贋作
天野の自宅から渡辺の自宅は、道路を渡って直ぐにある。
「今度は頼むぞ」
山辺は、そんなことを言って、渡辺の自宅のインターホンを鳴らした。
今度は、返事が返ってきた。
「突然すみません。警察の者ですが、天野さんの事でお伺いしたいのですが―――」
「わかりました。すぐ行きます」
その後直ぐにドアの音がして、眼鏡を掛けた中年の男が出てきた。警察が来ているからか、少し緊張した面持ちの様だった。
「今、天野冴子さんを訪ねたのですが、どうやら四日の日から姿を消していると聞いたのです。そこで、天野さんと仲が良いという、あなたにお聞きしたい事があるんです」
山辺が、まず、そう切り出した。
「確かに、ご主人がご健在の時から仲良くしてもらっています」
渡辺は、最初に笑顔で言ったが、
「ですが、ここ数日見掛けないので、私も冴子さんを心配していたんですよ」
と、表情を一変させた。
「天野さんは、一体何処へ行ったのでしょうか?」
城戸が、単刀直入に聞いてみた。
「さあ。私も、行き先を聞いていないもんで、困っているんですよ」
「ただ、家の鍵は開いているのです」
「鍵が開いているんですか?」
渡辺は、驚いた表情で言った。
すると、山辺が、改まった口調で、
「事件性があるので、我々は、天野冴子さんの自宅を調べようと思います。あなたも付き添ってもらえませんか?」
「ええ、いいですよ」
渡辺は、笑顔で肯いた。
今度は、渡辺と共に天野の自宅へ向かった。相変わらず、玄関の扉の鍵は開いているので、簡単に開いてしまう。
「本当だ、鍵が開いている」
渡辺は、改めて驚いていた。
「渡辺さんは、天野さんの自宅に入ったことはあるんですか?」
城戸が、玄関に上がり、白い手袋に手を通しながら訊いた。
「たまにですが、ありますよ。最近は、先月にお邪魔しました」
「では、渡辺さんも、家の中を見ていって頂けませんか?何か変った事があれば、我々に知らせて下さい」
「わかりました。では、私は、作業場を見ておきます」
渡辺は、そう言って、廊下を歩きだした。城戸達も、それぞれの部屋へ捜査に向かった。
城戸は、リビングを見ていった。リビングは、キッチンと食卓がある部屋と、ソファとテレビの置いてある部屋の二部屋があった。
キッチンを見ると、乾燥機の中の白い数枚の皿は、片付けられていなかった。コンロの上には、水の入ったやかんが置いたままである。お湯でも沸かすつもりだったのだろう。
その様子を見た城戸は、冴子が旅に出ているとは思えなかった。旅に出て、数日間家を空けておくなら、皿にしろ、やかんにしろ、中途半端なまま放らずに、片付けておくのが普通である。
そんなことを考えていると、
「刑事さん!」
という、渡辺の声が耳に飛び込んできた。城戸は、作業場へと駆けて行った。
作業場には、渡辺の声を聞きつけた山辺と門川も駆け付けた。
渡辺は、作業場の奥にある、本棚の本の様に絵画を並べて保管している棚の前に立っていた。
「どうしたんですか?」
城戸が、渡辺に訊いた。
「三枚の絵が見当たらないんです。確かに、先月まではあったのですが―――」
渡辺は、棚の一番下の段を指差して言った。
確かに、他の段は隙間無く額縁の絵が本棚の本の様に並べられているが、渡辺の指差すところのみ隙間が空いていて、何枚かの絵が傾いていた。
「三枚の絵とは、どんな絵ですか?」
「『肥後の鶴』という三部作なんですが、三枚すべてなくなっています」
「『肥後の鶴』という絵なら、五か月前にある収集家に買い取られていて、その人が所有しているはずですが―――」
渡辺は、城戸を睨んできた。
「それは、有り得ないと思いますが」
「何故ですか?」
城戸は、知らないふりをしてわざと訊いてみた。
「画家の天野さんは、その絵を自分史上最高の傑作だということで、大事に保管しておくことにしたんです。天野さんが亡くなった後も、妻の冴子さんが遺志を引き継いで家で保管していたんです。実際、先月も『肥後の鶴』がこの棚にあったのを私は確認しているんです」
「先月に、その棚にあることを確認しているんですね?」
「はい」
渡辺の返事を聞いて、城戸は困惑した。『肥後の鶴』は、五か月前に田島によって買い取られて、今現在まで東京の自宅に置いてあるはずなのだ。城戸も、実際に、書斎に飾られている三枚の『肥後の鶴』を見ている。
しかし、渡辺が言うには、先月にこの熊本は高森にあるこの家で、『肥後の鶴』を三枚共見たというのだ。五か月前からずっと東京にあるはずの絵が、何故先月は熊本にあったのか―――。
城戸は一瞬、田島が二週間ほど『肥後の鶴』を貸していた友人というのは、作者の妻・天野冴子なのかと考えたが、それを時系列にすると、おかしくなる。実際に田島が五か月前に天野冴子へ『肥後の鶴』を貸したとしても、貸した期間は二週間だった。渡辺は、先月に『肥後の鶴』を見ているのだ。その時、『肥後の鶴』はとっくに東京の田島の自宅に返されているはずだった。
すると、『肥後の鶴』は、この世に二つ存在するのか―――?
城戸が考え込んでいると、渡辺が、
「あなたは、『肥後の鶴』がある収集家に買い取られたとおっしゃいましたが、それを売ったのは冴子さんなんですか?」
と、逆に質問してきた。
「いいえ。売ったのはある美術商ですが、心当たりはありますか?」
「さあ、詳しいことはわかりませんね」
次に、山辺が渡辺に質問した。
「あなたと天野さんの御関係は?」
「まあ、ただのご近所さんという感じですよ。詳しく言うと、私は別荘を経営しているのですが、その別荘に何か絵を飾ろうとしたとき、近所に評判の良い画家がいると聞いて天野さんを訪ねたら仲がよくなったんです」
それを聞いた城戸が、
「申し訳ありませんが、他の部屋についても見ていただけませんか?」
「ええ、いいですよ」
渡辺は、すべての部屋を見回ったが、特に変わりはないという。
「今日は、ありがとうございました。お手数をかけることにはなりますが、天野さんが帰ってきたとか、何かありましたらこの名刺の電話番号にかけていただけませんか?いつでも構いません」
城戸が名刺を渡すと、
「わかりました」
と、渡辺は言って一礼し、天野の家を出て行った。
戸の閉まる音が聞こえると、門川が、捜査結果を城戸に報告した。
「警部、水回りを見てみると、洗濯機の中に洗濯物が入ったままで、片付けられていないんです。本当に、冴子は旅に出たのでしょうか?」
「実は、台所も片付けられていなかったんだ。旅に出たとは考えられないね」
「じゃあ、一体冴子は何をしているんだ?」
山辺が、城戸に意見を求めた。
「考えられるのは、何か急な出来事があったのか、何者かに強引に連れ去られたかかな」
城戸は、自分でも答えがわからない質問に、困った様子で答えた。
「それにしても、不思議な話だよな。『肥後の鶴』は、三枚とも田島が買い取って、五か月前から今も田島の自宅にあるはずなのに、さっきの渡辺は、先月にこの家で『肥後の鶴』を三枚とも見たと言っているんだ。この世に『肥後の鶴』が二つもあるというのは、有り得るのか?」
山辺が、話題を変えたので、城戸は、胸をなでおろした。
「有り得ない話ではないな」
今度は、自信に満ちた様子で城戸が答えた。
「それは、どういうことなんだ?」
「どちらかが贋作、つまり、偽物だという事だよ。普通に考えると、田島の買い取った『肥後の鶴』が贋作だろうな」
「そうなると、細谷は、偽物を田島に売りつけたという事になるが―――」
「ああ、そうだよ。それも、ただ単に贋作を売ったわけではなく、本物の値段で偽物を売りつけたんだ」
「そんな事をして、田島は黙っていられるだろうか?」
「当然、黙っていられないと思うよ。今回の事件が、それだと私は思うね」
城戸の目は、光っていた。
「つまり、田島が、贋作を売りつけてきた細谷を殺害したという事か」
そう言った後、山辺は、目を大きくさせた。
「やはり、田島は、細谷を殺害するために、阿蘇中のホテルや旅館を調べ回っていたんだな」
「ああ、そうなんだよ。きっと田島は、本物の『肥後の鶴』を手に入れるために行動を起こしたんだ。そして、偽物を売りつけた人間の始末も企んだ。そこで、何者かに阿蘇へ呼び出された細谷を殺害したわけだ。勿論、田島は、口封じという意味でも細谷を殺害したんだと思うがね」
「となると、この天野の家に本物の『肥後の鶴』があったとして、田島がそれを奪った可能性は高いな」
「そうだな。だから、絵がなくなっているんだ」
「城戸、そうなると、天野冴子は、田島に連れ去られたのか?」
「多分、そうだと思うがね。『肥後の鶴』のある場所を聞き出すためじゃないか?田島も、自宅で保管されているというのは、知らないだろうからね」
これには、城戸もどこか自信が無い様だった。
「まあ、取り敢えず高森署へ行くか。四ヶ月前の事故について、調べようじゃないか」
自信の無い城戸の様子を見兼ねて、山辺が気分転換のつもりで言った。
城戸も、それに同意して、再び覆面パトカーに乗り込んだ。天野の自宅については、阿蘇署の刑事が張り込んでくれることになった。
高森警察署は、高森駅の隣にある、見晴台駅の側にある。中心部から、人里離れた感じの所である。とは言っても、五分足らずで着いてしまった。
高森署に着くと、城戸達は、直ぐに捜査一課へ通してもらった。そこでは、鷹野警部が対応してくれた。
城戸は、
「突然に申し訳ありません」
と、断っておいてから、
「四ヶ月前に、この警察署の管轄内で、天野肇さんという方が亡くなった事故があったと思うのですが、その調書を見せていただけませんか?」
「いいですよ」
鷹野は、奥にある棚から、一冊の本を持ってきて、城戸達に椅子に腰かけるよう促した。
城戸は、鷹野から調書を渡され、一頁ずつ丁寧に見ていった。山辺と門川も、覗き込むようにそれを見ていた。