第五話 暴かれた狂愛
雨は上がったが、世界は以前として分厚い雲に覆われていた。
湿気を含んだ重たい空気が、窓の外の景色を灰色に染め上げている。
俺、相馬蓮の自宅マンションのリビングには、奇妙な静寂が漂っていた。
両親が海外赴任中のため、この広い空間には俺と、ソファに座る一ノ瀬エレナの二人しかいない。
エレナは学校を休んでいた。
あの日以来、カケルの件と同時に拡散された彼女の噂は、瞬く間に校内を駆け巡った。
『桐島カケルの共犯者』
『二股をかけていた尻軽女』
根も葉もない噂もあれば、的を射た真実もある。
Twotterには彼女を特定しようとする書き込みが溢れ、彼女のスマホには見知らぬ番号からの着信が絶えなかった。
彼女は恐怖のあまりスマホの電源を切り、家から一歩も出られなくなっていた。
そして今日、両親が仕事で不在の間、俺が彼女を「気分転換」と称して自宅へ招いたのだ。
「……紅茶、冷めちゃうよ」
俺はテーブルの上に置かれたティーカップを指差した。
エレナはビクリと肩を震わせ、虚ろな目でカップを見つめる。
その手は小刻みに震えており、カップを持ち上げることさえ困難なようだ。
「蓮……」
エレナが、蚊の鳴くような声で俺の名を呼んだ。
その声は枯れ、唇は乾燥してひび割れている。
かつての輝くような美少女の面影は、見る影もなく憔悴しきっていた。
「どうしたの? 何か欲しいものでもある?」
「……わ、別れて……ください」
その言葉は、俺の予想通りであり、同時に待ち望んでいた台詞でもあった。
彼女は俯いたまま、涙をポタポタと膝の上に落としながら言葉を紡ぐ。
「私……蓮のこと、裏切った。最低なことした。あんな写真も撮られて、学校でも噂になって……もう、蓮の隣にいちゃいけないの。私みたいな汚い女、蓮にはふさわしくない……」
それは彼女なりの最後の良心であり、同時に俺という「得体の知れない存在」からの逃避でもあった。
彼女は本能的に感じ取っているのだ。
俺の優しさが、底なし沼のような危険なものであることを。
だからこそ、関係を断ち切ることで、この窒息しそうな閉塞感から逃れようとしている。
俺はソファから立ち上がり、ゆっくりと彼女の前に跪いた。
そして、彼女の冷え切った両手を、自分の温かい手で包み込んだ。
「エレナ。君は勘違いしているよ」
俺は諭すように、優しく語りかける。
教師が生徒に言い聞かせるように。
あるいは、飼い主が怯えるペットをあやすように。
「君が汚れているのは事実だ。浮気をして、他の男に体を許し、愚かな快楽に溺れた。それは消えない罪だ」
「っ……!」
「でもね、だからこそ君には僕が必要なんだよ。こんなに汚れてしまった君を、他の誰が受け入れてくれる? 君の両親か? 友達か? 無理だね。彼らは君を軽蔑し、世間体を気にして距離を置くだろう」
俺は言葉のナイフで、彼女の退路を一つずつ丁寧に断っていく。
外の世界に希望などない。
君が帰る場所はもう、どこにもないのだと。
「別れるなんて、そんな残酷なことを言わないでおくれ。僕が君を見捨てたら、君は本当に一人ぼっちになってしまう。野良犬のように路地裏で震えて、誰からも石を投げられるだけの存在になるんだよ?」
「い、いや……いやぁ……」
「だから、僕が責任を持って『保護』してあげる。君が犯した罪を、一生かけて償わせてあげる。それが愛だとは思わないかい?」
俺の言葉に、エレナは激しく首を振った。
恐怖が限界を超え、パニックを起こしかけている。
彼女は俺の手を振り払い、ソファから立ち上がろうとした。
「か、帰る……! お家に帰る……!」
彼女は玄関の方へ走ろうとする。
だが、その足取りはあまりにも覚束ない。
俺は慌てて追いかけることもなく、ただ残念そうにため息をついた。
「まだ分からないのか。君の家だって、もう安全じゃないのに」
俺はポケットからリモコンを取り出し、部屋の照明を少し落とした。
そして、立ち上がって彼女の背中に声をかける。
「エレナ。帰る前に、少しだけ僕の部屋を見ていかないか? 君に見せたいものがあるんだ」
「い、行かない……! 帰して!」
「君のためを思って言っているんだ。これを見れば、君もきっと理解してくれるはずだよ。僕たちがどれほど深く、運命的に結ばれているかをね」
俺の声のトーンが、一段低くなる。
拒否権などない、絶対的な命令の響き。
エレナはドアノブに手をかけたまま、金縛りにあったように動けなくなった。
鍵はかかっている。
そして、その鍵を開けるためのスマートキーは、俺のポケットの中にある。
俺はゆっくりと彼女に近づき、その肩を抱いた。
彼女の体温が下がっていくのが分かる。
「おいで。僕の『聖域』へ」
俺は彼女を半ば引きずるようにして、廊下の奥にある自室へと連れて行った。
普段、彼女が遊びに来た時も絶対に入れなかった部屋。
「散らかっているから」と言い訳をして隠してきた、パンドラの箱。
「……開けるよ」
俺は扉を開けた。
ひんやりとした空気が流れ出す。
部屋の中は薄暗く、遮光カーテンが閉め切られている。
俺は壁のスイッチを押し、部屋の照明を全灯させた。
「ひッ……!?」
エレナの喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
彼女はその場にへたり込み、腰を抜かした。
視線の先にある光景。
それは、常人の理解を遥かに超えた、狂気の美術館だった。
六畳ほどの部屋の壁一面に、写真が貼られていた。
隙間なく、びっしりと。
そのすべてが、一ノ瀬エレナの写真だ。
登校中の彼女。
授業中に居眠りをしている彼女。
体育の授業で汗を拭う彼女。
コンビニで立ち読みをしている彼女。
そして、自宅の部屋で着替えている最中の、窓越しに撮影された盗撮写真。
「あ……あ、あ……」
エレナは言葉を失い、パクパクと口を開閉させることしかできない。
数は数百、いや数千枚に及ぶだろう。
数年前の日付が入ったものもある。
俺は彼女が中学生の頃から、ずっとこうして記録を続けてきたのだ。
「綺麗だろう? エレナ。これこそが、僕の愛の結晶だ」
俺は恍惚とした表情で壁に近づき、一枚の写真を指先で愛おしそうになぞった。
「君は気づいていなかっただろうけど、僕はいつだって君を見ていた。君が笑う時も、泣く時も、怒る時も。君の人生のすべての瞬間を、僕は逃さずコレクションしてきたんだ」
写真だけではない。
部屋の中央にあるガラスケースには、さらに異様な品々が陳列されていた。
彼女が捨てたはずのストロー。
体育祭の日に彼女が落とした絆創膏。
彼女の部屋のゴミ箱から回収した、使用済みのティッシュ。
そして、小さな瓶に詰められた、彼女の黒い髪の毛。
「……気持ち悪い」
エレナが、震える声で呟いた。
生理的な嫌悪感と、底知れない恐怖が入り混じった拒絶の言葉。
「気持ち悪い、だって?」
俺は振り返り、心外だという顔をした。
「どうしてそんなことを言うんだい? 君だって、好きなアイドルのグッズを集めたりするだろう? それと同じだよ。僕にとって君は、世界で唯一無二のアイドルであり、神様なんだ」
俺はガラスケースから、髪の毛の入った小瓶を取り出し、光にかざした。
「普通の恋人同士なら、こんなことはしないかもしれない。でも、僕たちは違う。君は裏切り者で、僕は寛大な被害者だ。このくらいの執着は、愛の証として許されるべきだと思わないか?」
「お、おかしいよ……蓮、あなた、頭がおかしい……!」
「おかしいのは君の方だよ、エレナ!」
俺は突然、声を荒らげた。
その怒号に、エレナがビクリと縮み上がる。
俺は小瓶を握りしめ、彼女に詰め寄った。
「君は僕の愛を裏切り、あんな下品な男に股を開いた! 僕がどれだけ君を大切にしてきたか、どれだけ君のために尽くしてきたか、分かっているのか!? それなのに君は、僕の純粋な愛を踏みにじったんだ!」
俺の目は血走り、唾が飛ぶほどの剣幕で彼女を罵倒する。
これも計算だ。
恐怖で彼女の思考を停止させ、支配下に置くためのショック療法。
「ご、ごめんなさい……ごめんなさい……!」
「謝って済む問題じゃないんだよ! 汚れたものは洗わなきゃいけない。壊れたものは直さなきゃいけない。だから僕は、これから君を『修理』するんだ」
俺は怒りの表情を一瞬で消し去り、再び穏やかな笑顔を浮かべた。
その落差が、さらに彼女を混乱させる。
「ねえ、エレナ。君のスマホ、貸してごらん」
「え……?」
「いいから」
俺は彼女のポケットから、電源の切れたスマホを強引に抜き取った。
そして、そのまま部屋の隅にある金属製のゴミ箱へ放り込んだ。
ガン、という硬い音が響く。
「あ……」
「もう必要ないだろう? 外の世界との繋がりなんて、君を傷つけるだけだ。Twotterも、MINEも、君を攻撃する敵ばかりだ。そんなものに怯えて暮らすより、僕だけの世界で生きた方が幸せだよ」
俺は机の引き出しから、新しい首輪を取り出した。
黒い革製で、小さな銀の鈴がついている。
ペット用ではない。人間用の、チョーカーだ。
「さあ、おいでエレナ。これを着けてあげる」
「い、いや! 嫌だ! 近寄らないで!」
エレナは床を這いずり、部屋の隅へと逃げる。
壁に貼られた自分の写真に背中を押し付け、怯える小動物のように丸くなる。
その姿が、たまらなく愛おしい。
恐怖に歪んだ顔も、涙で濡れた瞳も、すべてが芸術的だ。
「嫌がることはないじゃないか。これは君が僕のものであるという証明書だ。結婚指輪みたいなものだよ」
「おねがい……許して……帰して……」
「帰す? どこへ? 君の居場所はここしかないと言っただろう」
俺は壁に手をつき、彼女を閉じ込めるように覆い被さった。
いわゆる壁ドンだが、そこにロマンチックな雰囲気は皆無だ。
あるのは、絶対的な支配者と、哀れな被支配者の構図のみ。
「君はもう、社会的には死んだも同然なんだ。カケルくんがああなった今、君を守れるのは僕しかいない。それとも何か? あのまま学校に戻って、クラス全員から白い目で見られ、石を投げられる生活に戻りたいのか?」
「っ……」
エレナが言葉を詰まらせる。
戻りたくない。
あの冷たい視線、陰口、悪意に満ちたSNSの通知。
あの日々は地獄だった。
でも、目の前の蓮もまた、別の地獄だ。
彼女の心は、二つの地獄の間で引き裂かれそうになっている。
「大丈夫。こっちの地獄は、少なくとも温かいよ」
俺は彼女の心の声が聞こえたかのように囁いた。
「僕の言うことを聞いて、いい子にしていれば、僕は君に最高の愛情を注いであげる。美味しいご飯を作って、綺麗な服を着せて、毎晩抱きしめてあげる。外の敵から、僕が全力で守ってあげる」
それは悪魔の契約だ。
自由を差し出す代わりに、安寧と快楽を与えるという甘い誘惑。
精神的に衰弱しきった彼女にとって、その提案は恐ろしいほど魅力的に響いたはずだ。
「……ほんとう、に……?」
エレナが、縋るような目で俺を見上げた。
抗う力が消えかけている。
思考力が麻痺し、楽な方へと流されようとしている。
「本当さ。僕は一度だって嘘をついたことはないよ。……カケルくんの件以外はね」
俺はクスクスと笑いながら、彼女の首に手を回した。
彼女は抵抗しなかった。
冷たい革の感触が、彼女の細い首に吸い付く。
カチャリ、とバックルを留める音が、部屋に響き渡った。
「似合うよ、エレナ。すごく可愛い」
俺は彼女の顎を持ち上げ、満足げに眺めた。
首輪をつけられた彼女は、もはや対等な人間ではない。
俺の所有物だ。
その事実が可視化されたことで、俺の中でどす黒い独占欲が満たされていくのを感じた。
エレナは虚ろな目で、自分の首元の感触を確かめている。
もう、叫ぶことも、逃げることもしない。
諦めだ。
彼女は受け入れたのだ。
この狂った鳥籠の中で生きていくことを。
「さて、それじゃあ『教育』を始めようか」
俺は立ち上がり、彼女の手を引いた。
彼女は糸の切れた操り人形のように、素直に立ち上がる。
「まずは、君の汚れた体を綺麗にしないとね。お風呂に入ろう。僕が隅々まで、丁寧に洗ってあげるから」
一緒に入るのではない。
俺が洗うのだ。
彼女の体を商品のように扱い、カケルの痕跡をすべて消し去り、俺の色で上書きする儀式。
「……はい、蓮」
エレナが初めて、従順な返事をした。
その目には、光がなかった。
自我が崩壊し、俺への依存という新しい人格が芽生え始めている証拠だ。
俺たちは手を繋ぎ、浴室へと向かった。
壁の写真たちが見守る中、俺たちの新しい生活が幕を開ける。
外では再び雨が降り始めていた。
世界から切り離されたこの部屋だけが、俺たちにとっての楽園であり、彼女にとっての無間地獄となるだろう。
浴室のドアを閉めると、湿気を含んだ温かい空気が俺たちを包み込んだ。
俺はエレナの服に手をかけ、ゆっくりとボタンを外していく。
彼女は抵抗せず、ただされるがままになっていた。
その肌に触れるたび、俺の指先が歓喜で震える。
これでいい。
これで正解だ。
愛する人を守るためには、時に狂気になることも必要なのだ。
俺は彼女の裸体を眺めながら、歪んだ正義感に酔いしれていた。
彼女の絶望も、恐怖も、涙も、すべてが俺の愛を彩るスパイスだ。
シャワーの音が響き始める。
流れ落ちるお湯と共に、彼女の過去も、自由も、尊厳も、すべて排水溝へと流れていく。
残るのは、俺を愛する機能だけを持った、美しい人形だけだ。
「気持ちいいかい? エレナ」
「……うん、気持ちいいよ……蓮」
彼女の言葉は空虚だったが、それでも俺には十分だった。
俺は彼女の濡れた髪にキスをし、永遠の愛を誓った。
誰にも邪魔させない。
死が二人を分かつまで、いや、死んでもなお、君を離さない。
こうして、俺の復讐劇は終わりを告げ、狂愛の物語へと変貌を遂げた。




