗戦国の娘として嫁ぎ、法の番人として生きた。剣も魔法も持たなかった。ただ羽ペンを走らせ、数字を追い、人間の論理を盾にして五十年を歩いた。
それで——十分だった。
法は残る。建物は残る。そして、この黄昏の温もりが、記憶として残る。
竜の姫たちが傍にいて、息子が法を守り、義娘が器を造り、リリアがひ孫たちを追いかけ、夫が手を握っている。
これ以上、何が必要だろう。
夕日が稜線に沈み始める。新王都の灯火が、一つ、また一つと瞬き始めた。
レオーネ・アルトリアの、充実した黄昏は、静かに、しかし確かに、続いていた。
【了】
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