第八十八話「答えの途中」
(気まずい)
班練習から数日後。
なぜか俺は、アルドリックと二人きりになっていた。
一組と三組の合同授業が終わった後の教室。
廊下に出てから教本を机に置き忘れたことに気づき、取りに戻った。
もう誰もいないと思っていた。
実際、ほとんどの学生は次の授業や食堂に向かっている。教師もいない。
なのに、窓際の席に一人だけ残っている。
濃い銀色の髪。
机には教本と、授業で使った地図が広げられていた。
アルドリックは地図上の街道を一度指で辿ってから、俺に気づいた。
「アストリアか」
「……うん」
別に、仲が悪いわけではない。
この前の模擬戦だって、終わった後に何か揉めたわけでもない。
ただ俺が、アルドリックに負けただけだ。
それから学院内ですれ違うことは何度もあったが、模擬戦以来二人だけで話す機会はなかった。
(……何を話せばいいんだ)
机まで歩き、置き忘れていた教本を取る。
これで用事は終わった。
「じゃあ」
そう言いかけたところで。
「特別選抜の件、大変だったな」
アルドリックが言った。
「……聞いてたんだ」
「学院中で話になっていた」
「まあ、そうか」
実際、知らない方が難しいくらいには広がっていた。
俺は教本を鞄に入れる。
「もう大丈夫だよ。ルシアンとか、エヴァンたちのおかげで」
「ああ。エヴァンからも聞いた」
「同じ班なんだよね」
「そうだ」
アルドリックが地図を畳む。
「収まったようで何よりだ」
「うん」
そこで会話が切れた。
「……」
「……」
やっぱり、気まずい。
ルシアンならここから何かしら話題を見つけるのだろうか。
少なくとも俺には思いつかない。
アルドリックも無理に話を続けるつもりはないらしく、地図を教本の間に挟んだ。
その地図を見ていて、あの日のことが頭に浮かんだ。
「そういえば」
「何だ」
「この前、帝都にいたよね」
アルドリックの手が止まった。
「帝都?」
「お年寄りの荷物、運んでた」
一拍置いて。
「見ていたのか」
「うん」
あの日。
リリィと歩いていた途中だった。
荷車の横で困っていた老人から木箱を受け取り、そのまま運んでいた。
誰かに頼まれたようには見えなかった。
「困っていたから手を貸しただけだ」
「やっぱりそうなんだ」
「他に理由がいるのか?」
「いや、いらないけど」
少し迷ってから聞く。
「アルドリックって、昔からそうなの?」
「そうとは?」
「困ってる人がいたら助けるとか」
アルドリックはすぐには答えなかった。
机の上の教本を閉じる。
「昔からかは分からない。いつからそうしているか、考えたこともない」
そこで一度言葉を切った。
「ただ、子供の頃、父について北の国境に行ったことがある」
「ルミナリア?」
「ああ」
霊峰王国ルミナリア。
精霊魔法が発達し、森林や河川、鉱山などの資源にも精霊との契約が関わっている国。
地理の授業でも、その後何度か北方の国境について扱った。
国境近くにある魔晶石大鉱山を巡って、ここ数年は帝国との間に小さな緊張が続いている。
両国が戦争を望んでいるわけではない。
それでも、採掘権や境界線の解釈が絡めば、現場では話が別になる。
教師はそんな説明をしていた。
「後継者教育の一環だった。駐屯地や街道、補給、それから鉱山周辺を見るための視察だ」
アルドリックの赤い瞳が、俺から外れた。
「俺を戦場に連れていくためではなかった」
だが。
視察の途中で、小競り合いが起きた。
「国境の測量を巡って、現場で揉めたらしい。俺は詳しいところまでは知らなかった」
幼いアルドリックに、外交上の事情まで説明されていたわけではないのだろう。
「俺自身が戦ったわけではない。だが、初めて本物の負傷者を見た」
アルドリックの声はいつもと変わらない。
ただ、その次の言葉までには間があった。
「怖いと感じた」
「……アルドリックが?」
「ああ」
思わず聞き返してしまった。
アルドリックはこちらを見る。
「おかしいか?」
「いや」
慌てて首を振る。
「今のアルドリックから、そういう言葉が出ると思ってなかっただけ」
「俺も人間だ」
「それは知ってる」
模擬戦で嫌というほど。
あの時だって、何をしても動じなかったわけではない。
水を顔に浴びれば視界は塞がる。
足場を崩せば体勢も乱れる。
それでも、そのたびに必要なことをしてきただけだ。
「兵士が戦っていた。住民は避難させられていた」
アルドリックが続ける。
「大きな戦いじゃない。長くも続かなかった」
戦いが終わった後、避難していた住民たちが兵士に礼を言っていたという。
頭を下げる人。
泣いている人もいた。
「その帰り、脚を怪我して歩けなくなった子供がいた」
周りには大人もいた。
それでも、アルドリックは自分で運ぶと言ったらしい。
「家族のところまで運んだ。それだけだ」
アルドリックはそこで言葉を切る。
「後で、その子に礼を言われた」
俺は黙って聞いていた。
しばらくして、アルドリックが鞄を持った。
「ヴァレリウスの後継者として、国を守るよう教えられてきた。それは事実だ」
「うん」
「俺は、それを正しいと思っている」
迷いのない声だった。
「だが、それだけでもない」
あの時。
兵士たちが守っていたもの。
自分が運んだ子供。
「俺も、自分の力で守りたいと思った」
短い言葉だった。
「それが、国を守るっていうのにも繋がってる?」
「理由の一つではある」
すぐに答えたわけではなかった。
「それだけで全部説明できるとは思わない」
「そっか」
それ以上、自分の考えを綺麗にまとめるつもりはないらしい。
俺も聞かなかった。
以前、アルドリックから「国を守るために学院に来た」と聞いた時。
もっと大きなものを想像していた。
軍を率いる。
国境を守る。
敵を倒す。
たぶん、それも間違ってはいない。
でも。
帝都の通りで老人の荷物を運んでいた姿も、その言葉の外にあるわけではないみたいだ。
俺は鞄の肩紐を持ち直した。
今なら、言っておきたかったことを話せる気がした。
「前に聞かれたことなんだけど」
アルドリックがこちらを見る。
「俺が何のために学院に来たのかって」
「ああ」
覚えていたらしい。
「考えたのか」
「うん」
答えようとして、止まる。
頭の中では何度も考えた。
ルシアンとも話した。
それでも、アルドリックみたいに短い言葉にはならない。
「まだ、アルドリックみたいに一つには決まってない」
「そうか」
「家族とか、領地の人とか。守りたいものは、俺にもある」
それは学院に入る前から変わらない。
「セレナ先生の隣に立てるくらい、もっと魔法を知りたいとも思ってる」
アルドリックは黙って聞いている。
「それに」
言葉を選ぶ。
「アルドリックの言ってたことは、前より分かる。これだけの力を持ってるなら、それを何に使うかは考えた方がいいと思う」
俺がどこまで強くなれるのか。
まだ分からない。
それでも、この眼も、魔力量も、完全無詠唱も。
持っている力が大きいことくらいは分かっている。
「そこは、考えないままでいいとは思わない」
「なら、決めたのか?」
「ううん」
すぐに答える。
「まだ決まってない」
「……そうか」
「でも」
ここは、前とは違う。
「決まってないことが、駄目だとも思わなくなった」
アルドリックは何も言わない。
だから続ける。
「俺は今、魔法を学ぶのが楽しいんだ」
授業で知らない術式を見る。
研究室で、今まで当たり前だと思っていたものを一つずつ確かめる。
他の学生が使う、自分とは全然違う魔法を見る。
学院に入ってからだけでも、知らなかったものはいくつも増えた。
「まだ知らない魔法を見たい。知らない仕組みを知りたい。できなかったこともできるようになりたい」
「それが、学院に来た理由か」
「今はね」
四年後も同じことを言っているかは分からない。
「その先で何をするかは、ここにいる間に探してみる」
口に出すと、あの時よりはちゃんと自分の言葉になった気がした。
アルドリックはしばらく黙っていた。
「俺なら、先に目的を決める」
「うん」
「目的が決まっていれば、何を学ぶべきか選べる。使える時間にも限りがある」
「その方が早いとは思う」
「なら」
「でも、知らなかったものを見てから、やりたいことが増えることもあるよ」
アルドリックの言葉を遮る。
「今の俺は、そっちの方がいいと思ってる」
アルドリックは否定しなかった。
かといって、納得したように頷きもしない。
「俺には、あまりない考え方だな」
「やっぱり、違うね」
「そうだな」
考え方は違う。
アルドリックが目指しているものを、俺がそのまま目指したいわけでもない。
たぶん向こうも同じだ。
でも。
前に聞かれた時のように、何も答えられないわけではなくなった。
「戻るか」
「うん」
二人で教室を出る。
階段を下りる。
廊下の掲示板には、新入生競技大会の要項がまだ貼られていた。
その前で何人かの一年生が話している。
アルドリックも一度そちらを見る。
「大会の準備は進んでいるか」
「うん」
「そうか」
「アルドリックの班は?」
「進めている」
短い。
当然だが、作戦を教える気はないらしい。
俺も聞くつもりはなかった。
少し歩いたところで、アルドリックが言う。
「お前たちとは、どこかで当たるかもしれないな」
「そうだね」
予選は二十班全てが同じ演習場に入る。
そこで顔を合わせる可能性もある。
その先まで進めば、さらに直接競うこともあるだろう。
「次も勝つ」
アルドリックが言った。
口調はいつもと同じだった。
でも、それを聞いて黙ってはいられない。
「いや」
俺はすぐに返した。
「俺たちが勝つ」
アルドリックの赤い瞳がこちらを見る。
「そうか」
「うん」
「楽しみにしている」
階段の下。
一組の教室に向かう廊下と、三組の教室に向かう廊下が分かれている。
アルドリックはそのまま一組の方に曲がった。
「じゃあな」
「うん。また」
姿が見えなくなる。
俺も反対側に歩き出した。
負けたことを思い出せば、今でも悔しい。
次は。
絶対に勝ちたい。
今度は、俺一人じゃなく。
* * *
「もう決まったの?」
数日後。
昼休みの食堂で、近くの卓から声が聞こえた。
「昨日決まったらしいよ」
「早くない?」
「治癒科で入試上位だった人でしょ?」
「そう。その人」
俺は料理を食べながら、そちらに耳を向ける。
話しているのは総合科の学生だった。
組は違う。
「まだメルヴィンの試験、終わってないよね?」
「待ってたら他の班に取られるって考えたらしい」
「ああ」
「前から評判いい人だったみたいだし。だったら結果を見る必要ないって」
助っ人。
もう正式に誰かを加えると決めた班が出てきたらしい。
俺たちは二人取るつもりだが、まだ誰になるかは知らない。
ルシアンは相変わらず専科の学生と話したり、あの冊子の様子を見に行ったりしている。
「一点引かれるんでしょ?」
「それでも欲しいってことじゃない?」
「うちは取らないぞ。五人で足りるって」
「班によるもんね」
そこで話題は別の班に移った。
助っ人を取る班。
取らない班。
まだ迷っている班。
要項が出た直後にも同じ話はあった。
ただ、その頃は「一点減るなら取らない方がいい」という声の方をよく聞いた気がする。
今は違う。
減点されることを承知したうえで、誰を取るのかという話が普通に混ざるようになっていた。
食事を終える。
今日は午後の授業が終わった後、研究室に行く予定だ。
食器を返して、食堂を出る。
中庭を抜けたところで、前を歩いていた二人の学生が話していた。
一人の手には、見覚えのある薄い冊子がある。
「まだならやってみなよ」
「そんな難しいの?」
「後ろの方は難しかった」
「じゃあいいよ」
「いや、面白いんだって」
冊子の端で隣を歩く学生の腕を軽く叩く。
「実習で聞かれそうな感じの問題もあるし。普通に考えるのに時間かかる」
「メルヴィンの班に入りたいの?」
「別に」
「じゃあ、なんでそこまで勧めるんだよ」
「問題が面白かったから」
あっさりした答えだった。
「それに、名前付きで回答が出るんでしょ? 別の班にも見てもらえるなら、やって損はないし」
「ああ、それはあるか」
そのまま二人は専科棟の方に曲がっていった。
(広がってるな)
最初に見た時は、掲示板の前で「これ試験だろ」と言われていた。
今では、解いた学生が別の学生に勧めている。
しかも。
『メルヴィンの試験』
完全にその名前で定着していた。
本人は一度も試験と言っていないのに。
夕方。
研究室から寮に戻る途中でも、またその話を聞いた。
「理論科のも回ってきた?」
「昨日うちのところに来た」
「私は出したよ」
「助っ人狙い?」
「いや。もう別の班から声かかってる」
「じゃあ何で?」
「自分の答えがどのくらいなのか見たいから」
「結果、公開されるんだっけ」
「名前も出るって書いてあった」
「それなら俺もやろうかな」
一方で。
そのすぐ後ろを歩いていた学生は、
「うちは五人で行くって決めたから関係ない」
と言っていた。
全員が同じように考えているわけではないらしい。
ただ。
学院のあちこちで、助っ人について話している学生を見る。
以前から名前を知られていた専科生に、結果が出る前に声を掛ける班まで現れた。
ルシアンの冊子に参加する専科生も増えている。
(ルシアン、これ全部見るんだよな)
寮に戻る。
扉を開けると、ルシアンはまだいなかった。
机の上には普段使っている教本だけ。
俺は鞄を置き、明日の課題を取り出した。
その夜も。
ルシアンが帰ってきたのは、俺より遅かった。
* * *
あの冊子が専科を回り始めてから、二週間が経った。
授業を終え、寮の部屋に戻る。
扉を開けた瞬間。
「……何これ」
思わず足が止まった。
ルシアンの机が。
紙に埋まっていた。
冊子。
束ねられた回答用紙。
教本。
机の端だけでは足りず、椅子の横にも何冊か積まれている。
表紙を見る。
治癒科。
探索科。
魔法理論科。
三つともある。
ルシアンはその真ん中で、一冊の教本を開いていた。
「おかえり」
「ただいま……じゃなくて」
机を指す。
「何これ」
「戻ってきたやつ」
「これ全部?」
「回収できた分はね」
近づく。
一冊取ろうとして、やめた。
回答欄には封紙が貼られている。
名前と所属だけは外から確認できるようになっていた。
机の隅には、見覚えのある紙もある。
最近ルシアンが専科を回る時に持ち歩いていた記録だ。
「こんなに集まったんだ」
「思ってたより多かった」
ルシアンは教本のページを一枚めくる。
「これ、全部読むの?」
「そのつもり。できるだけ早く目を通したい」
机の上を見る。
治癒魔法の教本。
探索に関する地形や判断の資料。
魔法理論の本。
普段のルシアンの机とは、並んでいるものが全然違う。
「でもさ」
「何?」
「治癒とか探索の答え、ルシアンに分かるの?」
ルシアンの手が止まった。
横に積んであった教本を持ち上げる。
「細かい専門知識まで僕だけで判断するのは無理だよ」
「だよね」
「ただ、問題を作る前に聞いた話と教本があるから、何を基準に考えるかはある程度確認できる」
そう言って、教本を机に戻した。
「まずはそれと照らして読む」
「全部?」
「うん」
ルシアンは答案の束を見る。
それから、俺の机の方を見た。
「レインには悪いけど、今日は徹夜かな」
「徹夜?」
「できるだけ早く確認を終わらせたいんだ。終わったら回答も公開するし」
「全部今日見るつもり?」
「全部終わるかは分からない。でも、進められるところまではやる」
ルシアンが机の上の灯りに手を触れる。
「眩しかったら言って。向き変えるから」
「ああ、うん。俺は大丈夫」
「なら助かる」
ルシアンは冊子の束から、一冊目を取る。
封紙の端に指を掛けた。
紙の剥がれる音がする。
俺は自分の机に鞄を置いた。
振り返ると、ルシアンは最初の回答を読み始めていた。
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