第四話 間男の末路、因果応報
雨上がりの空は、嘘のように青く澄み渡っていた。
昨日の嵐が嘘のような快晴。
しかし、学校内の空気は、昨日以上に重く、湿り気を帯びたまま澱んでいた。
その中心にいるのは、言うまでもなく桐島カケルだ。
朝のホームルームが始まる直前、教室に奇妙な悲鳴が響き渡った。
「あ……ああ、あっちへ行け! 見るな! 俺を見るな!」
廊下の向こうから、何かに怯えるような絶叫と共に、一人の男子生徒が転がり込んできた。
カケルだった。
だが、その姿にかつての「バスケ部エース」の面影は微塵もない。
制服は泥だらけで、あちこちが破れている。
髪はボサボサで、目は落ち窪み、焦点が定まっていない。
彼は自分の両腕を抱きしめるようにして震え、何もない空間に向かって喚き散らしていた。
「カメラだ……カメラがある……! 全部撮られてるんだ! 俺じゃない、俺はやってない!」
クラスメイトたちがざわめき、遠巻きに彼を取り囲む。
「おい、桐島? 大丈夫か?」
「やばくない? 何かキメてんの?」
「先生呼んできた方がいいって」
誰かが伸ばそうとした手を、カケルは激しく振り払った。
「触るな! お前もグルか!? 相馬の手先なんだろ!?」
その名前が出た瞬間、教室の空気が凍りついた。
生徒たちの視線が一斉に、窓際の席で静かに読書をしていた俺、相馬蓮へと集中する。
俺はゆっくりと顔を上げ、きょとんとした表情を作ってみせた。
「え? 僕?」
俺は困ったように眉を下げ、席を立ってカケルに歩み寄った。
あくまで「心配するクラスメイト」として。
俺が一歩近づくたびに、カケルはひきつけを起こしたように後ずさり、壁に張り付く。
「桐島くん、落ち着いて。どうしたの? 具合でも悪いの?」
「ひっ……! く、来るな……バケモノ……!」
カケルは腰を抜かし、床を這って逃げようとする。
その目には、生物としての根源的な恐怖が焼き付いていた。
彼の網膜には、俺の姿が人間の形をした何か別の、恐ろしい捕食者に見えているのだろう。
昨日の放課後、俺が彼に植え付けた「恐怖の種」は、一晩で彼の精神を食い尽くすほどに成長していたようだ。
「……あ、あ、あああああ!!」
カケルは錯乱し、教室の隅にある掃除用具入れに頭を打ち付け始めた。
ゴン、ゴン、と鈍い音が響く。
女子生徒たちが悲鳴を上げる。
すぐに担任と体育教師が駆けつけ、暴れるカケルを取り押さえた。
彼は口から泡を吹き、白目を剥きながら担架に乗せられ、そのまま救急車で運ばれていった。
サイレンの音が遠ざかっていく。
教室には、嵐が過ぎ去った後のような静寂と、得体の知れない不安だけが残された。
俺は自分の席に戻り、読みかけの本を開いた。
心の中では、スタンディングオベーションが鳴り止まない。
素晴らしい演技だ、桐島くん。
君のその「狂態」こそが、君の社会的抹殺を完了させる最後のピースだった。
これで君はただの不良ではなく、「精神に異常をきたした危険人物」として認知される。
推薦も、進学も、まともな社会復帰も、全て閉ざされた。
おめでとう。君の人生はここで「詰み」だ。
ふと視線を感じて顔を上げると、斜め前の席で、一ノ瀬エレナがガタガタと震えていた。
彼女の顔色は死人のように白い。
カケルの異常な言動。
「相馬の手先」「バケモノ」という言葉。
そして、それを見ても眉一つ動かさず、平然としている俺の態度。
彼女の中で、点と点が繋がり始めている。
エレナの手元で、スマホ(MINE)が短く振動した。
俺は知っている。
それが、救急車に乗せられる直前、錯乱したカケルが最後の理性を振り絞って送信したメッセージであることを。
『あいつは人間じゃない』
『逃げろ』
『全部知ってる』
エレナが画面を見た瞬間、スマホを取り落とした。
ガシャン、という音が静まり返った教室に響く。
彼女は俺を見た。
恐怖と、疑惑と、縋るような哀願が入り混じった瞳。
俺は彼女と目を合わせ、今日一番の、とびきり優しい笑顔を向けた。
「エレナ、大丈夫? 顔色が悪いよ」
その瞬間、エレナは「ひっ」と短い悲鳴を上げ、椅子から転げ落ちるようにして立ち上がった。
そして、鞄も持たずに教室から走り去っていった。
逃げたのだ。
俺という現実から。
自分の犯した罪の重さから。
「あーあ、行っちゃった」
俺は呟き、窓の外を見上げた。
空はこんなに青いのに、彼女の世界は今頃、漆黒の闇に包まれていることだろう。
追いかける必要はない。
逃げれば逃げるほど、彼女は孤独になる。
蜘蛛の巣にかかった蝶のように、もがけばもがくほど、俺の愛という糸が絡みついていくのだから。
放課後。
俺は花束を持って、隣町の総合病院を訪れていた。
受付で「桐島カケルくんのお見舞いです」と告げると、看護師は少し困った顔をしたが、面会許可証を渡してくれた。
彼は精神科の閉鎖病棟ではなく、一時的な処置として一般病棟の個室に入れられているらしい。
鎮静剤を打たれ、今は眠っているとのことだった。
病室の前には、カケルの両親と思しき中年男女がいた。
憔悴しきった様子で、医師と話している。
「薬物反応はありませんでした」「極度のストレスによるパニック障害かと」といった会話が漏れ聞こえる。
俺は礼儀正しく頭を下げ、彼らが去るのを待ってから病室に入った。
個室の中は、消毒液の匂いが充満していた。
ベッドの上で、カケルは死んだように眠っていた。
手足は拘束帯でベッド柵に固定されている。
自傷行為を防ぐためだろう。
俺は花瓶に花を活け、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。
そして、眠っているカケルの耳元に口を寄せた。
「……起きているんだろう? 桐島くん」
ピクリ、とカケルの瞼が震えた。
やはり、鎮静剤の効果は切れかかっている。
彼は目を開けた。
虚ろな瞳が俺を捉え、瞬時に恐怖で見開かれる。
口を開こうとするが、声が出ないようだ。
恐怖で喉が張り付いているのか、それとも薬の副作用か。
「暴れないでくれよ。ナースコールを押されたら、僕も困る」
俺は人差し指を唇に当てて「シーッ」というジェスチャーをした。
カケルは涙を流しながら、首を横に振る。
「助けてくれ」「帰ってくれ」と言いたいのだろう。
「お見舞いに来たんだ。君のおかげで、学校は平和になったよ。ありがとう」
俺はスマホを取り出し、画面を見せた。
そこには、今日の学校の掲示板の書き込みが表示されている。
『桐島、マジで薬やってたらしいぜ』
『退学確定じゃね?』
『ざまぁw』
無責任な他人事のコメントの数々。
カケルが積み上げてきた地位が、完全に崩壊した証拠だ。
「……う、ぅぅ……」
「ああ、それとね。君のご両親、大変そうだったよ。息子の不祥事に加えて、君が部費を横領していた証拠も見つかったらしくてね。君のさまざまな不祥事の損害賠償のために家を売るかもしれないって噂だよ」
もちろん、その証拠を匿名で学校に送ったのは俺だ。
嘘ではない。事実を適切なタイミングで提供しただけだ。
カケルの目から、絶望の涙が溢れ出す。
自分のせいで家族まで破滅させた罪悪感。
それが彼の精神を完全に破壊する最後の一撃となった。
「可哀想に。でも、自業自得だよね」
俺は冷徹に告げた。
同情などない。
彼は俺のエレナに手を出した。
その代償は、彼の人生すべてを以てしても足りないくらいだ。
「二度と、エレナの名前を口にするな。彼女の記憶からも、君の存在を消させてもらう」
俺は立ち上がり、カケルの額を指で弾いた。
「さようなら、ただのゴミ屑くん」
病室を出る時、背後から「あー……あー……」という、言葉にならない壊れた呻き声が聞こえた。
彼はもう、二度とまともな精神状態には戻らないだろう。
俺に対する恐怖がトラウマとなり、一生、誰かの視線に怯えて暮らすことになる。
完璧な処理だった。
病院を出ると、日は既に傾き始めていた。
茜色の空が、街を赤く染めている。
「逢魔が時」とはよく言ったものだ。
魔物が動き出す時間。
俺はタクシーを拾い、次なる目的地へと向かった。
一ノ瀬エレナの家だ。
エレナの家は、閑静な住宅街にある一軒家だ。
両親は共働きで、この時間はまだ帰宅していないことを俺は知っている。
インターホンの前に立ち、俺は深呼吸を一つした。
表情筋を調整する。
冷徹な復讐者の顔から、心配性の優しい彼氏の顔へ。
だが、その瞳の奥には、決して消えない狂気の炎を灯したままで。
ピンポーン。
チャイムの音が鳴る。
中からの反応はない。
居留守を使っているのだろう。
俺はもう一度、ゆっくりとボタンを押した。
「エレナ、僕だよ。蓮だ。……いるんだろう?」
マイク越しに呼びかける。
数秒の沈黙の後、玄関の鍵が開く音がした。
カチャリ、という金属音が、彼女の心の防壁が外れた音のように聞こえた。
ドアが少しだけ開き、隙間からエレナが顔を覗かせる。
目は泣き腫らし、化粧は崩れている。
「……蓮……」
「やっと出てくれた。心配したんだよ、急に走り出すから」
俺は強引にドアを開け、家の中へと入った。
エレナは抵抗しなかった。
いや、抵抗する気力が残っていないのだ。
カケルという拠り所を失い、学校という居場所を失い、今の彼女には俺しかいない。
たとえ俺が「恐怖の対象」であったとしても、孤独よりはマシだと本能的に感じているのだ。
「ごめん、なさい……私、気分が悪くて……」
「そうか。なら、中で休んだ方がいい」
俺はまるで自分の家のようにリビングへと進み、ソファに腰を下ろした。
エレナはおずおずと向かいの席に座る。
その距離感が、彼女の罪悪感を物語っていた。
「……ねえ、エレナ」
「な、なに……?」
「今日、桐島くんが救急車で運ばれた時、何か言ってたよね。『相馬の手先』とか、『全部知ってる』とか」
俺は核心に触れた。
エレナの肩が跳ねる。
彼女は視線を泳がせ、必死に言葉を探している。
「変なこと言ってたね」「頭がおかしくなったのかな」と誤魔化そうとしているのが分かる。
「実はね、僕もずっと気になってたんだ。エレナの様子が最近おかしいこと」
俺は鞄から、一通の茶封筒を取り出した。
それをテーブルの上に置く。
封筒の厚みが、重苦しい存在感を放つ。
「これ、何……?」
「開けてみて」
エレナは震える手で封筒を手に取り、中身を引き出した。
そこに入っていたのは、数枚の写真だった。
繁華街でカケルと腕を組んで歩くエレナ。
カラオケボックスでキスをしているエレナ。
そして、ラブホテルから出てくる二人の姿。
鮮明な、言い逃れのできない証拠写真の数々。
「ひッ……!?」
エレナは悲鳴を上げ、写真を放り投げた。
それらはひらひらと舞い、床に散らばった。
汚らわしい自分の裏切りの瞬間が、残酷なほど美しくプリントアウトされている。
「な、なんで……いつから……」
「いつからだと思う?」
俺は首を傾げ、微笑んだ。
怒鳴ったりはしない。
ただ静かに、事実を突きつける。
「最初からだよ、エレナ。君が最初に彼と連絡先を交換した日から、ずっと見ていた」
「う、嘘……ずっと……?」
「ああ。君が『補習』と嘘をついてデートに行った日も、彼に『蓮はつまらない』と愚痴を言った日も、全部知っていたよ」
俺は立ち上がり、床に散らばった写真を一枚一枚丁寧に拾い上げた。
そして、エレナの目の前に突きつける。
「どうして、こんなことをしたの?」
問いかける声は優しい。
だが、その優しさが逆に彼女を追い詰める。
彼女は涙を流し、床に崩れ落ちて土下座をした。
「ごめんなさい……! ごめんなさい、蓮……! 私がバカだったの……魔が差したの……!」
「魔が差した? そうか、それなら仕方ないね」
俺はエレナの頭に手を置いた。
彼女はビクリと震えるが、逃げようとはしない。
「でもね、エレナ。これは『裏切り』だよ。僕たちは約束したじゃないか。ずっと一緒にいようって」
「う、うぅ……許して……もう二度としないから……」
「許すよ。もちろん許す」
俺の言葉に、エレナが顔を上げる。
希望の光が見えたような顔。
だが、俺はすぐにその希望を塗りつぶす言葉を続けた。
「だって、君はもう汚れてしまったからね。他の誰かが君を愛することなんて、もう二度とない」
俺はスマホを取り出し、Austaの画面を見せた。
そこには、カケルのアカウントから拡散された(と見せかけた)、エレナの「痴態」を晒す投稿の数々が表示されている。
顔にはモザイクがかかっているが、知っている人間が見れば一発でエレナだと分かる写真だ。
コメント欄には『この女誰?』『尻軽ビッチじゃん』『特定班よろしく』といった下品な言葉が並んでいる。
「見てごらん。君はもう、社会的には『ふしだらな女』として有名人だ。学校にもいられないかもしれないね。友達も、親も、君を見る目が変わるだろう」
「あ……あぁ……」
エレナの口から、絶望の吐息が漏れる。
自分の居場所が、世界から完全に消滅したことを悟った瞬間だ。
カケルだけでなく、自分の社会的生命も終わっていたのだ。
そして、それを仕組んだのが、目の前にいる「優しい彼氏」であることも。
「蓮……あなたが、これを……?」
「君のためだよ」
俺はエレナの頬を両手で包み込み、正面から見つめた。
その瞳孔は開き、狂気的な愛の炎が燃え上がっていた。
もう隠す必要はない。
これが本当の俺だ。
「汚れて、傷ついて、誰からも見放された君。そんな君を愛せるのは、世界中で僕だけだ」
「ひっ……!」
「怖い? 怖がらなくていいんだよ。僕は君を捨てたりしない。君がどんなに汚くても、どんなに最低でも、僕だけは君を抱きしめてあげる」
俺はエレナを抱き寄せた。
彼女の体は氷のように冷たく、小刻みに震えている。
拒絶反応。
だが、彼女は俺を突き飛ばさなかった。
突き飛ばせば、本当に一人になってしまうからだ。
「ありがとうは? エレナ」
俺は耳元で囁く。
命令だ。
感謝しろ。
お前を地獄に落とし、そして唯一の蜘蛛の糸を垂らしてやった僕に。
「あり……がと、う……蓮……」
掠れた声で、彼女は言った。
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが満たされた。
パズルの最後のピースがはまったような、完璧な快感。
「いい子だ」
俺は彼女の唇に、深く、長い口づけをした。
彼女の涙の味がした。
しょっぱくて、苦くて、そして最高に甘美な、絶望の味だった。
外では雷が鳴り始めていた。
再び降り出した雨が、俺たちの狂った愛の儀式を祝福するかのように、窓を激しく叩いていた。
復讐は終わった。
そして今、飼育が始まる。




