第五十九話「始業の朝」
鐘の音で目が覚めた。
「……ん」
眼を開く。
見慣れない天井。
一瞬だけ、ここがどこだったか分からなくなる。
そのまま数秒。
隣のベッド。
机。
椅子の背に掛けた濃紺の制服。
そこまで見て、思い出した。
(学院だ)
身体を起こす。
窓の外は、もう明るくなり始めていた。
薄い朝日が部屋へ入り、机の上に置いた学院案内と時間割を照らしている。
今日から。
授業が始まる。
「……」
眠気が一気に消えた。
ベッドから降りる。
顔を洗いに行こうとして。
「んー……」
隣から声がした。
見る。
ルシアンが布団の中で寝返りを打った。
「ルシアン」
「……何」
「朝だよ」
「知ってる」
「起きないの?」
「あと少し」
「昨日、食堂は鐘が鳴る十五分前くらいから混むって言ってたけど」
「……」
返事がない。
「ルシアン?」
「自分で集めた情報に起こされるの、嫌だな……」
「知らないって.....」
布団の端から、茶色い髪だけが出ている。
「昨日、朝から走りたくないって言ってたのもルシアンだよ」
「言った」
「じゃあ起きれば?」
「レイン」
「何?」
「朝から元気だね」
「今日から授業だもん」
「それは知ってるよ」
布団の中から腕だけが伸びた。
机の方を探る。
当然、何も届かない。
「時間割取って」
「自分で取れるでしょ」
「取ってくれたら起きる」
「本当に?」
「多分」
「多分って」
仕方なく紙を取って渡す。
ルシアンは布団から片目だけを出し、それを見る。
「……最初は三組の教室か」
「昨日も確認したよ?」
「確認は何度してもいいんだよ」
「だったら起きて確認しなよ」
「分かった分かった」
ようやく身体を起こした。
髪がひどい。
昨日までの穏やかで整った姿とは、やはりだいぶ違う。
「髪」
「後で直す」
「すごいことになってる」
「レインは寝癖つかないの?」
「つくけど」
自分の髪へ触れる。
多分、今も少し跳ねている。
「じゃあお互い様だよ」
「ルシアンの方がひどい」
「朝から勝負しなくていいよ」
そんなつもりはないのだが。
俺は着替えを手に取った。
***
濃紺の学院服に袖を通す。
前合わせを留め、襟を整える。
銀線は一本。
昨日の入学式とは違い、今日は正装用の学院外套を羽織らない。
腰に黒革の魔導帯を巻けば、それだけでずいぶん身軽に感じた。
鏡を見る。
「……よし」
「昨日もそれしてなかった?」
横から声が飛んできた。
振り返る。
ルシアンも着替え終わっていた。
さっきまで好き勝手に跳ねていた髪も、もう綺麗に整っている。
「早くない?」
「何が?」
「さっきまで寝てたのに」
「慣れてるから」
ルシアンが鞄へ筆記具を入れていく。
動作に迷いがない。
俺は机の上を見る。
時間割。
学院案内。
筆記具。
ノート。
指定された教本。
昨日の夜に準備してある。
もう一度確認する。
「ルシアン、時間割入れた?」
「入れた」
「教本は?」
「入れた」
「学院案内」
「ある」
「筆記具」
「あるって」
ルシアンが俺を見る。
「遠足?」
「忘れ物したくないし」
「そうだけど」
俺も鞄を閉じた。
一度持ち上げる。
「うお」
少し重い。
「……教本ってこんな多いのかな?」
「今日は説明だけの科目もあるみたいだから、全部持たなくてもいいと思うよ」
「でも使うかもしれない」
「その理屈だと毎日全部持ち歩くことになるよ」
「……」
確かに。
迷った末、午後に使わないものを二冊抜く。
少しだけ軽くなった。
「行く?」
「ああ」
部屋を出る。
廊下には、すでに何人もの学生がいた。
寮の外に出る。
一年生らしい学生は、俺たちと同じように鞄を持ち、手元の紙を見ながら歩いている。
「食堂ってこっちだよね?」
「......どっちだっけ」
まだ、地図なしでは厳しそうだ。
「案内図見よっか」
「俺も」
少し先では、三人組が早速立ち止まっていた。
その横を、銀線が二本入った上級生があくびをしながら通り過ぎる。
一年生とは明らかに違う。
迷わない。
足も止めない。
何人かで話していても、自然に人の流れを避けて歩いていく。
(慣れてるな)
当たり前なのだろう。
でも、去年まではこの人たちも、同じように迷っていたのかもしれない。
「おはよう」
急に声がした。
ルシアンが振り返る。
「あ、おはよう」
声を掛けてきたのは、同じ一年生らしい男子生徒だった。
「昨日ありがとう。あの後、ちゃんと場所分かったよ」
「それなら良かった」
「じゃあ、また」
「うん。また後で」
男子生徒が去っていく。
俺はその背中を見る。
それから、ルシアンを見る。
「誰?」
「昨日話した人」
「名前は?」
「ハンス」
「何科?」
「魔法工学科」
「……」
昨日。
『一年生とか。上級生とか。寮の人とか。食堂の人とか』
そんなことを言っていた。
本当に覚えているらしい。
階段を下りる。
「あ、ルシアン」
また声。
今度は二人組だった。
「おはよう」
「おはよう。早いね」
「食堂が混むって聞いたから」
「正解だと思う」
「じゃあまた」
すれ違う。
「今のは?」
「昨日、食堂で話したカールとヨナス」
「科は?」
「一人が行政・法務科。もう一人は資源探索科」
「……」
「何?」
「いや」
昨日。
三組だけで十人くらい名前を覚えたと言っていた。
どうやら、それ以外にも普通にいるらしい。
「ルシアン」
「うん?」
「昨日、何人と話したの?」
「数えてない」
「十人くらいって言ってなかった?」
「あれは三組の人」
「三組だけ?」
「うん」
「……すごいね。ほんとにずっと喋ってたのか」
「だから、そう言ったでしょ?」
***
学生食堂へ入る。
「……もう結構いるね」
まだ早いと思っていた。
それでも、長机のいくつかはすでに学生で埋まっている。
昨日の昼とは少し雰囲気が違った。
眠そうな顔でパンを齧る学生。
教本を開いたまま朝食を食べている学生。
友人らしい相手と今日の予定を確認している学生。
窓際では、上級生が片手で果実水を飲みながら、もう片方の手で紙に何かを書き続けている。
朝なのに。
もう学院が動いている。
「こっち」
ルシアンが迷わず列へ向かう。
「今日は短い方でいいの?」
「朝はほとんど決まった料理しか出ないみたい」
「それも昨日聞いたの?」
「聞いた」
「誰に?」
「食堂の人」
「……そう」
もう驚かないことにした。
盆を受け取る。
焼いたパン。
卵。
薄く切られた燻製肉。
野菜のスープ。
果物。
量は昨日より控えめだ。
それでも朝食としては十分に多い。
空いている席を探す。
「あそこ」
ルシアンが先に見つけた。
長机の端。
向かい合わせで座る。
「いただきます」
パンをちぎる。
焼きたてなのか、まだ少し温かい。
一口。
「うまい」
「昨日も最初にそれ言ったね」
「うまいものはうまいから」
「まあ、分かるけど」
ルシアンもパンを食べ始める。
俺はスープを飲みながら、周囲を見た。
学生。
学生。
学生。
昨日も同じ食堂へ来たはずなのに、朝だとまた違って見える。
何人かは腰に杖を下げている。
細い工具箱を抱えた学生もいる。
大きな筒を椅子へ立て掛けている者。
何冊もの本を縄でまとめて持っている者。
同じ制服を着ているのに、持っている物はかなり違う。
襟元の銀線も一本から四本まで混じっていた。
俺の視線は、自然とあちこちへ動く。
「楽しそうだね」
「ん?」
「昨日の入学式でもそんな顔してた」
「また?」
「また」
「普通に見てただけだよ」
「それでそんなに首動く?」
言われて止める。
「……そんなに?」
「さっきからずっと」
「色々いるから」
「学生が?」
「それもあるけど」
少し離れたところに、見慣れない器具を鞄へ取り付けている学生がいる。
あの形は何に使うのだろう。
その向こうでは、二人が同じ教本を覗き込みながら何かを議論している。
題名までは見えない。
「昨日まで、学院って建物の方が大きく見えてたんだけど」
「うん」
「人が入ると全然違うね」
ルシアンが周囲を見る。
「まあ、四千人いるからね」
「全員が違うことしてる」
「そりゃそうでしょ」
「分かってるけど」
分かっていた。
魔法理論科。
魔法工学科。
治癒魔法科。
軍事魔法科。
資源探索科。
行政・法務科。
総合科。
名前なら全部知っている。
けれど。
知識として知っているのと、目の前でそれぞれの学生が朝食を食べ、道具を抱え、今日の授業について話しているのを見るのは違った。
(この全員が、何かを学びに来てるんだよな)
そう思うと。
やっぱり高揚する。
「レイン」
「何?」
「スープ冷めるよ」
「……あ」
食事へ戻った。
ルシアンが笑っている。
「本当に忙しいね」
「何が?」
「朝飯食べながらでも、見るものが多くて」
「......」
「四年もあるんだから、ゆっくり見ればいいのに」
「四年しかないんだよ?」
「……」
ルシアンの手が止まった。
「何?」
「いや」
少し笑う。
「やっぱりレインって変わってるね」
「昨日から何回言うの」
「多分、これからも言うと思う」
「やめてよ」
「努力はする」
ちょうどその時。
「ルシアン!」
また声が飛んできた。
今度は女子生徒だった。
濃紺の制服。
襟の銀線は一本。
一年生だ。
手には教本が数冊。
「昨日言ってたやつ、先生に確認したら大丈夫だった」
「本当?」
「うん。申請だけ先に出せばいいって」
「ありがとう。助かった」
「こっちこそ。それじゃ」
彼女が去っていく。
俺はパンを持ったまま、ルシアンを見る。
「昨日話した人」
「それはもう分かった」
「治癒魔法科の子」
「名前は?」
「エマ」
「何の話?」
「図書館の貸出冊数」
「治癒魔法科の人に聞くこと?」
「たまたま図書館で会ったから」
「……」
本当に。
一日で何人と話したのだろう。
「何?」
「ルシアンって、知らない人に話しかけるの平気なんだね」
「そう?」
「俺なら、用がなかったら話しかけないかも」
「でも用があったら話すでしょ?」
「それはそうだけど」
「じゃあ一緒だよ」
「違う気がする」
「気のせいじゃない?」
絶対に違う。
だが。
うまく説明できない。
「レインはさ」
「ん?」
「知らない魔法があったら見るでしょ?」
「見る」
「何の魔法か気になったら?」
「聞けるなら聞く」
「僕も同じだよ」
「……人に?」
「うん」
ルシアンが当たり前のように頷いた。
「話してみないと分からないことって多いから」
「それで昨日、ずっと話してたの?」
「まあね」
一瞬。
昨日、地図に何かを書き込みながら歩いていたルシアンを思い出す。
人の流れ。
食堂が混む時間。
図書館の利用方法。
授業。
三組の学生。
昨日のルシアンは、建物を見るついでに人と話していたのではない。
もしかすると。
ルシアンにとって、人と話すこと自体が、学院を見ることだったのかもしれない。
(俺とは全然違うな)
俺が学院へ来て最初に見ていたのは、魔法だった。
ルシアンは、それが人なのだろう。
「何?」
「いや」
今度は俺が笑った。
「お互い様だなと思って」
「また?」
「また」
***
食事を終えて席を立つ頃には、食堂はかなり混み始めていた。
「……本当だ」
「何が?」
「十五分前くらいから混むって話」
入口を見る。
さっきまで余裕のあった列が、もう倍近く伸びている。
空いていた長机にも学生が次々座っていた。
「だから言ったでしょ?」
「昨日聞いた話だけどね」
「情報は、使った人のものだよ」
「誰かの言葉?」
「今考えた」
食器を返す。
食堂を出ると、歩いている学生の数も明らかに増えていた。
同じ制服。
同じ学院章。
けれど、向かう先はそれぞれ違う。
俺たちも人の流れへ混ざった。
「教室、分かる?」
「昨日確認したよ」
「昨日は地図が悪いって言ってなかった?」
「今日は大丈夫」
本当に大丈夫だろうか。
少し不安になった。
歩きながら、俺も時間割を見る。
最初は総合科三組。
今日は授業に入る前に、クラスごとの説明がある。
「レイン」
「ん?」
「前見て」
「あ」
危うく前を歩く学生にぶつかりそうになった。
避ける。
「すみません」
「時間割見ながら歩くの危ないよ」
「そうだね。ただ、やっぱり気になっちゃって」
ずっと待ち望んでいた学院での授業が、今日始まるのだ。
時間割を畳んで鞄へ戻した。
視線を上げる。
昨日までとは違い、建物の入口には授業案内の札が出ていた。
学生たちがそれを確認し、次々と中へ入っていく。
扉の前で立ち止まる一年生。
迷わず通り過ぎる上級生。
階段を駆け上がる学生を、教師らしき人物が呼び止めている。
鐘が鳴る。
まだ授業開始ではないらしい。
それでも、その音を聞いた一年生の何人かが急に歩く速度を上げた。
急いだほうがいいのか?
「まだ時間あるよ」
ルシアンが言う。
「分かってる」
「走ろうとしてた?」
「してない」
「今ちょっと速くなったけど」
「周りにつられただけ」
「レインって案外そういうところあるんだね」
「どういうところ?」
「ちゃんと緊張するところ」
「するよ。普通に」
「良かった」
「何が?」
「昨日から魔法見て喜んでばっかりだから」
「俺を何だと思ってるの」
俺だって緊張くらいする。
今日は。
初めて教室へ入る。
初めてクラスの全員と顔を合わせる。
今まで名前しか知らなかった三十人以上の学生と。
これから一緒に学ぶ。
そう考えると。
少しだけ落ち着かない。
不安。
というほどではない。
でも。
(何話せばいいんだろうな)
ルシアンとは偶然隣になり、向こうから話しかけてきてくれた。
昨日の食堂でも、基本的にはルシアンとしか話していない。
同年代の集団へ自分から入っていく経験はほとんどなかった。
魔法の話ならできる。
授業の話もできる。
でも。
最初の一言は?
「レイン」
「何?」
「難しい顔してるけど、教室はこっちで合ってるよ」
「それは分かってるよ」
「じゃあ何?」
「……何でもない」
「そう?」
ルシアンはそれ以上聞かなかった。
ありがたいような。
少し気になるような。
しばらく歩く。
「ルシアン!」
「おはよう!」
「あ、おはよう」
まただ。
今度は三人。
全員一年生。
「昨日の話、結局どうなった?」
「まだ分からない。今日先生に聞いてみるよ」
「分かった。頼む」
「僕が聞けなかったら自分で聞いてね」
「分かってるって」
そのまますれ違う。
俺は数歩歩いてから聞いた。
「今の三人は?」
「一組の人たち」
「三組じゃなくて?」
「うん」
「他の組の人とも、もう話してるんだ」
「そう」
ルシアンは、昨日一度話しただけの人間の名前も所属も覚えている。
それだけではない。
向こうもルシアンを覚えている。
しかも普通に声を掛けてくる。
メルヴィン家だからといって、躊躇う様子もない。
昨日一日の俺を考える。
何人かとすれ違った。
受付の上級生と話した。
大講堂でルシアンと話した。
終わり。
「……」
「どうしたの?」
「俺、学院に来てから全然人と話してないなって」
「僕とは話してるじゃない」
「ルシアンしかいない」
「これから増えるよ」
「そう......だといいな」
「大丈夫だよ。三組だけでも三十人以上いるんだから」
「全員と話す?」
「そのうちね」
「ルシアンなら今日中にやりそう」
「さすがに無理だよ」
「本当に?」
「……多分」
少し間があった。
「できそう」
「僕を何だと思ってるの?」
なんだか笑えてきた。
さっきまで少しだけ感じていた緊張が薄くなった。
***
「……ここだ」
扉の横に札が掛かっている。
《総合科一年 三組》
何度か確認する。
扉の向こうから声が聞こえる。
もう何人もいる。
話し声。
笑い声。
椅子を引く音。
昨日、大講堂で聞いたものより、心なしかずっと近く感じる。
俺は扉へ手を掛けた。
そこで。
ほんの少し止まる。
「開けないの?」
「開けるよ」
「緊張してる?」
「……うん」
「へえ」
「何」
「ちゃんと言うんだなと思って」
「緊張くらいするって言ったでしょ」
「じゃあ、一緒に入ろうか」
「別にそこまでじゃない」
「はいはい」
扉を開ける。
教室の中。
十数人ほどの学生がいた。
立って話している者。
すでに席へ座って本を読んでいる者。
窓の外を見ている者。
昨日、大講堂で見た顔もいくつかある。
扉が開いたことで、何人かがこちらを見た。
「あ、ルシアン」
「おはよう」
「おはよう」
「昨日ぶり」
早速。
何人かがルシアンへ声を掛ける。
「……」
「レイン?」
「いや」
ルシアンが教室へ入る。
俺も続いた。
少しして。
今度は、別の視線を感じた。
「あれ……」
「アストリア?」
「特別選抜の?」
小さな声が聞こえる。
何人かと眼が合う。
思わず姿勢を正した。
昨日までは。
掲示板に書かれた名前だった。
俺にとっても。
相手にとっても。
それが今日から。
同じ教室で。
同じ授業を受ける。
「レイン」
少し先から、ルシアンが手を上げた。
「こっち空いてるよ」
「ああ」
鞄を持ち直す。
知らない顔ばかりだ。
まだ名前も分からない。
どんな魔法を使うのかも。
何が得意なのかも。
どんな人なのかも。
だから。
少しだけ口元が緩んだ。
(まずは、名前からだな)
俺は総合科三組の教室へ、足を踏み入れた。
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