番外ー3
ぎゅうと力強く私を抱き締めて一度大きく息を吐いた後、足に負担がかからないように私を自分に寄りかからせたカイリーは、彼にしては怒ったような声音で私を糾弾した。
「なんで一人で森の中に入ったの。雨降った次の日の森の地面が柔らかいことも、この季節は動物たちが危ないことも知ってるよね?草で隠れた急斜面があるから油断しちゃだめだって常識だよね?二人以上で森に入るって掟だよね?」
「ごめんなさい……」
「こんなにボロボロになって……ライラの玉のような肌が傷だらけだって思うだけで俺の心の方がズタズタだよ」
「大げさな――」
「ライラ、俺は怒ってるんだよ?ちゃんと理由を言って」
「はい……」
今度ばかりは反論することはできない。
少しも笑みを見せない空色の瞳を下から見上げてスカートのポケットから少しくしゃくしゃになってしまったそれを取り出すと、カイリーは目を丸くさせた。
「これ?」
「押し花にしようと思って」
見せたのは、この森の特定の場所、季節にしか咲かない一輪の白い花だ。
結婚のときに、花嫁が予め押し花を作り、それを一人の未婚女性にあげるというのがこの村の習慣だ。花嫁が、次の花嫁に向けて幸せのおすそ分けをするという意味が込められている。
色あせないような綺麗な押し花にするには時間とコツがいるので、少し前から準備が必要なのだが、私はうっかりして作り忘れていたのだ。
「カイリーなら約束は絶対守るだろうし……そうしたらすぐに必要になるのに、私、作り忘れてて……慌てて摘みに行ったら……」
「どうしてわざわざ森の特定の場所にしか生えてないものにしたの。花なんてどこにでも咲いてるのに」
「……国唯一の元勇者の結婚式だもの。特別な花にしたかったの」
私の返事にカイリーは何とも言えない表情をして、「あーあともう一本腕が欲しいなーどこかに落ちてないかなー」と言いながら私を背中におぶった。
「ちょっと、カイリー、それじゃあ危ない!」
「うん、ごめんね。腕一本でしか支えられないから、ちょっと危ないね。ちゃんと俺にしがみついててね」
「違うわ!この急斜面を腕一本で、なんて!体勢だってきついだろうし!誰か呼んできてくれるまで待っていられる――」
「俺がライラをこんなところに一人で置いていけるわけないだろ。俺、バレッタから話聞いて先に飛び出してきたから他の人たちが来ているかも、どこまで来てるかも知らないんだ」
私の制止を聞かずにカイリーはあたりの草や枝を掴みながらひょいひょいと斜面を登っていく。
熱い背中に支えられて、雨露に奪われていた体温がかえってくるのを感じると、一人であそこの場で助けを待つなどというのがいかに危険で馬鹿馬鹿しい案だったのか自覚させられてしまう。
「そ、それでも!カイリーが体を痛めちゃう!それにこんな時に動物に襲われたら!」
「ライラ、俺は元々勇者だよ。これくらい大したことないし、イノシシでもなんでも追い払うよ」
「でも! 元、だもの!」
カイリーの横顔にたらりと汗が流れていくのを見て、自分の軽率な行動が元凶であることを棚上げして言い返すと、背中しか見えない幼馴染は呼吸を乱さない穏やかな口調で言った。
「うん。特別な地位も身分もいらないからそれでいいんだ。俺は、好きな子一人守れない勇者よりも、好きな子を守り切れる凡人でありたい」
背中からでは表情の見えないカイリーが、「ライラ」と、いつも通りの柔らかい声音で背中の私に呼びかけた。
「俺に、一番大切な女の子を――ライラを守らせてよ」
途端、さっきまでたった一人で死ぬかもしれないと思っていた恐怖も、寒さも、足首を走る痛みも、全身がひりひりする感覚よりもなによりも、ただただ頬の熱さだけを感じた。
お馬鹿で、能天気で、変態に片足を突っ込んでいて、ちっとも素敵じゃないって、一体誰のことだったかしら。
「…………カイリーは凡人じゃなくて変人だわ」
言おうと思った文句を全て奪われた、素直でない私が、カイリーの首元に顔をうずめたまま言えたのはたったこれだけ。
「俺、ライラのためだったらいくらでもおかしくなれるよ。今だってライラの重みを全部俺が受け止めてるとか考えたら、幸せすぎて倒れそうになる」
「……ばか」
「こんな俺を嫌いになる?」
「……好き」
苦しくないように、それでもさりげなくカイリーの首元に絡めた腕を強めると、カイリーはいつもの通り楽しそうに笑った。
それからおよそ二週間後。
「できたわ。うん、これでいいわね」
「そ、うかな……」
お母さんとバレッタと、あと数人の手伝ってくれている村のおばさんたちが、花嫁支度部屋となっている私の家で称賛の声を上げてくれた。
「わぁ、ライラ、すっごく綺麗よ!」
「ライラちゃん素敵!」
「予想通り薄桃色はライラちゃんの目の色によく似合うわねぇ。とっても可愛いわぁ、ライラちゃん!」
「ありがとうございます」
お母さんたちに化粧をしてもらってから、肌触りのいい薄く長い下衣の上に、少しぶ厚めの生地のこの村の伝統的な薄桃色の花嫁衣装を身にまとう自分を見回していると、着替えを手伝ってくれたバレッタが小さな鏡を持ってきてくれて見せてくれる。
鏡の中に映るライラック色の瞳の若い女は、普段はしない頬紅や口紅を引かれて、自分とは思えないほど華やかだった。
「これはまずいわね。カイリーくんが今日のあなたを見たら鼻血を噴いちゃうかも」
「お母さんったら」
「おばさん、それ冗談じゃないです。でも安心してください、私たち同世代もそのくらい予想して対策してますから」
「対策?」
「ふふふふ、ライラは心配しないで?幼馴染に任せておきなさい!」
「よく分からないけど……そうだ、バレッタ。これ、今渡していい?」
なにやら自信満々で胸を叩くバレッタに、あの事故の時に摘んだ白い花で作った押し花を渡す。
「一番お世話になっている大切な友達っていったらバレッタしか考えられないもの。受け取ってもらえる?」
バレッタは徐に私の方に歩み寄り、押し花を受け取ると、軽くこつんとおでこをぶつけてきた。
「気持ちはとーっても嬉しい。けど、二度とあんなことしないでね?」
「うん。心配かけてごめんね?」
#####
あの事故の日、私とカイリーは森から出てきたところでバレッタの他、私を探してくれていた人たちに保護された。
血相を変え、いの一番に飛び出したお父さんは、無残にボロボロになった服に、全身びしょ濡れ、傷だらけの悲惨な状態の私がカイリーにおぶさっているのを見ると、表情を硬くして私に呼びかけた。
「ライラ」
「お父さん、ごめんなさい!あのっ、カイリーが私に触れているのは、私が斜面で落ちて足を捻挫して動けなくなったからで、それは私が一人で森に――」
「すみません、おじさん。俺とライラが『二人で』森に花を取りに行ったんですけど、ライラが足を滑らせてしまって、すぐに助けられなくてこんなことに。ライラに怪我をさせてしまったことも、こうして約束を破ってしまったことも、全部俺のせいなんで、ライラを責めないでください」
私を村の人たちが用意してくれた布の上に下ろしてから、お父さんの前で頭を下げたカイリーを、お父さんが無表情で見やる。
「それは――」
「違うの!お父さん、聞いて!これは私が掟を破った自業自得で、カイリーは何も悪くない!助けてくれただけで――」
「ライラは黙ってて」
「ちょっと、カイリー、嘘つかないで!」
「ライラ、黙りなさい」
お父さんは、お母さんに布で包まれ、泣きつくバレッタに抱きつかれている私に一瞥もくれずに、カイリーの目の前まで歩いていって手を振り上げた。
「お父さんやめて!」
飛び出そうとして、足がひどく痛み一度視線を落として、それから立ち上がることのできないままにもう一度視線を上げたとき、お父さんの手はカイリーの頭に乗せられて、がしがしと乱暴にかき混ぜられていた。
手がどけられ、頭を上げてぽかんとするカイリーの前で、今度はお父さんが頭を下げた。
「娘を助けてくれてありがとう。父親として礼を言う」
「あ、え、や。えっと。それは俺には当たり前のことでっ、あの、俺の方が前にライラに酷いことばかりして、こんなことじゃ償いにも何にもなりはしないというか、いやこれはそんなこと抜きに自然と体が動いてしまいまして、それで約束もえっと――」
「カイリー」
「はいっ!」
「君が一年前に娘にしたことを私が忘れることはできない」
「はい……」
「だから、次に娘にあんな顔をさせて、泣かせたら、結婚しようがなんだろうが、娘は返してもらうからな」
「え……?」
カイリーが目を瞬くと、お父さんがカイリーの手を握り、それから小さく頭を下げた。
「娘をこれから一生、よろしく頼む」
急展開にぽかんと間抜け面を晒していたカイリーは、ようやくそこで気を取り直したらしく、元勇者の名にふさわしくきりりと顔を引き締める。
「はい。これからよろしくお願いします、お義父さん」
泥と雨露で汚れたままでも、その顔はこれまでに見たどの顔よりも勇ましく、美しかった。
その顔を見たお父さんは、うん、と一度頷いてから今度は座り込んだ私を見て、寂しげに笑った。
「ライラ、幸せになれ」
「お父さん……ありがとう……」
泣いたらダメと分かっていても、目頭が熱くなってぽろぽろと涙をこぼすと、きりりと勇ましかったはずのカイリーの顔が真っ青になった。
「これは流していい涙ですよね!?」
「……どうだかな」
「えぇ!?ちょっと待ってください!ライラ、落ちる前に俺がその涙全部舐めとるから待って!ちょっと零すの堪えて……ってぇ!!」
途端にこっちに駆け寄ろうとするカイリーの頭に容赦ない手刀が落とされ、カイリーが痛みでその場で蹲った。その手刀の犯人たるカイリーのお父さんが、白目をむくお父さんの肩をいなすように叩いた。
「悪いな、バーディ。こんな馬鹿息子がお前の義理の息子にもなるが、俺からもよろしく頼む」
「……グロム、一晩酒に付き合え。寝かさんぞ。お前の教育のどこが間違っていたのか徹底的に問い詰めてやる」
「責任を持って付き合おう」
頬をひくつかせるお父さんと、軽く笑いながら謝るカイリーのお父さんと、蹲って悶絶するカイリーの姿に、そこにいた村人たちが大笑いしたことは、あえて言わなくても分かると思う。
それから二週間。
「あの人も寂しかっただけなのよね、あなたが村に帰って以来カイリーくんにべったりなものだから。これから結婚したら余計カイリーくんが離れないでしょう?意固地になっていても仕方ないって説得した後、ようやくあの条件を出したんだけど、あれは嫁ぐ前に娘との時間を過ごしたかっただけなのよ」
お母さんのネタバレを踏まえつつ、私は足首の捻挫が治るまでのこの二週間、お父さんとお母さんと三人で仲良く結婚前の最後の時間を過ごした。
カイリーは、本人が自重したのか、それともカイリーのお父さんにきつく言い含められたのか、この二週間は大人しく、私の傍に貼りついて私たち家族の時間の邪魔をするという無粋は犯さなかった。
そうそう。私の村の掟破りについては、
「村長。私、その、掟を……」
「ほろ?ライラは未来の婿とでぇとをしておったんじゃろう?」
「え?いや、その。私、さっきも言いかけた通り一人で――」
「はて?わしゃ、最近耳が遠くてのー。カイリーのでかい声の前に言われたかぼそい声なんぞなーんも耳に入らんかったんじゃ。もし何か悪いと思うなら、そうじゃのー。幸せのおすそ分けは、村の若い娘たち全員にでもしてやるんじゃなぁ」
ということで、花嫁から送る押し花を村の未婚女性全員に作ることで不問とされた。もちろんその花は、バレッタ宛の花のように特別なものではなくて、林に群生している花にさせてもらったけれど、それでも友達や、まだ幼い女の子含めみんなに喜んでもらえた。
#####
「ライラ、そろそろ頃合いよ」
お母さんに呼ばれて立ち上がり、花嫁衣装の裾が引っかからないように家具の間を縫って歩く。
同じ村の中で過ごすわけだからいつでも戻ってこられるけれど、カイリーと一緒に別宅で暮らすようになるから、この家は「自宅」ではなくなる。
一抹の寂しさを胸に秘めつつ、ドアに手をかけたところでバレッタに呼び止められた。
「あ、ライラ、ちょっと待って。こっち向いて」
振り向くと、目の前にいたバレッタが私の髪を軽くいじった。
バレッタが手を離した後、耳元でちりん、と軽い金属の音が鳴った。
「これ……」
「あの時に行商のおじさんから買ったやつ。ライラの目と同じ色だったから、結婚の時につけてもらえたらなって思ったんだけど、いい、かな?……高級なものとかじゃないし、結婚の時に着けてもらうのはダメかなって悩んだんだけど」
「もちろんいいわ。嬉しい!ありがとう、バレッタ」
大事な親友に抱きつくと、女の子の甘い香りに包まれる。
「ライラ、結婚おめでとう。……さ、未来の旦那様がお待ちかねよ!」
バレッタが開けてくれた自宅のドアから、青空のもとに足を踏み出し、数歩歩んだところで視線を上げると、少しだけ離れたところにその人が立っていた。
お馬鹿で、一途で、変態で、でもどうにも憎めない大事な大事な、愛しい人。
彼は、周囲と同じ、抜けるような空色の瞳を眩しそうに眇め、その手をこちらに伸ばして私の手を取ってくれる。
「カイリー」
「ライラ……すっごく綺麗」
整った顔が紅潮し、幸せそうに笑ったカイリーが私に近寄って頬に軽く口づけた後、大きく私から距離を取った。
そしてなぜか鼻をつまんだ。
「カイリー?」
「あ――――ちょっと待って。今近づくとその綺麗な顔も衣裳も汚れちゃう。俺でライラを汚すとかもう考えただけで興奮す……あ、ダメだ余計血が……!あのー。誰か、布くれませんか?」
指の隙間からわずかに赤い色が見えるところを見ると、バレッタの予想は当たったらしい。
「ほらね!」
「予想通りだ!」
「おら、いくぞ!!」
結婚式にふさわしくない掛け声がかかったなーと思った瞬間、カイリーの顔に向けて大量の布きれが投げつけられた。
「おら!それで鼻血を拭きやがれ!この幸せもんの元勇者様よう!」
布に埋もれて地面に座り込み、目を白黒させるカイリーを、バレッタやセナードを初めとした幼馴染の悪友たちのにやにや笑いが囲む。
その様子に私が噴出し、お父さんたちがつられ、そして結婚式は明るい笑い声に包まれた。
その後、王都でのサーガに新しい一節が加わり、王都の結婚式では妙な光景が頻繁に見られるようになった。
花嫁は、式の前に一番の友達に髪留めをもらう――ここまではいい。
花婿は、式直前に顔に大量の布をぶつけられる――その意味は分からないが、とにかく大量の布を顔めがけて思い切りぶつける。
そうして結婚した夫婦は幸せになれる――幸福の縁担ぎとしてそんな光景があちらこちらで繰り広げられたそうだ。
行商人のおじさんたちからその話を聞いた私は、追加であと五年は王都に行かないと決心したのだった。
おしまい。
駄犬、爽やかなゴールインです!
どうぞカイリーの顔に思い切りタオルをぶつけてやってくださいませ!
完結お礼小話はこれでおしまいです、お読みいただきありがとうございました!