第九十二話「一区切り」
それから数日が過ぎた。
ルシアンは予定通り、ミラとカイルにも予選での動きを説明した。
俺たち五人にはすでに聞かされていた内容だったが、二人が入ればそのまま同じように動けるわけではない。
カイルは地図を見ながら、自分が判断していい範囲と、誰に確認するべきことなのかを何度も聞いた。ミラも、救護が必要になった時にどこまで自分の判断で動くのかを確認していた。
説明が終わってからは、七人での練習が続いた。
一回目よりは声が届くようになった。
前はあった伝達の抜けも減り、七人で迷わず動ける場面が増えていた。
途中から別の班に相手を頼む日もあった。
上手くいく時もあれば、終わったあとルシアンが地図に印を増やしていく時もある。
それを次の練習でまた試す。
そんなことを繰り返しているうちに、七人で集まること自体は珍しくなくなった。
変わっていたのは、俺たちだけではない。
放課後になると、訓練場に向かう一年生の数が明らかに増えていた。
今までなら総合科だけで固まっていた班に、見覚えのない専科生が混じって歩いていることもある。食堂では、空いている訓練場の時間について話している学生がいる一方で、次の休みに帝都のどこに行くか相談している学生もいた。
授業がなくなったわけではない。
課題もある。
俺も研究室に行くし、図書館にも行く。
それでも、要項が配られた頃より、大会の話を聞かない日の方が珍しくなっていた。
* * *
ある日の放課後。
俺は研究棟の廊下を歩いていた。
曲がり角の手前で、前から来た学生二人とすれ違う。
二人は両側から取っ手を持って、細長い器具箱を運んでいた。
箱の中は仕切られていて、その一つ一つに魔晶石が収められている。
(色が違う)
青。
赤。
白に近いもの。
同じ色でも、内側に溜まっている魔力の密度が違うものもあった。
反射的に足を緩める。
学生たちはそのまま廊下の先を曲がった。
(何に使うんだろう)
追いかけたい。
でも、今日はリアと約束している。
それに、別の研究室の器具を勝手について行って見るのも違うだろう。
後ろを一度だけ振り返ってから、研究室に向かった。
扉を開ける。
「失礼します」
「こんにちは、レイン君」
マルティナ教授がいつもの机から顔を上げた。
「こんにちは」
奥を見る。
リアはもう来ていた。金色の髪を背中に流し、いつも使っている机いっぱいに紙を広げている。
ただ、測定器はない。
「今日は借りないの?」
「借りないわ」
リアは紙の端を揃えながら答えた。
「今日は実験しないから」
「しないの?」
「ええ。前回までの結果、今日は一緒にまとめる予定だったでしょう」
「うん」
「大体のところは先に整理しておいたの。あとは抜けがないか、一緒に確認したい」
机を見る。
今日ここに来てから始めるものだと思っていたのに、記録はもう種類ごとに分けられていた。
「もうここまでやったの?」
「昨日、時間があったから」
「ありがとう。助かる」
「まだ終わってないわよ。見てみて」
隣の椅子を引く。
机の上には、今まで使った記録が種類ごとに整理されていた。
エヴァン。
フェリクス。
比較しやすい条件で行ったもの。
魔力の分布が揃っていない状態を混ぜたもの。
魔法を使わなかった回。
消費量の差を細かくしていった記録。
俺が答えた順番と、その横に測定器の結果が並んでいる。
「……こうして見ると、結構やったね」
「そうね」
最初の頃の紙は、数字の差も大きい。
後ろに進むほど差が細かくなり、最後にはフェリクスで十段階まで増えている。
六回目と九回目。
俺が初めて迷った二つも、そのまま残っていた。
「ここの二つ、やっぱり近い」
「実測値でもね」
リアが二つの値を指す。
「それでも順番自体は合ってる。ただ、レイン自身の判断では、ここから自信が落ちた」
「うん。今までとは違った」
「だから、これより細かい差を調べるなら、同じくらいの差を何度も作る必要があるわ。もっと小さくした時に、どの辺りから本当に区別できなくなるのかも見たい」
「やろうよ」
「今はやらない」
「……もう決めてる?」
「決めてる」
即答だった。
「まず、今までの結果をまとめる」
リアが一枚目に戻る。
「エヴァンとフェリクスで、比較しやすい状態なら魔力量の大小を全部正しく並べられた。分布を変えても順番は崩れなかった。魔法を使っていない回も、ほとんど変化なしとして区別できた」
「うん」
「術者を変えても同じ。差を細かくしても、今まで試した範囲では結果は一致してる」
もう一度、最初から記録を追う。
実験の時には一回ずつ答え合わせをしていた。
こうして全部並べて見るのは初めてだった。
「じゃあ」
紙から顔を上げる。
「魔力量の違いは、見えてるって言っていいよね?」
リアはすぐには答えず、手元の記録を一枚めくった。
「ええ」
「え」
「何?」
「もっと『ただし……』って言われると思ってた」
「言うわよ」
「やっぱり」
「でも、先に答えただけ」
リアが筆を取る。
「少なくとも、私たちがここまで試した条件では、レインは魔力量の差を視覚的に区別できている、と言っていいと思う」
「おお……」
思わず、もう一度記録を見る。
「証明できた?」
「その言葉を使うなら、何を証明したかを限定した方がいいわね」
「限定?」
「魔力視の全部じゃないもの」
リアは紙の余白に短く書き始めた。
「今確かめたのは、魔力量の差。色や流れ、圧縮、変質する時機まで同じ方法で確かめたわけじゃない。それに、誰を見ても、どんな距離でも、どんな環境でも同じ精度で分かるところまでは調べてないわ」
「そっか」
「でも」
筆が止まる。
「だから結果が弱いって意味じゃないわよ」
「うん?」
「エヴァン一人だけじゃなくて、フェリクスでも結果は崩れなかった。分布も変えたし、魔法を使わない条件も入れた。消費量の差も、最初よりずっと細かくした」
リアは最後の記録を上に置いた。
「魔力量の違いが見えるのか、という最初の問いについては、一度まとめていいところまで来たと思う」
胸の奥がじわっと熱くなる。
俺には最初から見えていた。
多い。
少ない。
濃い。
薄い。
そんなものは、物の色を見るのと同じくらい当たり前だった。
でも、それを他の人に説明しようとすると、何度も止まった。
俺が見えると言うだけでは駄目だった。
いつ観測するのか。
何を俺に隠すのか。
何と比較するのか。
分布が変わったらどうするのか。
術者が変わったらどうなるのか。
一つずつ決めて、やっと机の上にこれだけの紙が残った。
俺の回答と測定器の値が、同じ紙の上に並んでいる。
こうしてまとめると、俺が何を答え、実際の測定値がどうだったのかが一目で追える。
「……ちゃんと形になったんだな」
「何が?」
「研究。実験してる時は、その回が合ってたかしか見てなかったから」
リアがまとめた紙をもう一度最初から見る。
「ここまで整理してくれて、ありがとう」
「最終確認は一緒にやってるでしょう」
リアはそう言って、俺が確認した項目の横に印を付けた。
「マルティナ教授」
リアが声を掛けた。
「今、よろしいですか?」
「はい」
教授が筆を置いてこちらに来た。
リアが席を少しずらし、まとめた記録を教授の前に置く。
「前回までの結果です。魔力量については、ここで一度まとめようと思っています」
マルティナ教授は一枚目から順番に見ていく。
途中で、俺の答えと測定値を見比べた。
次の紙。
また次。
最後の十段階の記録まで来ると、六回目と九回目のところで指が止まった。
「ここが、レイン君が判断に迷った組ですね」
「はい」
リアが答える。
「順位は一致しました。ただ、この差になると本人の確信度が下がっています」
「なるほど」
教授が二枚の記録を並べる。
「次に進めるなら、この付近を複数回試して識別限界を探る方法がありますね」
「それは俺もやりたいです」
「でしょうね」
即答された。
「でも、それを始めると次の研究になると思っています」
リアが言った。
教授が頷く。
「私もそう思います」
「次の研究?」
「このまま差を細かくしていけば、今度の問いは『魔力量の差が見えるか』ではなく、『どの程度までの差を識別できるか』になります」
「ああ」
確かに違う。
「術者をさらに増やして、同じ結果がどこまで一般化できるかを見ることもできます。距離や環境条件を大きく変える方法もあります。色や流れを客観的に扱いたいなら、また別の観測方法が必要でしょう」
マルティナ教授が、机の上の記録を最初に戻した。
「ですが、魔力量の差を視認できるという点については、ここまでで十分に示せています。最初の問いに条件を足し続けて、終わらなくする必要はありません」
「……はい」
やりたいことが減ったわけではない。
むしろ増えた。
識別できる限界。
色。
流れ。
圧縮。
魔力が属性に変質する瞬間。
それぞれを今みたいに、俺以外の人にも確かめられる形にできるなら、全部試したい。
「次は——」
「大会が終わってから」
隣から声が飛んできた。
リアだった。
「……まだ何も言ってないよ」
「言おうとしてたでしょう」
マルティナ教授が俺たちを見る。
「ちょうどいい区切りなのではないですか。新入生競技大会も近いのでしょう?」
「はい」
リアが答える。
確かに、大会までもう時間が少ないのも事実だった。
俺も頷いた。
「では、今回の記録を整理しておいてください。次に何を扱うかは、その後で考えればいいでしょう」
「分かりました」
教授はそれだけ言うと、自分の机に戻っていった。
リアも記録をまとめ始める。
俺は手伝おうとして、一番下からはみ出していた紙に気づいた。
「あ」
引き出す。
見覚えがある。
線。
矢印。
八つの項目。
紙の端には計算まで残っていた。
「これ、まだあったんだ」
「最初の案でしょう。残してあるわよ」
「三万二千八百五通り……」
数字を読み上げる。
久しぶりに見ると、前よりひどく見えた。
「本当にやるつもりだったの?」
「途中までは」
「途中まで?」
「全部試せば一番確実かなって」
「終わる前に学院を卒業するんじゃない?」
「そこまではかからないと思うけど」
三万二千八百五回。
測定器を借りられる時間に、被験者の魔力回復まで考えたところで、計算するのをやめた。
「……やらなくてよかった」
「でしょうね」
リアが今の記録をその横に置いた。
昔の紙は線と矢印で埋まっている。
今の紙は、条件ごとに結果が分かれ、どこまで確かめたのかがすぐ分かる。
「最初は、条件を増やせば増やすほど確実になると思ってた」
「増やす前に、何を確かめるか決めないと比較できないもの」
「うん」
最初の紙をもう一度見る。
「最初にリアに相談して正解だったな。俺だけだったら、この表から始めてた」
「そこは止めた甲斐があったわね」
「うん。ちゃんと感謝してる」
リアは古い紙を今の記録の下に重ねた。
「これは残すの?」
「残すわ。最初に何を考えてたのかも記録だから」
「三万通りも?」
「それも」
「消したいんだけど」
「駄目」
即答された。
「今度は、最初から増やしすぎないようにする」
「そうして」
リアが最後の紙を重ねた。
「次は、大会が終わってからね」
* * *
研究室を出ると、窓の外はもう夕方だった。
研究棟の階段を下り、外に出る。
少し離れた訓練場の方から、魔法の光が上がった。
赤い光が一度。
少し遅れて、別の場所から別の魔法の光が広がった。
普段なら、何の魔法か気になって近くまで見に行ったかもしれない。
けれど今日は、あの辺りの区画を一年生の班が使っていることを知っていた。
実際、研究棟の前を通る学生の中にも、杖を持った一年生が何人かいる。
その反対側からは、七人ほどの集団が歩いてきた。
見覚えのある総合科の学生に、別の専科の学生が混じっている。
誰かが地図を開き、残りの学生がそれを覗き込んでいた。
俺たちだけではない。
大会に出る班は、それぞれのやり方で準備を進めている。
その横を通り過ぎたところで、リリィとの約束を思い出した。
また一緒に帝都に行こうという話は、もう決まっている。
決められていなかったのは、日にちだけだ。
前に話した時は、班練習の予定がまだ固まっていなくて、夕方なら空けられる日があるとしか言えなかった。
今なら、次の休みの予定は分かる。
それに、ルシアンから聞いた天環鳥の話もある。
寮に戻る前に、治癒魔法科の実習棟に寄ることにした。
授業が終わっていて会えなければ、明日にすればいい。
実習棟の入口が見えてくる。
ちょうど学生たちが帰り始める時間らしく、濃紺の制服が何人も扉から出てきていた。
その中に、淡い金髪を見つける。
リリィは一人ではなかった。
治癒魔法科の男女数人と、入口の脇で立ち話をしている。今日はエマの姿はない。
女子の一人が手に持った紙を見せ、リリィがそこを指しながら何か答えていた。その横では男子二人も話を聞いている。
声を掛けようとして、足が止まった。
話の途中に割って入るほど急ぎでもない。
(また明日でいいか)
そう思って引き返そうとしたところで、リリィがこちらを見た。
目が合う。
「あ」
リリィが話していた学生たちに向き直る。
「ちょっと待ってて」
そう言って、こちらまで歩いてきた。
「レイン君。どうしたの?」
「ごめん。話してたなら、また今度でよかったんだけど」
「大丈夫。今の話も、もう終わるところだったから」
一度だけ後ろを見る。
待っている学生たちもこちらを見ていたので、あまり長く引き止めるのは悪い。
「この前の話、日にち決められるようになったから」
リリィの表情が変わる。
「次に出かける日?」
「うん。班の予定が決まった。次の休みなら、夕方は空けられる」
「本当?」
「待ってもらってたから、早めに言おうと思って」
「ありがとう。私もその日は大丈夫」
これで一つ決まった。
あとは、もう一つ。
「それと、リリィ、天環鳥って知ってる?」
「天環鳥?」
「うん」
「知ってるよ。急にどうしたの?」
やっぱり知っていた。
ルシアンの言った通りだ。
「見たことある?」
「あるよ。小さい頃に一回だけ。家族と見に行った」
「そっか」
「もしかして、今度それ見に行く?」
先に言われた。
「うん。ルシアンに、今くらいの時期なら見られるって聞いた。前に言ってたお店もあるけど、夕方からなら、こっちもいいかなって」
リリィは少し考えてから頷いた。
「行きたい。お店はまた今度でも行けるし」
「じゃあ、決まり?」
「うん。次の休みね」
前に出かける約束をしてから、ようやく日にちと行き先まで決まった。
「レイン君は、天環鳥見るの初めて?」
「初めて。羽が魔力に反応して光るって聞いた」
「そこ、やっぱり気になるんだ」
「気になるよ。飛んでる時に魔力がどう流れてるのかも見たい」
「ふふ」
笑われた。
でも、からかわれている感じではなかった。
「何?」
「前に魔導具のお店に行った時と同じだなって思って」
「ああ」
言われて分かった。
あの時も、店に入った途端に術式ばかり見ていた。
「でも、今回は鳥だけ見に行くわけじゃないよ」
「うん?」
「リリィと出かけるのも楽しみにしてる」
言ってから、前よりは自然に口にできたことに気づいた。
リリィは一瞬黙ったあと、
「……うん。私も」
と返した。
それ以上は、どちらも続けなかった。
後ろにはまだ治癒魔法科の学生たちが待っている。
「じゃあ、次の休み。夕方に学院を出るのでいい?」
「うん。見やすい場所は、私も調べておく」
「俺もルシアンにもう少し聞いてみる」
「じゃあ、それで」
リリィが後ろを振り返った。
女子の一人がこちらを見ている。
「戻らないと」
「うん。引き止めてごめん」
「私が抜けてきたの」
「そっか」
「またね」
「また」
リリィが手を上げる。
袖口がわずかに下がり、淡いベージュの細い革紐と、その中央の小さな魔晶石が見えた。
今日も着けている。
それだけ確認できて、視線を戻す。
リリィは待っていた学生たちのところに戻っていった。
すぐに女子の一人が何かを聞く。
「今の、アストリア君だよね?」
そこまでは聞こえた。
もう一人の女子もリリィに顔を寄せ、今度は二人揃ってこちらを見る。
片方は俺の顔を確かめるように見てから、またリリィに向き直った。
リリィが何か返すと、二人がさらに質問している。
あれは、たぶん俺とのことを聞かれている。
男子の一人とも目が合った。
一度リリィを見て、それからもう一度俺を見る。
隣の男子に何か言われ、肩を竦めていた。
……少し羨ましそうに見えたのは、気のせいではないと思う。
女子二人の方も、少なくとも悪い意味で俺を見ていたわけではなさそうだった。
こっちまで見続けるのも変なので、俺は先に歩き出した。
研究は大会の後。
次の休日は、リリィと天環鳥を見に行く。
その間にも、放課後には七人での練習がある。
予定を頭の中で並べると、少し前とはずいぶん違っていた。
学院に入ったばかりの頃は、次にどんな授業があるのかだけでも楽しみだった。
今は授業の外にも、研究があって、練習があって、次の休日の約束まである。
そのどれもが同時に進んでいる。
* * *
寮の部屋に戻り、鞄から今日の記録を取り出した。
リアがまとめたものの写しだ。
棚を開け、今まで使ってきた研究資料の上に重ねる。
次にこれを開くのは、大会が終わってから。
そう考えて棚を閉じた。
机に戻る。
そこには新入生競技大会の要項が置かれている。
要項を机の中央に寄せる。
次の休日には、リリィとの約束。
それが終われば、大会まで残っている時間はもう長くない。
窓の外から、遠く訓練場の音が聞こえた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
感想や評価をいただけるととても励みになります。お気軽にお寄せください。
次話もお楽しみ頂ければ幸いです。よろしくお願いします。




