第8話 逃亡の森
帝国暦1277年、晩秋。
帝都から北東へ百キルメル。
深い古森の「黒霧の森」は、逃亡者にとって最後の隠れ家だった。
ヴェルナ・ド・ルシフェルは、血まみれの体を引きずりながら木々の間を走っていた。
赤いビキニアーマーはあちこちが裂け、肩と脇腹に深い剣傷が開いていた。
栗色の髪は汗と血でべっとりと張り付き、赤い瞳は憎悪と絶望に燃えていた。
「ミリアーナ、何で俺を裏切った!」
彼女は何度もその名前を呟き、歯を食いしばった。
逮捕の夜から三日。
追手は容赦なく迫り、彼女はすでに三人の追跡部隊を屠っていた。
しかし、力は限界だった。
魔力も枯渇し、傷口からは熱が上がり、視界が時折ぼやけた。
一方、帝都の宮殿深部。
ミリアーナは自室の窓辺に立ち、夜の闇を見つめていた。
彼女の顔は蒼白で、手は微かに震えていた。
『ヴェルナ、手筈どうりに脱走したのね。
計画通りのはずなのに。
なぜ、こんなに胸が痛むの?』
影の系譜からはヴェルナの動向は逐一報告が届いていた。
最新の情報ではヴェルナは黒霧の森に逃げ込んでいる。
ミリアーナは唇を強く噛み、机の上に広げた地図を睨んだ。
「ここにヴェルナを隠れ住ませよう。
彼女の憎しみが深まる前に、誰かに守られて隠れ住む事で心が和らぐ可能性がある。
それは、予言の最悪ルートの回避に繋がる」
彼女は深く息を吐き、決断した。
『エリックを使うしかないか』
その日の深夜。
ミリアーナは黒いマントを纏い、密かに指定の宿屋へ向かった。
部屋に入ると、元親衛騎士エリック・ヴァルデンが待っていた。
「ミリアーナ様」
エリックが跪こうとした瞬間、ミリアーナは彼の肩を押さえ、唇を重ねた。
熱く、深く、貪るようなキスだった。
「エリック、時間がないわ」
彼女はドレスの紐を自ら解き、白い肩を露わにした。
十五歳とは思えない成熟した肢体が、魔術の灯りに浮かび上がる。
エリックは息を呑んだ。
「ヴェルナが黒霧の森に逃げ込んだ。
あなたは彼女を探し出し、守りなさい。
傷つき、孤独な彼女の心を掴み、恋に落とすの。
私の代わりに、彼女の傍にいて。
そして、定期的に私に報告をしなさい」
ミリアーナはエリックの胸に体を押しつけ、甘く囁いた。
「もちろん、報酬は十分に払うわ。
今夜も、あなたが欲しがるだけあげるわ」
彼女はエリックをベッドに押し倒し、自ら跨がった。
白い肌が彼の体に絡みつき、熱い吐息が部屋に満ちた。
ミリアーナは技巧を尽くし、エリックの体と心を完全に支配した。
行為の最中、彼女はエリックの耳元で繰り返した。
「ヴェルナを愛しなさい。
でも、忘れないで。
あなたの忠誠は、私にあることを」
エリックは激しい快楽と罪悪感の中で、ただ頷くしかなかった。
ミリアーナの身体は、彼を完全に堕とすための最強の武器だった。
一方、黒霧の森の奥。
ヴェルナは苔むした岩陰に身を隠し、意識を失っていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
「生きてるか?」
低い、落ち着いた男の声が聞こえた。
ヴェルナは本能的に跳ね起き、短剣を構えた。
目の前に立っていたのは、二十歳前後の青年、エリック・ヴァルデンだった。
黒い髪を短く整え、帝国騎士の古いマントを羽織っている。
瞳は穏やかで、しかし戦士としての鋭さも宿していた。腰には一本の長剣。
「動くな。お前、帝国の騎士か?」
ヴェルナの声は低く、警戒に満ちていた。
青年は両手を挙げ、ゆっくりと後退した。
「元だ、今はただの流れ者だ。
君がヴェルナ・ド・ルシフェルだな?
帝都で大騒ぎになっている」
ヴェルナは短剣を構えたまま睨みつけた。
「殺しに来たのか?」
「いや、むしろ、助けたいと思っている。
俺はエリック・ヴァルデン。
かつて皇帝親衛騎士団にいたが、腐敗に嫌気が差して脱走した」
エリックは懐から小さな薬草の包みを取り出し、ヴェルナの傷口に近づけた。
「これで応急処置を。毒が入っていないかの確認もするぞ」
ヴェルナはしばらく迷ったが、激しい痛みと疲労に負け岩に寄りかかった。
エリックは丁寧に傷を洗い、薬草を塗り布で縛った。
彼の手つきは意外に優しかった。
「なぜ、俺を助ける?
俺は皇帝暗殺未遂の罪人だぞ」
エリックは静かに答えた。
「俺も、宮廷の腐敗を知っている。
ミリアーナ・ヴァルハイトが皇帝の側近として幅を利かせているのもな。
君が嵌められたという噂は、すでに流れている」
ヴェルナの瞳が鋭く光った。
「ミリアーナ、やはりあの女が俺を嵌めたのか」
エリックはヴェルナの肩に手を置き、静かに言った。
「今は休め。
この森は俺がよく知っている。
匿ってやる」
それから三日間、エリックはヴェルナを森の奥の洞窟に匿った。
彼は元騎士だけあって、狩猟、野営、傷の手当てに長けていた。
ヴェルナは最初は強く警戒していたが、徐々に彼の誠実さに心を開いていった。
夜、焚き火を囲みながら二人は語り合った。
「俺はミリアーナを信じていた。
孤児院からずっと、一緒に帝国を変えるって誓ったのに。
それなのになぜ俺を裏切ったんだろう」
ヴェルナの声が震えた。
エリックは静かに耳を傾け、時折相槌を打った。
「信じていた者からの裏切りは苦しいだろう。
俺も親衛騎士団で上官に利用された。
だから君の気持ちが少しわかる」
焚き火の炎が、二人の顔を赤く照らした。
ヴェルナは初めて、他者に心の内を吐露した。
エリックは優しく、しかし決して甘くなく彼女の言葉を受け止めた。
ある朝、ヴェルナの傷が少し癒えた頃。
エリックが小さな野花を摘んで、彼女に差し出した。
「生きろ、ヴェルナ。
復讐だけが人生じゃない。
いつか、また笑える日が来るかもしれない」
ヴェルナは花を受け取り頰を赤らめた。
十七歳の少女の心に初めての温かい感情が芽生えた。
「ありがとう、エリック」
その瞬間から、二人の関係は少しずつ変わり始めた。
追手が再び迫る気配を感じた夜。
エリックはヴェルナを抱きかかえ、森の奥へと逃げた。
彼の背中は広く、温かかった。
ヴェルナは彼の胸に顔を埋め、久しぶりに安堵の吐息を漏らした。
「エリック、お前は、俺を裏切らないよな?」
エリックは静かに頷いた。
「ああ、約束する」
森の木々が風にざわめく中、二人は固く抱き合った。
ヴェルナの心に、復讐の炎とは別の優しい炎が灯り始めた。
しかし、彼女はまだ知らなかった。
この出会いが、さらなる悲劇の序章であることを。
エリックが、ミリアーナの策略によって送り込まれた「第二の裏切り者」であることを。
黒霧の森は、二人の儚い恋を静かに見守っていた。
逃亡の森で、ヴェルナは初めての恋を知った。
エリックという青年との出会いは、彼女の傷ついた心に一筋の光を与えた。
しかし、ミリアーナの影は、すでにその恋にまで忍び寄ろうとしていた




