特殊個体・放浪残響⑤
硬い壁が砕ける。地面が裂け、広間の列柱は崩れ落ち、その破片が風に煽られふわりと舞う。
それが頬に当たるのを気にすることもなく、ルキナは蒼く明滅する広間の中を疾走する。
「はッ――」
漏れる荒い息。痛む胸と足。擦り傷だらけの体のままに、少女はジグザクとした動きで前へと進む。
赤い両目が見据えるモノは虚ろな"残響"。擦り切れた外套を身にまとった、怪物。
刹那、ルキナの横を轟風が通り抜けた。もし彼女が、少しでも動きを止めていたのなら、それは彼女に直撃していたであろう。
しかし、恐れてなどいられない。後ろから響く破壊の音を無視しながら、少女はただひたすらに前へと駆ける。
"残響"の体に纏わりつく風が唸りを上げて、少女を襲う。風の砲と銃が、少女がステップを踏む度に、その小柄な体を掠めていく。
革鎧が破ける、白いローブに穴が開く、頬を擦った銃弾が白い肌に赤の直線を引く。だが、引かない。前へと駆ける。
つま先で蹴った地面が直後に弾ける。爆風で飛び散る石の破片がルキナの体を容赦なく傷つける。だが、駆ける。
「アぁッ――!!」
雄叫びを上げながら前へ、前へ、ただ前へ。
銃と砲の弾幕の中を、紙一重で躱し抜けた、その先へ。
そして、ついに――間合いが詰まった。
ルキナの目の前、数足を踏み出せば、手が届くような距離。
右手に握った短剣を強く握りしめながら、駆け抜けた勢いのままにそれを振るおうと、ルキナが振りかぶる。
"残響"の風の砲も、そして銃も、この距離のルキナを撃つのは間に合わない。だが、"残響"には別の攻撃手段がまだ残っている。
その瞬間、怪物はただ脚を引く。
そして――その足をルキナに向って、全力で振るった。
"残響"の蒼白い脚に不釣り合いな、酷いほどに純白の金属靴が蒼い光を反射しながら、ルキナと"残響"の間の空間を切り裂く。
横一文字に薙がれたそれが意味するのは――必殺の一撃。
影が持つもう一つの攻撃手段、不可視の刃が放たれた。
「……ッ!!」
ルキナが赤い目を見開く。
見えない。しかし、そこに刃は必ずある。
分厚い石すら簡単に切り裂く、絶対的な切断現象。革鎧のルキナが受ければ、間違いなく、真っ二つにされるだろう。
そして、ルキナはもう勢いを殺せない。その体は吸い込まれるように、斬撃の前に晒される――
『――飛んでッ!』
直前に、ルキナは踏み込んだ右脚で、思い切り地面を真下に蹴りつけた。
そして――少女の体がふわりと空へと浮かび上がった
界約による質量操作。走りこむ勢いを殺さず、自らの質量を軽くしながら地面を蹴る。そして、少女は振るわれた刃の、その上へと兎のように跳ねた。
少女の真下を見えぬ刃が通り過ぎる。そして疾走の慣性は死なず、空中にある少女の体を前へと運ぶ。
今度はルキナが振りかぶった短剣が、蒼い光を反射した。
「――!!」
重力に従って墜ちる体。それと共に、ルキナは体重を乗せた短剣を渾身の力で振り下ろす。
その切っ先が、"残響"の脳天へと吸い込まれ――
だが、届かない。
刃が外套に触れた瞬間、怪物の体が風に紛れて掻き消える。
「ちっ……!」
少女の口から思わず舌打ちが零れる。
絶対回避の異能――"残響"の持つ無敵の防御。その発動が間に合っていた。
短剣は虚しく空を裂き、ルキナの体は、勢いのままに無防備に着地する。
――そして、その隙を、"残響"は見逃さない。
気配は背後。
消えた怪物の姿が、少女の真後ろで像を結んでいた。
既に振り上げられている青白い脚の先、白の金属靴が振り返ったルキナの頭蓋を狙っていた。
そして、振り下ろされる死神の鎌。それが少女の体を真っ二つに引き裂かんとして――
――それを待ってた。
刃を放つ、その一瞬。
"残響"の持つ何でも断ち切る切断の異能と、全てを躱す回避の異能。
正しく無敵の能力だが、しかし、その一瞬だけ、それらにはわずかな綻びが生じる。
ルキナが上空から短剣を振り下ろし、"残響"が躱して背後から奇襲――全く同じ状況がほんの少し前にもあった。
前回は間一髪、殆ど偶然で命を拾ったが今回は違う。
これはルキナが撒いた"餌"だ。
躱されると分かった上で刃を振るい、あえて無防備な隙を晒し、それに"残響"が食いつくことに賭けた。
全てはこの一瞬を引きずり出すため。
回避を捨てて刃を振るう瞬間という、無敵の能力の中の、唯一の綻びを。
そして少女は――賭けに勝った。
振り向きざまに、ルキナは右足を引いた。
軸となるのは左足。そのつま先で確と石畳を掴み、上体を捻り、その捻りの力を、右脚の付け根へと溜め込む。
そして――界約。
『飛んで――』
振り抜こうとする右足、その一点へ彼女は己の異能を込めた。疲労で重たくなった右脚が、次の瞬間、羽根のように軽くなる。
捻り戻す上体の遠心力で、極限まで軽くした足を運ぶ。途轍もない速度で、ルキナの右脚が下から掬い上げるように跳ね上がった。
狙うは、振り下ろされる"残響"のその脚。
そして二つが交錯する、その瞬間に――
『墜ちてッ!!』
再度の界約の行使。今度は反対に、その足を極限まで重くする。
衝撃力は速度と質量の掛け合わせ。軽くすることで速度を得て、衝突の瞬間に重くする。
速度と質量、その両方を一つの蹴りに宿す、界約の妙技。
「嗚呼ああああああァッ!!」
ルキナの口から自然と溢れ出す。
極限まで高めた重量と、"残響"の全霊の一撃。相反する二つの力が真っ向からぶつかり合う。
そして――鈍く重い衝突音が、広間に響き渡った。
掬い上げられたルキナの右脚が、振り下ろされる"残響"の脚を、その根本から真上へと弾き上げる。
彼女の頭蓋を断つはずだった不可視の刃は、大きく軌道を逸らされ虚しく宙を薙いだ。天井が裂け、そこから破片が零れてくる。
だが、それだけでは終わらない。
極限まで重さを乗せた一蹴り――その全質量が"残響"の細い脚へと容赦なく叩き込まれたのだ。それはルキナの細い脚からでは想像もできない程の威力がある。
びきり、と。
これまでとは比べ物にならない亀裂が、"残響"の脚を膝から付け根まで、一息に走り抜ける。
乾いた蒼白の破片がごっそりと剥がれ落ち、地面に落ちる前に風の中に消えていく。
そして同時に――その凄まじい衝撃はルキナの方をもただでは済まさなかった。
「ぐっ――」
爆ぜるような反動。
"残響"の足を弾き飛ばしたルキナの体が、逆に後方へと大きく弾き飛ばされる。
石畳の上を二度、三度と跳ね転がり、ルキナは崩れた列柱の残骸に背を打ちつけた。
「がッ…‼」
その衝撃に肺の中から空気が漏れる。背中に走った強烈な痛みに、思わずルキナは顔を歪める。
だが、それは残響も同じこと。弾かれた脚に体勢を奪われ、その身を広間の反対側へと大きく泳がせていた。
倒れこむルキナと揺らぐ"残響"。両者、痛み分け。
広間の中央を挟んで、大きく開いた両者の距離。
束の間の、静寂。
ルキナは、崩れた柱に背を預けたまま荒い息を吐いた。
全身が悲鳴を上げている。渾身の蹴りを放った右脚は痺れ、感覚が鈍い。受けた反動は間違いなくルキナのことを削っている。
だが――視線の先。広間の向こうで宙に佇む"残響"。その脚に刻まれた深い亀裂。剥がれ落ちた破片は、もう元には戻らない。
少女と"残響"の戦闘が始まってから既にそれなりの時間が経っていた。
少女の体感では永遠にも思えるような長い時間。だが、実際には数分か、あるいは十数分か、その程度だろう。この死闘の只中で、ルキナの時間の感覚はとうに麻痺していた。
戦闘の余波は広間中を破壊しつくし、いつの間にか並んでいた列柱の殆どは崩れ落ち、四方を囲む壁には無数の裂け目が走っている。
勿論それは、ほぼ全て"残響"の攻撃によるものに他ならない。
一体どれだけの攻撃を少女は躱し続けたのだろうか。
まるで嵐のように吹き荒れる、怪物の業。風の銃と砲、そして見えぬ刃――少なくとも百は超えるそれらによる猛攻をルキナは紙一重で躱し続けていた。
それでも、少女の体は少しずつ、そして確実に削られていく。
数えきれないほどの切り傷。
腕に、脚に、脇腹に――掠めた風の刃が刻んだ朱の線が、白い肌の至る所を走っている。深く裂かれた革鎧はもう半ば用を成さず、翻る白いローブも、無数の穴と裂け目で元の形を留めていない。
頬を伝った血が、顎の先からぽたりと石畳へ落ちる。汗と埃に濡れた白髪が、その端正な顔に、幾筋も張り付いていた。
息は上がりきっている。肺が焼けるように熱く、手足の一本一本が鉛のように重い。
握った短剣の柄すら、滲む汗で滑りかけていた。
これは消耗戦だ。ルキナの勝利条件は、敵の自壊をできるだけ早めることに他ならない。そして"残響"の自壊を早めるとは、即ち、その死の刃に幾度も身を晒すということ。
その代償が今、彼女の全身に刻み込まれていた。
「はっ、はっ――」
漏れる息。そのたびに、ずきずきと痛む肺。
それでもルキナは、地面に手を着いて立ち上がる。
守り抜く――そう決めたのだ。ここで終わってはいられない。
霞みかける視界を、無理やり見開く。笑う膝を叱咤して、踏みしめる。
視線の先、佇む"残響"。その体もまた、あちこちに罅を走らせ絶えず破片を零し続けている。
ルキナが躱し続けた無数の死線。その先で少女が"残響"に与えられた攻撃はたったの二回。
だが、その二回はどちらも、ルキナが放てる最大の、そして渾身の一撃だった。それは確実に"残響"のことを削っている。
怪物は、まるで痛痒など感じていないかのような佇まいをしている。だが、ルキナの赤い瞳には、それが確実に揺らいでいることが視えている。
始まりは底も見えなかったはずの怪物の■が、今や風前の灯と言えるほどに弱まっている。
つまり――どちらも、限界。少女も怪物も、お互いが満身創痍。
そんな中ルキナは、震える足に力を込めて、地を蹴った。
まだ動ける。まだやれる。どれだけ限界が近づこうとも、この脚が動く限り、戦いは終わらない。
未だ目を覚まさぬソラを守るために、再び前に出て、怪物を削り続けねばならない。
そして――がくり、とルキナの膝が崩れ落ちた。
「……え?」
グシャリ、と大地に身をさらけ出し、再び地面に倒れこむ己の体に、ルキナはただ茫然と言葉を呟くしかできなかった。
まだ動ける、まだ走れる、そのはずなのだ。体の限界は近いが、まだ動けないことはない――そのはずなのだ。
だがしかし、ルキナの体は彼女の言うことを聞かない。
立ち上がろうにも、足に力が入らない。糸の切れた人形のようにその場に崩れるだけ。
――どうして。
呆然とする脳裏に、遅れて一つの答えが浮かぶ。
ルキナは左手を、否、正確に言えばそこに嵌めた一つの指輪を見た。
塔遺物、"アトラスリング・レッサー"。装着者の疲労感を遅らせる、貴重なアイテム。
『これを装着している間、装着者は自身が思っているよりも疲労することになる。疲れないからって動き続けると、そのうち体が動かなくなっちまう』
そんな、ヴォルフの言葉を思い出す。
そうだ。この指輪は疲れを消してなどいない。ただ感じなくさせているだけ。
――思い込まされていた。
まだ動けると。まだ戦えると。その裏で、彼女の体はとうに本当の限界を超えていたのだ。それを感じないままに、彼女はずっと足を動かし続けていた。
そして今、遅れてやってきた疲労の全てが、一息に彼女の四肢を縛り上げた。
動けない。
よりにもよって、この瞬間に。
最悪の無防備を晒して――
そして――その一瞬を、"残響"が、見逃すはずもなかった。
だんっ、と大きな音が鳴った。
それは金属靴が地面に強く叩きつけられた、まるで地団太のような音だった。だが、それはただの地団太などではない。
その一撃は広間そのものを震わせ、怪物の足元の石畳に蜘蛛の巣状の亀裂が放射状に走り――
そして、次の瞬間、地が応えた。
これまでの死闘で砕かれ、抉られ、崩れ落ちていた、無数の残骸。
砕けた石畳の欠片。折れた列柱の破片。壁から削り取られた、拳大の岩塊。
広間中に散らばっていた、ありとあらゆる瓦礫が――ふわり、と、重力を忘れたかのように、一斉に宙へと浮かび上がった。
大小、数十どころか百すら超えるであろう石の欠片が、"残響"の目の前でゆっくり舞い上がる。
蒼い光の中、無数の破片が宙できらきらと明滅する。まるで星空が目の前に現れたかのような、そんな光景。
それは幻想的で――そして、あまりにも圧倒的な、死の予感だった。
宙に静止した、無数の礫。
それを前にして残響は足をゆっくりと上げる。
そして、目の前の虚空を、真横に蹴り抜いて。
その結果生まれたのは――津波だった。
横薙ぎに奔った足の軌跡。そこから広間の端から端までを一息に埋め尽くす、巨大な風の壁が生まれ落ちた。
それは風の銃、砲のような"点"ではなく、刃のような"線"でもない、"面"の攻撃。
突如として生まれた暴風が空間を歪め、広間中を照らす蒼い光がたわんで見えた。
広間の大気の、その全てが見えない壁となってルキナを目掛けて一斉に押し寄せる。
そしてその暴威はそれだけでなく、宙に静止した百を超える礫を根こそぎ呑み込み、それらを一斉に運んでいく。
正しく、石の津波。
逃げ場なき、面の攻撃。風と石の壁が視界の全てを埋め尽くして殺到する。
それはまるで、蒼く光る星空がルキナに向って墜ちてくるような、そんな壮観ともいえる光景だった。
避ける? ……否。そこに、避けるという概念は存在しない。
防ぐ? ……否。この質量を受け止められるものなど、あろうはずもない。
回避も防御もあらゆる抵抗を嘲笑う、絶対の暴力。
それはまるで、世界そのものが女ひとりを押し潰しに来たかのようだった。
もしルキナの体が動いていたのなら、あるいは抜け出すことが出来ていたかもしれない。
あるいは、攻撃が放たれる溜めの瞬間を狙って、怪物の懐に飛び込み、一撃を与えることも出来ていたかもしれない。
だが、もう遅い。ルキナの体は動かない。
膝を折り、地に伏したまま、躱すことも、前に飛び出すことも叶わない。
迫り来る風と石の壁。世界を埋め尽くす無数の死が、赤い瞳いっぱいに映り込んで――
その時。
ルキナの目の前に、突如として大きな黒い影が割り込んだ。
分厚い背中。掲げられた一枚の円盾。
その盾が押し寄せる風と石の津波を、真正面から受け止めた。
「ぐッ――」
ごおん、と、腹の底を揺さぶるような轟音が続く。続いて無数の石が盾に激突し、甲高い音を鳴らしながら、火花を散らして砕け、四方へと弾け飛んだ。
だが――その背中は、一歩も退かない。石の一つとてその向こうへは、通さない。
やがてその波濤が過ぎ去って、
「……無事、か?」
低く、静かな声。
呆然と見上げるルキナの前に、盾を構えて立つ、大きな背中。
それは――【高みを目指す者】のリーダー、ガレン。
「思ったより早い再会だな」
少し前に分かれたばかりの彼が、再びルキナの前に立っていた。




