休息と理由
変化は、壁に触れたその指先から始まった。
イズメが押した塔の模様の頂点が、仄かな、そして穏やかな青白い光を放った。
その光は石壁の内側から零れるように、紋様の輪郭をなぞりながら下へと流れ落ちていく。
塔の頂点から、一段目、二段目、そして三段目を辿って、やがて塔の模様の全体が光で満ちる。
更にその光はじわじわと模様からはみ出し、壁全体に網目状に広がっていく。
「おぉ……」
その異様な光景をソラはただただ、驚愕の目で見つめていた。
驚きに殆ど声も出ないソラの前で、光が壁の全面に行き渡る。
網目のように広がった青白い線が、壁の右端、左端、上端、下端の縁で、脈打つように点滅した。
その一拍後だった。
壁の中央ちょ、うど塔の紋様の位置に、縦にジグザグの亀裂が走った。
石と石が剝がれるような、パキパキ、という微かに乾いた音が鳴る。それと同時に、亀裂が上端から下端まで、真っ直ぐに走り抜けた。
そして――壁が動いた。
亀裂を境に、壁が左右にゆっくりと開いていく。裂けた壁がそれぞれ、左右の壁の向こう側へと消えていく。
ずずず、という石が石を擦る重く長い摩擦音が廊下の暗闇の奥まで低く響く。石畳が揺れ、天井からは細かい埃がぱらぱらと落ちてくる。
やがて、割れた二枚の壁は廊下の左右の石壁の奥へと、ピタリと収まった。
脈打っていた光も徐々に減退し、その場にはただ、薄暗い穴だけが残された。
いや、ただの穴ではない。
「……道」
ルキナがそう呟く。そう、それは道だ。
これまでの廊下とは違い、背も低く、幅も狭い暗闇の道。
道の先は、松明の光が届かない距離まで真っ直ぐに続いている。しかし、その先には、確かに微かな光が見えた。
橙色の松明の光ではない。もっと薄く、そして冷たい、青白い光。それが誘うように揺れている。
そして、暗闇から流れ出てくる空気には――水の匂いが含まれていた。
「――行こう」
驚きで固まっているソラに向って、ガレンがそう告げた。
「目的地はこの先だ」
暗がりの中を、イズメの持つ松明の微かな灯りを頼りに歩く。
暗くてよくわからないが、道はどうやら少しずつ下っているようだ。
暗闇の向こうから吹いてくる冷たい風が頬を撫でる。
しかしそれは嫌な冷たさではなく、むしろどこか清々しさすら感じる清涼な風だった。
下るにつれて、空気にはより濃い水の匂いが混じり、行く手の暗闇の底から、青白い光の気配が少しずつ近づいてくる。
やがて、松明の橙色に、正面から差し込む青白い光が濃く混ざり始めた。
その混ざり合いが、色として分離できないほどに強くなった時――道の突き当たりが、視界の縁に見えてきた。
行き止まりではなかった。それは――この穴の出口だ。
「着いたぞ」
ガレンがそう言って、先に光の中をくぐる。
続いてドール、そしてイズメが光の中へと消えていく。
「……行くか」
「ん」
他の全員が通ったことを確認してから、ソラとルキナはその出口を抜ける。
道の縁を跨いだ瞬間、視界の色が切り替わった。
「うぉ……」
先ほどからちらちらと見えていた青白い光。それが直接、かつ大量に瞳に飛び込んでくる。
暗がりに慣れた目には眩しすぎて、ソラは思わず目を腕で覆った。
やがてその光に目が慣れ、瞼を開いて腕を退かす。
その時、ソラの視界を入ってきたもの。
それは、
「……泉?」
それは青白く輝く、円形の泉だった。
「そう、ここが護衛依頼の目的地点――」
頭に疑問符を浮かべたソラに向って、ガレンは告げた。
「"癒しの泉"だ」
そこは、大きなドーム状の空間だった。
周囲を囲むのはこれまでの廊下と同じような石の壁。滑らかな球面を形成する壁の表面には、あの塔の模様が大きく刻まれている。
天井は高く、イズメの手にある松明ではそこを照らすことは出来ない。それでいて、広間には光が満ちていた。天井の細部まで視認できる程の光が、松明を必要としない程の光が。
その光の源は、目の前にあった。
広間の中央――ソラの視界の正面。そこに、静かに広がる円形の泉。
両手を広げて数歩、そう大きくはない水面。しかしその水面からは、広間全体を満たす程の光が放たれていた。
水そのものが光っているのか、それとも泉の下に光る何かがあるのかは、見ただけでは分からない。
水面から立ち上る蒸気がその光を含んで、広間の空気を薄い青の霧のように染めていた。
「……"癒しの泉"?」
「ああ」
ソラが呆然と聞き返した言葉に、ガレンは短く答えた。
その間に、イズメは肩に担いだリッキの体をそっと地面に横たえる。
彼女の意識は未だ戻っていない。その息は荒く、それに反して、まだ生きていることが不思議なほどに酷く蒼褪めた表情。
足首は青紫色に腫れ上がり、革の鎧に入った切れ目の下に除く包帯は溢れ出す血で真っ赤に染まっている。まさに瀕死の状態だ。
イズメは彼女を起こさないように、慎重にその体から革鎧を脱がし始めた。
「俺たちがそう呼んでいるだけだがな。だがまあ、この場所を知っているのは俺たちだけだから、それが名前でいいだろう」
ガレンの言葉が耳に入っているのかどうかも分からない程に、ソラは目の前の光景に見入っていた。
その視界の隅、イズメが鎧を脱がし終えたリッキの体を、両腕でゆっくりと持ち上げる。
そして――そのまま泉の中へと、リッキの体は沈められた。
「効果は単純――この泉に浸かった人間は、体が回復する」
「回復……」
ガレンの言葉を繰り返したソラは、見た。
泉に浸けられたリッキの顔。死人のように蒼褪めていたその表情に、微かに、赤みが戻り始めている。
「些細な傷だろうが、深い裂傷だろうが、病だろうが。死んでさえいなければ、この泉に浸かれば、全て元に戻る」
「だから……"癒しの泉"?」
「そうだ」
ガレンの視線が、一度泉の中のリッキに落ちた。
イズメが泉の縁に膝をつき、水面の中のリッキの体をそっと支えている。
ガレンの表情の、緊張の芯が僅かに緩んだ。
ガレンがソラに向き直る。
「ありがとう。俺たちの護衛依頼は、これで達成だ」
目の前のモノに対する疑問で満ちたソラとは対照的に、ガレンの顔には安堵と笑顔が浮かんでいる。
ガレンのその表情が、契約の完了を意味していた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「癒しの泉にはいくつか特性がある」
泉の縁の石畳に腰掛け、靴を脱いだ素足を水に浸けた状態でガレンは口を開いた。
「まず、モンスターが来ない。どうやらここはセーフティゾーンの一種らしい」
「まあ、あの仕掛け扉をモンスターが通り抜けれるとは思えないしな」
そんなガレンに言葉を返すのは、同じようにして足を泉に浸けたソラだ。
彼の横ではルキナもまた素足を水の中に沈めて、足を揺らしてちゃぷちゃぷと音を鳴らしている。
「次に、泉の水自体には癒しの効果はない。この水を汲んで持ちだしたとしても、それはただの水と変わらん」
「まあ飲める水ではあるから、補給目的で汲むのはありだと思うけどな」
その言葉に被せるように、ガレンの横にいたドールが口を開いた。
更にその横では、泉に浸かったままのリッキの体を足で支えながら、手元の古びたメモ帳に向ってペンで何かを書いているイズメが居る。
どうやら相当集中しているようで、その場の話に一切耳を傾けず、黙々とペンを走らせている。
「最後に、怪我の程度に応じて治癒までの時間が違う。疲労と軽傷程度なら30分程度足を浸けとけば治るはずだが、リッキみたいな重症の場合はもっとかかるだろう」
「ま、少なくとも俺たちは暫くここで留まらないといけないなー」
「なるほどな」
ソラは適当な返事を返しながら、自身の足元の光る水を見やった。
浅くもなく、かと言って深くもない。透き通った水のお陰で、泉の底は簡単に見通せる。
しかし、そこには何もない。どういう理屈で水が光っているのかは、結局さっぱり分からない。
だがその効果は確かなもので、確実にソラの体力は回復していた。
そもそも怪我などはしていなかったが、それでも六層から九層までを駆けあがり、多少なりとも疲れていたはずの体に活力が戻っている。
八層の洞穴からここまで、休むことなく歩き続けたソラとルキナは、ガレン達と同様に一回ここで休憩を取ることにした。
先を急ぎたい気持ちは勿論ある。しかし、ここは九層――イエソドの塔の頂の、その真下。
この先には何が待っているのか分からない。ここで休憩を取らなければ、この先いつとれるのかも分からない。
そんなわけで、ソラとルキナはこの場所で束の間の休息をとっていた。
「へーじゃあ、お前らは全員が"街"出身ってわけじゃないんだな」
「ああ。俺とリッキはスラム出身でなー、最初は苦労したもんだぜ」
「それに比べると俺は商家の三男坊、イズメは薬屋の娘だ。ドールやリッキに比べれば遥かに恵まれた環境だった」
気づけば、話題は癒しの泉や塔から、彼らの身の上に切り替わっていた。
ソラは上位冒険者のほぼ全てが街出身だと思っていたが、意外とスラム出身の人間もいるらしい。
「漸く五層まで到達したんだが、そこで突破に行き詰まってな。どうしようかと思ってた時に、ガレンとイズメにあったんだよ」
「俺たちもちょうど同じ状況でな。五層で足踏みしていた時にドールたちと出会って、それからは四人で行動するようになった」
「へー」
「組んでから数か月は酷かったなあ。お互いがいがみ合ったり、取っ組み合いの喧嘩なんかもあったモンだ」
「懐かしい話だ」
「ほーん」
ガレンとドールが顔を合わせて笑い合う。
街出身の男女と、スラム出身の男女。その二人組が二つ組み合わさって出来たのが、今の【高みを目指す者】というチームらしい。
ひとしきり笑っていたドールが、話の矛先を今度はソラに向ける。
「ちなみにアンタらはどうなんだ?失礼だが、街出身には見えないけど」
「あー……俺はスラム出身だ。ルキナは……まあ同じような感じ」
「二人ともスラム出身ってことか?」
「そうそう」
怪訝な顔をするドールに向って、ソラは少し迷いながら言葉をはぐらかした。塔の中で拾ったという事実は流石に説明し難い。
ソラに対するフォローのつもりなのかは分からないが、ルキナは両手でピースをしながら「いぇいいぇい」と言っていた。
余計に怪しかった。
「あー……一つ聞きたいんだけど」
ソラは話題を転換するために、少し考えてから口を開いた。
「お前らは何で塔を登るんだ?」
「何でって……」
ソラは正直、他人に興味等一切ない。
だから、その話題はただの苦し紛れのモノに過ぎない。彼らがどう答えようが適当に返事をするつもりだった。
「金が欲しいとか、権限が欲しいとか……色々あると思うけど、お前らは何が目的なんだ?」
「うーん……」
ガレンは顎に手を当てて、少しだけ視線を天井の方へと流した。
そして口を開いた。
「金も力も権力も、まあ欲しいと言えば欲しいが、それより――」
「それより?」
「――上の景色を見たいんだ」
ガレンの言葉に、ソラは少しだけ目を見開いた。
「子供のころから思ってたんだ。ここはなんて窮屈なんだろうって」
「……」
「上層の人間には従うことが当たり前、街はスラムを虐げるのが当たり前……誰もかれもがそんな当たり前を受け入れている。俺はただ、つまらない"当たり前"で満ちた世界が嫌だったんだ」
ソラはただ黙ってガレンの言うことを静かに聞いていた。
「だから、上を目指したんだ。この窮屈な世界を抜け出したその先に――俺たちが想像できないような、"当たり前"じゃない何かがあるんじゃないかと思ったから」
それはきっと、ソラが昔、空を飛ぶ鳥に憧れたのと同じこと。
スラムの底で"生まれ"に縛り付けられていたソラと、街中の"当たり前"に縛り付けられていたガレン。その本質はきっと変わらない。
「この塔の果てにあるかもしれない、そんな景色を俺は見たい」
ガレンもソラも、きっと同じものを求めている。
つまり――"自由"。
「ぷふっ、何か良いこと言うじゃねえか、リーダー!んじゃあ、俺もそれにするわ」
「五月蠅い…お前は自分で考えろ」
ドールに茶化されたガレンは、少しだけ顔を赤く染めながらそっぽを向いた。
彼自身、少し恥ずかしいことを言ってしまったという感覚があるのだろう。
「ああ――」
しかし、ソラだけは真剣な眼差しでガレンのことを見つめていた。
ガレンは"自由"という概念を知らないはずだ。知らないにも関わらず、この縛られた世界を抜け出したいと思っている。"自由"という景色が塔の果てにあるのだと信じている。
つまり――ガレンという男の本質は、きっとソラの中にあるそれと同じ形をしていた。
「良い理由だな……本当に、本当に良い理由だ」
そう言ってソラは微かに笑った。隣のルキナを見れば、彼女もまた小さく笑っている。
その場に流れた微妙な、そして少し和やかな雰囲気の意味が分からず、ガレンとドールは顔を見合わせた。




