第八十五話「メルヴィンの試験」
新入生競技大会まで、あと二ヶ月。
朝、目を覚ますと、向かいの寝台が空いていた。
「……ルシアン?」
返事はない。
窓から差し込む光を見る。寝過ごしたわけではなさそうだ。
普段なら、俺と同じくらいか、ルシアンの方が後まで寝ていることもある。なのに今日は、寝具まで綺麗に整えられていた。
(早いな)
制服に着替えながら向かいの机を見ると、紙が一枚置かれている。
『用事があるから先に出るね。今日は一人で食堂行って』
それだけだった。
「用事?」
何だろう。
昨日、そんな話は聞いていない。
最近のルシアンが授業以外でやっていることといえば、真っ先に浮かぶのは一つだった。
(また助っ人のことかな)
治癒科、理論科、探索科。
ここ数日、ルシアンは暇を見つけるたびに専科の学生と話している。
昨日も、夕食の後にどこかへ行っていた。
紙を机に戻す。
「まあ、帰ってきたら聞けばいいか」
鞄を持って、一人で部屋を出た。
* * *
朝食を終え、そのまま講義棟に向かう。
途中まではいつも通りだった。
教本を抱えた学生、まだパンを食べながら歩いている学生、友人と今日の授業について話している学生。
寮から出てきた学生が食堂や講義棟に向かい、石畳の道を埋めている。
けれど、講義棟が見えてきたところで、人の流れが一か所だけ膨らんでいた。
「何だろ」
掲示板の前だ。
学院からの連絡が貼られる場所なので、人が集まっていること自体は珍しくない。
ただ、今日は一年生らしい学生がずいぶん多い。
総合科だけではない。
見覚えのある治癒科の学生や、専科の教本を手にした学生も混じっている。
その中に、淡い金髪を見つけた。
「リア」
声をかける。
リアがこちらを向いた。
「おはよう。レイン」
「おはよう。何があったの?」
「あなたの班のリーダーが、また何か企んでるわよ」
「ルシアン?」
リアが掲示板を目で示した。
そちらを見る。
人の向こうに、濃い銀色の髪も見えた。
アルドリックだ。
一組の学生が何人か近くにいるが、アルドリック本人は誰とも話していない。
ただ掲示された紙を、上から順に黙って読んでいる。
俺も人の間から前に出た。
中央に貼られた一枚だけ、明らかに文章量が多い。
上には、大きく表題が書かれていた。
《新入生競技大会に関する意見募集》
その下。
《治癒魔法科・魔法理論科・探索科 一年生の皆さんへ》
(……ルシアンだ)
名義を確認するまでもない。
続きを読む。
『新入生競技大会の実施要項をもとに、救護区・解析区・踏査区で起こり得る状況を想定し、三分野それぞれについて課題案を作成しました。
僕自身は各分野の専門家ではありません。
実際に専門課程を学んでいる皆さんなら、それぞれの状況をどのように考え、判断するのか、意見を聞かせてもらえればと思います』
そこから下に、参加方法が書かれていた。
治癒魔法科、魔法理論科、探索科の三種類について、それぞれ冊子を用意している。
冊子には大会課題を想定した問題が複数収録されており、興味のある一年生には、自分の専門分野に対応したものへ回答してほしい。
冊子の受け渡しのための指定場所と時間。
自分が回答した後は、できる限り同じ学科の別の学生にも回してほしい。
後半には一人一ページずつ回答欄が用意されていて、氏名と各問題への考えを書く。
書き終えた後は、回答欄の上から備え付けの封紙を糊付けし、次に読む学生から見えないようにする。
(そこまでするの?)
さらに続く。
『提出された回答は、最初に僕が全て確認します。
確認終了後、参加者の氏名を含めた全回答を速やかに公開します。
集まった情報を僕の班だけで独占することはありません。
冊子の回収は二週間後を予定しています。問題数と内容を考え、無理のない範囲で回答してください』
最後。
『総合科一年三組 ルシアン・メルヴィン』
「……これを貼りに行ってたのか」
今朝いなかった理由は分かった。
横から声が聞こえる。
「意見募集っていうか、これ選抜じゃない?」
「俺にもそう見える」
「メルヴィン、助っ人二人取るって言ってただろ?」
「だから三つの専科を回ってたのか」
少し離れたところでも、同じような話をしている。
俺も掲示をもう一度見る。
ルシアンは、助っ人を二人取ると言っている。
その後、何日も専科を回った。
そして今度は三つの専科に問題を出し、回答には名前を書かせる。
最初に読むのはルシアン自身。
(……確かに、試験だ)
少なくとも、そう見える。
問題への回答を見れば、誰がどんな判断をするのか分かる。
しかも本人の名前付き。
入試順位だけでは分からなかった部分まで見られる。
「メルヴィンのなら、やってみようかな」
後ろで誰かが言った。
「公開もされるんだろ? ちゃんと書けたら他の班も見るってことだよな」
「逆に変なの書いたら残るけど」
「それは嫌だな」
「でも面白そうじゃない?」
話している学生たちの顔を見る。
(これ、結構集まりそうかも)
俺が同じ紙を貼ったら、どうなるだろう。
『三専科の皆さん、俺が問題を作ったので解いてください』
……人は来るだろうか。
魔法の話なら興味を持ってくれる人はいるかもしれない。
でも、治癒も探索も含めて名前を書いた論述を提出してくれと言って、朝からこれだけ学生が集まる気はしない。
ルシアンは違う。
メルヴィン家の名前を知らない学生はいない。
総合科でも成績上位だと知られている。
入学してから、俺が驚くほど色々な人と知り合っている。
それに今は、何日も専科を回っているところまで見られている。
『ルシアン・メルヴィンが大会用の問題を作った』
その一言だけでも、見てみようと思う学生がいる。
(学院に来てから作った人脈って、こんな使い方もできるんだ)
素直に感心した。
「……面白いわね」
横でリアが言った。
「やっぱり試験だと思う?」
「それは本人に聞きなさい」
「リアはやらないの?」
「私は理論科じゃないわよ」
「そうだった」
「あなたも総合科でしょう」
「分かってるよ」
リアはもう一度掲示を見る。
「ただ、二週間後は見てみたいわね」
「回答?」
「ええ」
そこまで言って、リアは腕時計に視線を落とした。
「そろそろ行くわよ。講義に遅れるわ」
「あ」
アルドリックもいつの間にか掲示板から離れていた。
最後まで何も言わなかった。
俺も講義棟に向かう。
朝から一つ、ルシアンの用事は分かった。
* * *
昼休み。
指定場所になっていた中庭に行ってみると、朝より状況が分かりやすかった。
「こっちが治癒。理論はその隣。探索は右」
ルシアンが机の向こうで冊子を配っている。
同じ表紙の冊子が何冊も積まれていた。
机の前には専科生が並んでいる。
「これ、今日中にやらないと駄目?」
「二週間あるから急がなくていいよ。終わったら次の人に回してくれれば」
「問題数、多くない?」
「だから二週間」
「途中まででもいい?」
「できれば全部欲しいけど、無理なら書けるところまででもいいよ」
次。
「メルヴィン君、私、もう別の班から声かけられてるんだけど、それでも参加していい?」
「もちろん。僕の班に入りたい人だけを集めてるわけじゃないから」
「じゃあ貰おう」
その次には、冊子を受け取りに来た友人についてきただけらしい学生が、表紙を覗き込んでいる。
「そんな難しいの?」
「お前もやれよ」
「俺、理論じゃないって」
「探索あるぞ」
「じゃあ見るだけ」
どんどん渡っていく。
「順調そうだね」
人が途切れたところでルシアンに声をかける。
「今のところは」
「何冊作ったの?」
「それは内緒」
「なんで?」
「数えても面白くないでしょ」
「別に、面白さを求めて聞いてないんだけど」
ルシアンは次の冊子を揃えている。
「朝、これ貼りに行ってたんだ」
「そうだよ」
「言ってくれれば一緒に行ったのに」
「早かったから起こすの悪いかなと思って」
「俺、そこまで寝起き悪くないよ」
「知ってる」
また学生が来た。
「メルヴィン、探索一冊」
「はい」
ルシアンはすぐそちらに戻る。
その様子を横から見る。
朝にも思ったけれど、やっぱり人が多い。
俺たちの班の助っ人になりたいから来た人もいる。
公開される回答を他の班に見てもらいたい人もいるだろう。
自分の実力を試したいだけの人もいる。
単純に問題が気になって来た人もいる。
友達に渡されたから解く人も、きっと出てくる。
一つの理由で全員が集まっているわけではない。
でも、理由の違う人たちが、同じ冊子を持って帰っていく。
(ルシアン、こういうの本当に上手いな)
俺なら、まずどうやって人を集めるかから考える。
ルシアンはもう、人が自分から来るところまで作っている。
人脈を作るというのは、知り合いが増えるだけではないらしい。
「じゃ、次これ友達に回しとく」
「ありがとう」
冊子を受け取った男子生徒が去っていく。
その背中を見ていて、ふと朝の疑問が戻ってきた。
(……でも)
要項が出た直後に、同じことをしてもよかったのではないか。
入学してから作った人脈は、その時点でもあった。
もちろん今ほどは人が集まらなかったかもしれない。
それでも、何日も先に一人ずつ専科生に話を聞いて回る必要があったのだろうか。
(なんで、先に聞き込みしたんだ?)
問題を作るため。
それもあるだろう。
でも。
さっきルシアンは、助っ人候補だけを集めているわけではないと言った。
「レイン?」
「ん?」
「そこにいるなら、これ押さえてて」
「あ、うん」
積み上がった冊子の端を押さえる。
疑問はそのまま残った。
* * *
数日後。
昼の授業が終わった。
本来なら、この曜日はルシアンと売店に向かう。
以前、エマとリリィと一緒に食べて以来、この曜日だけは四人で売店に寄って、中庭で昼を食べることが続いていた。
けれど。
「またいない」
隣の席を見る。
ルシアンの鞄はもうなかった。
授業が終わる直前に、
『昼、今日も無理。先行ってて』
とだけ言って出ていった。
ここ最近、何度目だろう。
売店に向かう。
入口の前まで来ると、先に二人が待っていた。
「レイン君」
リリィが俺を見つける。
「こんにちは」
「こんにちは」
その隣でエマが後ろを見る。
「あれ? ルシアンは?」
「今日も助っ人探し」
「また?」
エマが呆れたように言う。
「先週もいなかったわよね。助っ人探しも大変ね」
「最近ずっとあんな感じ」
「ちゃんとお昼食べてるの?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
話しながら売店に入る。
棚から昼食を取る。
俺がいつもの肉を挟んだパンに手を伸ばした時、横から同じ方向に手が伸びかけて止まった。
「……あ」
リリィだった。
「どうぞ」
「いや、リリィが取るなら」
「私こっちじゃないよ。レイン君取るかなって見ただけ」
「あ、そっか」
「うん」
「……」
「……」
数日前なら、こんなところで黙らなかった気がする。
先にリリィが別の棚を見る。
俺もパンを取った。
(何で今ので緊張してるんだ)
帝都に出かけた日は、もっと長い時間一緒にいた。
店も回った。
食事もした。
人混みでは手まで繋いだ。
最後には、お互いに楽しかったと言った。
その時は、それで一日が終わるのが惜しいくらいだったのに。
数日経ってから一つずつ思い出す方が、妙に恥ずかしい。
制服の袖の下で、革紐が手首に触れた。
昨日も今日も着けている。
向こうも、着けているのだろうか。
リリィの袖は手首まで下りていて見えない。
見ようとするのも変な気がして、飲み物の棚に視線を移した。
会計を済ませ、中庭に出る。
いつもの長椅子が空いていた。
三人で腰を下ろす。
「今日も三人かあ」
エマが包みを開く。
「一人足りないと変な感じするね」
「来週はいるんじゃない?」
「来週もまだ助っ人探してそう」
「二週間って書いてあったしね」
リリィが言う。
少しだけ間が空く。
俺はパンを一口食べた。
リリィも自分の昼食を開いている。
目が合った。
すぐにどちらからともなく逸らす。
「……ねえ」
エマが言った。
口元がにやけている。
嫌な予感がした。
「何?」
エマは俺ではなく、リリィを見る。
「リリィ、そういえば言ってたよね」
「何を?」
「レイン君とのお出かけ、すっごく楽しかったって」
「エマ!」
リリィの声が一段上がった。
「言ってたでしょ?」
「言ったけど、今言わなくていいじゃん!」
「何で? 本当のことでしょ」
「そうだけど!」
リリィがこっちを見る。
目が合う。
「あの、レイン君。別に変な意味じゃなくて」
「う、うん」
「本当に楽しかったっていう意味で」
「それは分かってる」
「だから、その……」
「俺も楽しかったよ」
「……うん」
リリィの声が急に小さくなった。
エマが何も言わず食事を続けている。
絶対に聞いている。
(これはわざとだ)
俺にでも分かる。
「そういえば!」
リリィが急に鞄を開いた。
「私のところにも回ってきたんだよね」
「何が?」
机代わりに膝の上へ置かれたのは、見覚えのある冊子だった。
表紙に《治癒魔法科用》とある。
「あ、ルシアンの」
「そうそう」
明らかに話題を変えた。
でも助かったので何も言わない。
「リリィもやるの?」
「うん。やってみようかな。せっかくだし」
リリィが冊子を持ち上げる。
「でも難しいよ、これ」
「そんなに?」
「最初の方はまだ分かるんだけど、途中から条件がすごく多いの。負傷者が何人いて、この人はこういう状態で、こっちはこうで、使える時間はこれだけで、って」
エマが横から冊子を見る。
「私も昨日やった」
「もう終わったの?」
「半分くらい」
「じゃあ終わってないじゃん」
「リリィより進んでる」
「私、今日回って来たんだもん」
二人が言い合う。
「ルシアン、総合科なのによくこんなの作れたね」
俺が言うと、エマが頷いた。
「本当にそれ。ルシアン、治癒科の授業受けてないのに。治癒科の私でさえちゃんと考えないと答えられないのばっかりなのよ」
「理論と探索も作ってるんだよね?」
リリィが聞く。
「そうみたい」
「三つとも?」
「うん」
エマが冊子を見下ろす。
「すごすぎない? メルヴィン家って、こういう人ばっかりなの?」
「俺に聞かれても」
「親戚なんでしょ?」
「遠いよ。それに俺が知ってるのはルシアンくらいだし」
「じゃあルシアンがすごいのか」
「それはそうだと思う」
実際、これを三分野分作ったのなら相当だ。
「でもね」
エマが言う。
「治癒科、今これの話ばっかりだよ」
「そんなに?」
「『メルヴィンの試験やった?』って」
「試験って呼ばれてるんだ」
「意見募集なんて呼んでる人、ほとんどいないんじゃない?」
リリィも頷いた。
「私も今日渡された時、『試験回ってきたよ』って言われた」
「ルシアンは試験じゃないって言ってたけど」
「それ無理あるでしょ」
エマが即答する。
「名前書くんだよ? しかも後で全部公開するんでしょ?」
「だから、やらないって子もいるよ」
リリィが言う。
「自信ないから名前出るの嫌だって」
「逆に、絶対やるって子もいるけどね」
「助っ人になりたいから?」
「それもあるみたい」
エマが果実水を一口飲む。
「昨日ね、うちで前から実習が上手いって言われてる子のところに、総合科の学生が来てた」
「もう?」
「うん。まだ回答公開されてないのに」
「何しに?」
「大会の助っ人にならないかって」
「早いね」
「早いでしょ?」
エマがパンを持ったまま俺を見る。
「他にも声かけられた子いるみたい。ルシアンの冊子が回り始めてから、『待ってたら先に取られる』って思う人が出てきたんじゃない?」
「ああ……」
それはありそうだ。
名前付きの回答が公開される。
その時になれば、専科で誰がどういう考え方をするか、今よりずっと分かりやすくなる。
でも、それまで待てば、他の班も同時に知る。
「有名な子は先に声かけた方がいいってことか」
「たぶんね」
リリィが冊子の端を指で揃える。
「逆に、公開されてから決めるって言ってる子もいるよ。総合科の知り合いから聞いた」
「結局、みんな助っ人の話してるね」
「ルシアンが専科回り始めたときより、絶対増えたよ」
エマが言う。
数日前まで、総合科で聞こえていたのは、
『一点引かれるなら取らなくていいんじゃないか』
という話の方が多かった。
今は違う。
誰を取るか。
いつ声をかけるか。
結果を見るまで待つか。
そんな話が増えている。
(やっぱり影響力すごいな)
ルシアンの冊子はまだ回収すらされていない。
なのに、もう人が動いている。
「……ごちそうさま」
エマが包みを畳んだ。
「早くない?」
リリィが聞く。
「そう?」
「いつももう少し食べてるじゃん」
「今日はこれだけ」
エマが立ち上がる。
「あ、そうだ。私、用事あったんだ」
「用事?」
「うん」
「何の?」
「用事は用事」
「今思い出したの?」
「今思い出した」
リリィがじっとエマを見る。
エマは気にした様子もなく鞄を肩に掛けた。
「じゃあ、私先に行くね」
「ちょっと、エマ」
「また後で」
リリィの肩をぽんと叩く。
「頑張って」
「……何を」
「課題ってことにしとく」
エマはそのまま歩いていった。
残された俺とリリィの間に、妙な静けさが戻る。
「……」
「……」
「エマ、分かりやすすぎるね」
俺が言う。
「本当に」
リリィが額に手を当てた。
それで、二人とも少し笑った。
さっきまでよりは話しやすくなった気がする。
リリィが冊子を鞄に戻す。
「レイン君、この後は?」
「研究棟。前の実験の続き」
「魔力を見るやつ?」
「うん。前は途中で器具返さないといけなくなったから」
「今日もリアさんと?」
「リアと、エヴァンと、フェリクス」
「フェリクス?」
「リアが連れてきた二組の人。前はその人の分までできなかった」
「そっか」
リリィは一度頷いた。
「忙しいね」
「大会もあるしね」
「班の練習もこれから増える?」
「たぶん。まだ日程全部は決まってないけど」
「……そっか」
そこで会話が止まった。
リリィが自分の手元を見る。
何か言おうとしているように見えた。
「どうしたの?」
「えっと」
顔を上げる。
「この前、行けなかったところとは別なんだけど、また気になるお店見つけて」
「うん」
「それで……」
一度言葉を切る。
「大会前だから忙しいと思うし、無理なら本当に全然気にしなくていいんだけど」
そこまで聞いて、意味が分かった。
胸が一度、大きく鳴った。
「また、一緒に帝都に行かない?」
「行きたい」
考える前に答えていた。
リリィが一瞬黙る。
「あ」
「……」
「ごめん。すぐ答えすぎた」
「ううん」
リリィが笑った。
「嬉しい」
その一言で、今度は俺が何も言えなくなった。
ただ。
「……でも」
「うん」
「日にちは、ちょっと待ってもらっていい?」
「もちろん」
「班の練習がこれからどれくらい入るか分からなくて。研究もあるから、丸一日空いてるって言える日が今のところ一日くらいしかない」
「じゃあ、その日でも——」
「そこも班練習が入るかもしれないんだ」
「あ、そっか」
リリィの声がわずかに落ちる。
せっかく誘ってくれたのに。
行きたい。
本当に行きたい。
頭の中で予定を探す。
講義。
班練習。
研究棟。
まだ確定していないものも多い。
「あ」
「何?」
「夕方からなら、空けられる日ある」
口にしてから。
(……夕方?)
自分で言って、まずかった気がした。
前回は昼から出かけた。
今度は夕方から。
帝都の中心部は夜になっても人が多いとはいえ、昼と同じではない。
しかも相手は女の子だ。
「……ごめん。今のなしでも」
「どうして?」
「いや。夕方から女の子連れて出るのって、あんまり良くないかなって」
リリィが何度か瞬きをした。
それから、意味が分かったらしい。
「ああ」
「帝都でも夜は昼より危ないだろうし。寮の門限もあるし」
「……いいよ」
「いいの?」
「うん」
リリィは普通に答えた。
「遅くならないようにすればいいでしょ?」
「それはもちろん」
「それに」
リリィが俺を見る。
「何かあったら、レイン君が守ってね」
「絶対守る」
また即答してしまった。
リリィが吹き出す。
「そこも早いんだ」
「だって、それは迷わないでしょ」
「うん。じゃあ大丈夫」
店の話を思い出す。
「でも、その時間だとリリィが言ってた店、行ける?」
「あ……」
リリィも気づいたらしい。
「閉まってるかも」
「じゃあ」
少し考える。
「今度は俺が行くところ考えていい?」
「レイン君が?」
「うん。夕方からでも行けるところ探す」
「魔導具店?」
「……それ以外も探すよ」
「今ちょっと考えたでしょ」
「考えてない」
「本当?」
「一瞬だけ」
「やっぱり」
リリィが笑う。
「じゃあ、お願いしようかな」
「任せて」
言った後で、何も思いついていないことに気づく。
(どうしよう)
夕方から、リリィと楽しめるところ。
魔導具店以外。
考えれば何かあるはずだ。
帝都育ちのルシアンなら、俺より詳しい。
(あとで聞こう)
「そろそろ行かないと」
研究の時間が近づいている。
「うん。引き止めてごめんね」
「全然。誘ってくれてありがとう」
「……うん」
立ち上がる。
中庭の出口まで一緒に歩いた。
そこで行き先が分かれる。
「じゃあ、また後で」
「うん」
リリィが手を上げる。
袖口がわずかにずれた。
淡いベージュの革紐が見えた。
「あ」
「ん?」
「いや、何でもない」
すぐに袖に隠れる。
俺は自分の右手首を見る。
制服の下には、濃い茶色の革紐。
(着けてる)
それだけで、また胸の辺りが落ち着かなくなる。
「レイン君?」
「ごめん。じゃあまた」
「うん。またね」
リリィが治癒科の講義棟の方に歩いていく。
しばらく見送ってから、俺も研究棟に向かった。
石畳を歩く。
(どこ行こう)
夕方からでも行けるところ。
前回とは違うところ。
魔法が見られる場所なら俺は楽しい。
でも、それだけでは駄目だ。
リリィも楽しめるところ。
(ルシアンに聞けば何か知ってそうだな)
帰ったら聞いてみよう。
考えているだけで、次の休みが少し楽しみになってきた。
その一方で。
今日の研究も楽しみだった。
前回はエヴァンだけで終わった。
今度はフェリクスの番だ。
どんな魔法を使うのか、まだ知らない。
州都で何度か会った時にも、フェリクスがまともに魔法を使うところは見たことがなかった。
(やっと見られる)
歩く速度が自然に上がる。
研究棟が見えてきた。
その瞬間。
朝の掲示板がもう一度頭に浮かんだ。
ルシアンの冊子。
二週間。
名前付きの回答。
専科で始まっている競争。
そして、その前に何日も続けていた聞き込み。
(……結局、あれは何なんだろ)
助っ人を探す。
それだけなら、説明はつく。
でも、全部が綺麗に繋がった感じはまだしない。
次のリリィとのお出かけのこと。
これから見るフェリクスの魔法。
ルシアンが何を考えているのか。
気になるものが、また三つ増えた。
研究棟の扉を開ける。
まずは一つ。
今日は、フェリクスだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
感想や評価をいただけるととても励みになります。お気軽にお寄せください。
次話もお楽しみ頂ければ幸いです。よろしくお願いします。




