第三話 崩壊の序曲
翌日の空は、俺たちの心中を映し出すかのように分厚い雨雲に覆われていた。
朝から降り続く雨が校舎の窓を叩き、湿った空気が教室に充満している。
気圧の低下は人の精神を不安定にさせるというが、今日の桐島カケルにとっては、まさに地獄へのカウントダウンを刻む雨音に聞こえていることだろう。
一時間目の授業中、俺は頬杖をつきながら黒板の文字をノートに写していた。
教師の単調な声が子守歌のように響く平和な時間。
だが、俺の意識は別の場所にある。
机の下で弄ぶスマートフォンの画面。
そこに表示されているのは、俺が昨夜徹夜で構築した「プログラム」の実行ボタンだ。
『実行しますか? Y/N』
俺は迷うことなく、人差し指で『Y』をタップした。
その瞬間、目に見えないデータの大津波が、この学校のサーバーと、生徒たちの持つ数百台の端末へと放たれた。
「……ッ、何だ?」
最初に異変に気づいたのは、スマホを隠し持っていた後方の席の男子生徒だった。
続いて、隣の女子生徒、さらにその隣。
静まり返っていた教室のあちこちで、マナーモードの振動音が重なり合い、不気味な羽音のようなノイズとなって響き始めた。
ブブブ、ブブブブ、ブブブ。
教師が不審そうに眉をひそめ、チョークを置く。
「おい、なんだその音は。誰だ、携帯を鳴らしてるのは」
だが、誰か一人が鳴らしているのではない。
ほぼ全員のスマートフォンが一斉に通知を受信したのだ。
生徒たちが机の下で画面を確認し、息を呑む気配が伝播していく。
その中には、もちろん一ノ瀬エレナも含まれている。
彼女は画面を見た瞬間、血の気が引いたように顔面蒼白になり、震える手で口元を押さえた。
俺はポーカーフェイスを保ったまま、心の中で喝采を叫んだ。
送られたのは、Twotterの「暴露アカウント」による一斉メンション通知と、学内限定の匿名掲示板へのURL拡散だ。
タイトルはシンプルに『2年C組バスケ部エース・桐島カケルの実態』。
そこには、俺が収集し、編集し、完璧なタイミングまで温めておいた「爆弾」の数々が詰め込まれていた。
カケルが部活の更衣室でチームメイトの悪口を言っている音声データ。
『あいつマジで使えねー、パス回す価値なし』
『監督とか老害だろ、死ねばいいのに』
さらに、彼が過去に弄んで捨てた女子生徒たちへの暴言LINE(MINE)のスクリーンショット。
『お前飽きたわ、重い』
『妊娠とかマジ? 金払うから堕ろせよ』
そして極めつけは、万引きした商品を戦利品のように並べて自慢している裏アカウントの魚拓画像だ。
「え、これ……桐島くん?」
「うわ、最低……」
「バスケ部のキャプテンのこと、こんな風に言ってたんだ」
「万引きって犯罪じゃん、ヤバくない?」
ヒソヒソという囁き声が、やがて教室全体を覆うざわめきへと変わっていく。
情報は光の速さで拡散する。
隣のC組、カケルのいる教室からは、もっと直接的な怒号と悲鳴が聞こえてきたような気がした。
休み時間を告げるチャイムが鳴ると同時に、学校中が蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
廊下にはスマホを片手にした生徒たちが溢れ、誰もが画面を見ながらカケルの名前を口にしている。
今まで「カースト上位」として君臨し、誰も逆らえなかったカケル。
その権威が、音を立てて崩れ落ちていく瞬間だ。
俺は悠然と席を立ち、自動販売機へ向かうふりをして廊下に出た。
C組の教室前は野次馬で埋め尽くされている。
その中心で、カケルが顔を真っ赤にして叫んでいた。
「嘘だ! これは捏造だ! 俺じゃねぇ!!」
必死の形相で否定するカケル。
だが、その声は裏返り、焦りが滲み出ている。
音声データに残っているのは紛れもなく彼の声であり、特徴的な言い回しだ。
何より、彼を取り囲むバスケ部のチームメイトたちの目が、氷のように冷たい。
「捏造ねぇ……でもお前、この前の練習試合の後も同じこと言ってたよな?」
「俺たちのこと、そんな風に思ってたんだな。失望したわ」
信頼の崩壊。
仲間だと思っていた人間からの拒絶。
カケルは唇をわななかせ、助けを求めるように周囲を見渡すが、誰とも目が合わない。
女子生徒たちは汚物を見るような目で彼を避け、男子生徒たちは嘲笑の眼差しを向けている。
その光景を、エレナは廊下の端で震えながら見ていた。
彼女の立場は微妙だ。
カケルと「いい雰囲気」だったことは周知の事実。
カケルが「悪」として断罪された今、そのパートナーである彼女にも「共犯者」のようなレッテルが貼られようとしている。
『あの子、一ノ瀬さんじゃない?』
『うわ、あんな最低な奴と付き合ってたの? 見る目なっ』
そんな陰口が、彼女の耳にも届いているはずだ。
エレナがすがるような視線を俺に向けた。
「助けて、蓮」と、その瞳が訴えている。
彼女にとって、俺はいつだって味方であり、どんな時でも守ってくれる騎士だったはずだから。
だが、俺は彼女と目が合った瞬間、無表情のままスッと視線を逸らした。
まるで、そこに誰もいないかのように。
「……っ!」
エレナが息を呑む音が聞こえた気がした。
俺からの明確な「無視」。
それは、今の彼女にとって社会的な死刑宣告に等しい。
カケルという泥船に乗り換え、俺という救命ボートを自ら切り離した結果だ。
存分に味わうといい。
その絶望こそが、君を再び俺の元へ引き戻すためのスパイスになるのだから。
午後になると、カケルの孤立は決定的になった。
担任に呼び出され、生徒指導室へ連行されていく姿が目撃された。
おそらく万引きの件や、未成年飲酒・喫煙の疑惑について追及されているのだろう。
部活動への参加停止、あるいは推薦の取り消し。
彼がバスケットボールという武器を使って築き上げてきた栄光は、たった半日で灰燼に帰した。
放課後。
雨足はさらに強くなり、空は薄暗く沈んでいた。
生徒たちが足早に帰宅する中、俺は下駄箱で靴を履き替えていた。
その時、背後から殺気立った気配が近づいてくるのを感じた。
「……おい、相馬」
低く、押し殺したような声。
振り返ると、そこには幽鬼のような形相をした桐島カケルが立っていた。
制服は乱れ、髪はボサボサ。充血した目は狂気を孕んでおり、今朝までの傲慢な態度は見る影もない。
「やあ、桐島くん。大変だったみたいだね」
俺はあくまで平静を装い、淡々と声をかける。
その落ち着き払った態度が、彼の神経を逆撫でしたようだ。
「……テメェだろ」
「何が?」
「とぼけんじゃねぇぞ! 俺のスマホをハッキングして、あんな画像や音声をばら撒いたのはテメェだろ!」
カケルが俺の胸倉を掴み、壁に押し付ける。
ドン、という衝撃。
下駄箱にいた数人の生徒が悲鳴を上げて逃げていく。
だが、俺は眉一つ動かさなかった。
彼の暴力など、想定の範囲内だ。
むしろ、ここで手を出してくれたことは好都合ですらある。
「証拠はあるのかい? 桐島くん。言いがかりはよしてくれないか」
「うるせぇ! 昨日の夜、お前とすれ違った時からおかしいと思ってたんだよ! あの目で俺を見た時から!」
カケルの勘は、こういう時だけ鋭い。
動物的な本能というやつだろうか。
彼は俺の胸倉を掴んだまま、震える手でポケットから何かを取り出した。
カチリ、という乾いた音。
刃渡り数センチの、小型のカッターナイフだった。
「認めろよ……! 全部お前がやったって! 今すぐ全部消せ! でないと、殺してやる!」
切羽詰まった脅迫。
彼はもう、正常な判断力を失っている。
学校という公共の場で、凶器を取り出すことの意味すら分かっていない。
これこそが「崩壊」だ。
俺はゆっくりと彼の手首を見下ろし、それから彼の顔を見た。
そして、ニッコリと笑った。
それは、彼が今まで見たこともないような、深く、暗く、底知れない愉悦に満ちた笑顔だった。
「……『殺す』か。威勢がいいね、桐島くん」
「あ……?」
「でも、君にそんな度胸はないよ。君はただ、自分より弱いと思う人間を踏みつけにして、優越感に浸っていただけの小物だからね」
俺の声のトーンが変わる。
優等生の仮面を脱ぎ捨て、その下に隠していた「怪物」が顔を覗かせる。
俺は掴まれた胸倉など気にも留めず、自分のスマホを取り出し、画面をカケルに見せつけた。
「これ、何だか分かる?」
画面に映っていたのは、動画のサムネイルだ。
カケルが以前、深夜の公園で仲間たちと一緒に行っていた「ある行為」の映像。
それは、単なる万引きや飲酒とはレベルが違う。
法に触れる、明確な犯罪行為。
警察に提出されれば、間違いなく少年院送致、あるいはそれ以上の重い処分が下される決定的な証拠だ。
彼自身ですら「墓場まで持っていく」つもりで隠蔽していたはずの過去。
カケルの顔から、瞬時に表情が消え失せた。
手にしたカッターナイフが、カタカタと音を立てて震え始める。
「な、なんで……お前、これを……」
「君のデジタルタトゥーは、僕が全て管理しているんだよ。君がいつ、どこで、誰と何をしていたか。どんなサイトを見て、どんな言葉を検索したか。君の脳内よりも詳しく、僕のサーバーには記録されている」
俺はカケルの耳元に顔を寄せ、恋人に愛を囁くような声で言った。
「君の人生のスイッチは、僕が握っているんだ。僕がその気になれば、この動画を警察と教育委員会、ついでに君の親の会社にも送信できる。君だけじゃない、君の家族ごと社会的に抹殺することだって、ワンクリックで可能なんだよ」
カケルが息を呑み、硬直する。
理解したのだ。
目の前にいる男が、ただの優等生でも、嫉妬に狂った彼氏でもないということを。
自分ごときが太刀打ちできる相手ではない、「捕食者」であるということを。
「ひ、ひぃ……っ」
カケルはカッターナイフを取り落とした。
カラン、と無機質な音が廊下に響く。
彼はガタガタと震えながら後ずさり、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。
股間から、じわりと暗い染みが広がっていくのが見える。
失禁。
恐怖のあまり、生理現象すらコントロールできなくなった哀れな末路。
「あ、あぁ……ごめ、ごめんなさい……許して、許してくれ……」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、カケルは土下座をした。
プライドも、虚勢も、全て粉々に砕け散った。
そこにいるのは、ただ命乞いをするだけの抜け殻だ。
「許す? もちろん許すよ」
俺は屈み込み、カケルの頭を優しく撫でた。
まるで、怯える仔犬をあやすように。
「君はとてもいい仕事をしてくれたからね。エレナの本性を暴き、僕に『正当な理由』を与えてくれた。君のおかげで、僕は心置きなく彼女を『教育』できる。感謝しているんだよ」
俺の言葉の意味が理解できず、カケルは呆然と俺を見上げる。
その瞳には、純粋な恐怖だけが映っていた。
「でも、一つだけ条件がある」
「な、なんだ……何でもする……!」
「エレナに伝えなさい。『お前の彼氏はバケモノだ、逃げろ』と。君の最後の良心として、彼女に警告してあげるといい」
それは慈悲ではない。
恐怖の種まきだ。
カケルというフィルターを通して、俺の異常性をエレナに伝える。
「逃げろ」と言われても、彼女にはもう逃げ場などないのだが、その絶望感をより深く味わわせるための演出だ。
「わ、分かった……言う、言うから……!」
「うん、いい子だ。じゃあ、さようなら桐島くん。君のこれからの人生が、地獄のように苦しいものであることを祈っているよ」
俺は立ち上がり、汚れた胸元を払うと、一度も振り返らずにその場を去った。
背後で、カケルが嗚咽を漏らしながら泣き崩れる声が聞こえる。
雨音にかき消されそうなその声は、かつての栄光の残骸だった。
校舎を出て傘を開くと、冷たい雨が視界を遮る。
俺の心は、かつてないほど澄み渡っていた。
障害物は排除した。
邪魔な雑音は消した。
あとは、残された迷子の子羊を迎えに行くだけだ。
エレナ。
君は今、どんな顔で泣いているのだろう。
カケルに裏切られ、周囲から白い目で見られ、孤独に震えているのだろうか。
安心していいよ。
僕だけは、君を見捨てない。
たとえ君がどれほど汚れていても、その汚れごと愛し尽くしてあげる。
君が「もう許して」と泣き叫んでも、僕の愛からは逃がさない。
ポケットの中のスマホが震える。
エレナからの着信だ。
『蓮、助けて』というメッセージと共に。
俺は画面を見つめ、数秒間だけ着信音を楽しんだ後、通話ボタンを押さずに電源を切った。
焦らすんだ。
極限まで不安にさせ、絶望の淵に立たせる。
そして、彼女の心が完全に折れた時、僕が救世主として現れる。
そうすれば、彼女は一生、僕の手を離せなくなる。
「待っててね、エレナ。僕たちの『本当の愛』は、これから始まるんだから」
雨の中、俺は一人、静かに微笑んだ。
その笑顔は、通行人が見たら思わず道を譲ってしまいそうなほど、美しく、そして狂気に満ちていた。
崩壊の序曲は鳴り止んだ。
次なる幕は、いよいよヒロインへの断罪と、永遠の拘束劇だ。




