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第二話 十三試双発陸上戦闘機

かなり開発に無理があります。


架空戦記は難しいですね。

昭和12年(1937年)に始まった、支那事変における大陸への渡洋爆撃において、護衛を付けられない九六式陸上攻撃機は、中華民国空軍の果敢な迎撃により大きな被害を受けていた。その事に衝撃を受けた海軍は、より高速かつ重武装の「十二試陸上攻撃機」(後の一式陸上攻撃機)の開発を急遽開始する一方、翌昭和13年(1938年)11月、中島飛行機に対し陸攻援護専用の遠距離戦闘機である「十三試双発陸上戦闘機」計画要求書を提示した。


十三試双発陸上戦闘機

1.形 式:双発三座

2.最高速:280ノット(約519km/h)

3.上昇力:6,000mまで6分

4.航続力:正規1,300浬(約2,408km)、過荷重2,000浬(約3,704km)

5.武 装:機首固定20mm×1、7.7mm×2、後部遠隔操作式動力旋回7.7mm×4

6.その他:十二試艦戦(後の零式艦上戦闘機)と同等の運動性能を有すること。陸攻と同等の航法・通信能力を有すること。


しかし、中島だけに任せて良いのかと海軍航空廠の一部課員が危惧し、海軍としては珍しい一部課員達の結託により三菱にも計画要求書が提示された。しかし後にそれが数人の課員の独善的な行為だと知られる事に成ったが、三菱の担当武官がその課員の親族だった関係で見て見ぬ振りをして貰い、海軍上層部が気が付いたときには機体は既に完成してしまい、航空敞の幹部も仕方なしに事後承認することになった。


この要求書に対して三菱側は十二試艦上戦闘機、十二式陸上攻撃機という二大主力機を開発中であり、とても要求に応じられない旨、辞退をするつもりであったが、海軍側課員のごり押しにより受けざるを得なくなったが、『実験機であるので、仕様に関しては参考程度で三菱側の自由にしても良いと』言質を取る事ができた。


三菱側は開発主任として設計部長河野文彦と話し合いの末、設計課長服部譲次自らが名乗りを上げた。


機体は双発と言う事で、十二試陸上攻撃機や九六式陸上攻撃機も参考にされたが、やはり一番参考にされた機体が同じ三菱でありながらもこの当時試作中であった陸軍のキ-46(100式司令部偵察機)であった。本来であれば、陸軍海軍の仲の悪さから双方の行き来すら困難な状態で有ったが、海軍側が仕様書で『三菱の自由にしても良い』と書いた事でで海軍も黙るしか無かった。


そして陸軍次官、陸軍航空本部長である東條英機の次男東條輝雄技師が服部の部下であった為に、輝雄自身の個人的な対応で陸軍側にも話を通し、異例とも言えるキ-46の設計者である久保富夫技師に設計の一部を委託するという裏技を行う事が出来た。


発動機として当初の予定では金星44型が候補に挙がったが、双発でも2160馬力に過ぎない事、今後の改良を行っても画期的な出力を得られない可能性を鑑み、早々に候補から外れる事と成った。


その為、更なる馬力UPを狙い、当時十二式陸上攻撃機に搭載が決まっていた。十三試へ号に搭載発動機を変更する事にした。当初は重すぎる発動機に不安を覚える者もいたが、此により重量及び空気抵抗は増えるものの、出力は3000馬力を超える事に成る為にアウトラインを決める事が出来るようになった。


十三試へ号への変更によって、同じ発動機を使う、十二式陸上攻撃機の本庄季郎技師のチームとの発動機、プロペラ部門での協力も得る事が出来た。 


キ-46で既に出来上がりつつ有る外観に戦闘機としての強度を足す形で設計は進み、翌年の昭和14年7月にはモックアップが完成し、海軍側の審査を受けたが、何分にも一部課員の独断であったが為、この時点では航空技術敞も把握しておらず、ほぼ三菱の設計通りに実機製作が始まった。


試作機の製作はとんとん拍子で進み、試作一号機は昭和15年9月30日に完成するに至った。この機体は中島の十三試双発陸上戦闘機が海軍側の無謀な要求に応えるべく無理を重ねていたのに対して、海軍側の無茶な要求を殆ど無視した形での完成であった。


要求では双発三座であるところが、双発二座であり、遠隔操作式動力旋回機銃は重量過大で信頼性が低いためデッドウェイトにしか為らないため装備しない事にし。格闘戦も殆ど無視の設計であった。


試作機は流石にこの頃に存在が海軍航空本部長 井上成美中将や海軍航空技術廠長 和田操少将の耳に入り、井上中将は一部軍人の勝手な行動に眉を顰め、和田少将は即刻開発中止を命じたが、一部課員が聯合艦隊航空参謀に事態を知らせ、参謀より話を聞いた聯合艦隊司令長官山本五十六中将が興味を持って、井上、和田両名に『出来てしまった物を飛ばさぬのも気の毒だ』との言葉で試験飛行を行う事に決まった。


紆余曲折があったが、名古屋から各務ヶ原飛行場へ輸送され、10月25日海軍航空技術廠長和田操や聯合艦隊航空参謀の前で初飛行した。


和田操は、おざなりに見て、開発中止を決めるつもりであったが、山本五十六の命で全力試験を行うまでの試験飛行続行が決まり、関係者をホッとさせた。


昭和15年12月までに試験飛行が続き、最大速度は605kmを発揮したが、巴戦のなどを行うには運動性能は劣悪であり、三菱側も元々格闘戦を考えていない機体であったが為に、ここへ来ての海軍側の試験に慌てる事と成った。


それでも十二試双発陸上戦闘機の要項より100km近く高速であり、一部パイロットが行った、巴戦以外の戦闘では垂直面での速度を生かした戦法でなら、96式艦戦に引けを取らない事が次第に判ってきた。


それを聞いた山本五十六が、軍令部総長永野修身に直談判の末、開発続行が決定した。此を持って、井上成美、和田操も首を縦に振るしか無く、開発が続行された。


同じ頃、十三試へ号改め火星の18気筒版Mk6A発動機が開発され、火星より一基あたり400馬力強の出力UPで有る事から、試作2号機からはMk6Aを装備する事に決定した。


それに伴い、同じMk6Aを搭載する陸軍キ-67のエンジンカウリング、VDM電気式プロペラの技術が流用される事に成り、キ-67小澤久之丞技師の協力を得る事が出来た。


その結果、昭和16年年5月に完成したMk6A搭載の2号機では最大速度が640kmに増速した上で、一撃離脱戦法においては零式艦戦を凌ぐ運動性を見せる事と成った。


その結果、中島の十二試双発陸上戦闘機に比べ格段の差が出た為、海軍側と中島との紆余曲折があったものの、複座型を一式陸上戦闘偵察機J1M1-Rとして、7月に完成した単座型を一式陸上戦闘機J1M2として採用する事が決まった。


ただし中島の十二試双発陸上戦闘機も開発が続行され、この件にしては玉虫色の解決と成った。


量産一号機は機は昭和16年11月から配備され始め、横須賀航空隊を皮切り、翌17年には台南空に単座型3機が配備されたのを皮切りに、3月には艦上機として主翼の折りたたみ機構を取り入れた一式艦上双発戦闘機J1M3-Aとそれを複座化した機体が緊急生産され、単座型24機、複座型6機が5月までに完成した。


この機体は、当時日本郵船の豪華客船樫原丸を改造した特設空母橿原丸に乗せる為に山本五十六の突拍子も無い考えから作られた物で、滑走距離を稼ぐ為に、第四次軍備充実計画(通称マル4計画)の丙巡用として開発された、空気式の二式一号一〇型射出機1機を甲板に埋め込んで加速させる事になった。


その結果、当初はアリューシャン作戦に参加するはずだった、橿原丸は鳳翔に代わり聯合艦隊主力と共にMI・AF作戦に参加する事と成り、代わりに鳳翔が龍讓と共にアリューシャン作戦へ参加する事となった。


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