第五十七話「入学式」
椅子の背に掛けていた黒紺の学院外套を手に取る。
背には、開かれた書物と、その奥にそびえる塔を象った学院紋章が銀糸で大きく刺繍されていた。
昨日着てみた濃紺の立襟制服の上から羽織る。
鏡の前で襟を整えると、肩に少しだけ重みが増した。
襟元には一本の銀線。
一年生の印だ。
「……よし」
もう一度だけ襟を指で直す。
昨日は制服を着ただけで妙な感じがしたのに、今日はその上から式典用の外套まで羽織っている。
いよいよ入学式だ。
机の上に置いていた案内書を手に取り、部屋を出た。
廊下はすでに騒がしかった。
同じ黒紺の外套を着た新入生たちが、次々と階段へ向かっている。
背中に銀糸の学院紋章が並び、歩くたびに朝の光を反射していた。
「大講堂ってこっちで合ってるよな?」
「昨日迷ったけど確認したから、たぶん」
「たぶんって大丈夫かよ」
前を歩く二人の会話が聞こえた。
少しだけ安心する。
昨日迷ったのは俺だけではないらしい。
寮を出る。
朝の空気はまだ涼しく、芝地には薄く露が残っていた。
昨日は好き勝手な方向へ歩いていた学生たちが、今日は皆同じ場所を目指している。
黒紺の外套の列が石畳を埋め、その流れがいくつもの寮棟から伸びて、一つになっていく。
俺もそこへ混ざった。
やがて、大講堂が見える。
昨日見た時も大きいと思った。
けれど、正面の長い階段を学生たちが埋め尽くしている光景を見ると、さらに大きく感じる。
左右に開かれた扉から、何百人もの学生が次々と中へ吸い込まれていく。
(本当に千人も入るんだな)
俺も列に続いた。
入口では数人の職員が名簿を持って立っていた。
「所属と氏名を」
「総合科三組、レイン・アストリアです」
職員の指が名簿の上を動く。
一瞬だけ止まった。
昨日の受付と同じだった。
「確認しました。総合科は中央区画です。三組は右側の列へ」
「ありがとうございます」
指示された扉をくぐる。
そして。
「……広い」
思わず立ち止まりかけた。
昨日は外からしか見ていなかった。
大講堂の内部は、想像していた以上に広かった。
緩やかに傾斜した座席が扇状に広がり、その先に高い壇上がある。
天井は遠い。
何本もの太い柱が二階の回廊を支え、そのさらに上には細長い窓が並んでいる。
そこから差し込んだ朝の光が、黒紺の外套を着た学生たちの上へ落ちていた。
様々な音が重なっている。
椅子を引く音。
誰かを呼ぶ声。
緊張したような笑い声。
それらが高い天井へ昇り、低く響いて戻ってくる。
昨日の学院は、ただ広かった。
今日の学院は、生きている。
そんな感じがした。
俺は案内に従い、総合科三組の席へ向かう。
座席は学科と組ごとに大まかに分けられているらしい。
三組の区画には、すでに半分ほどの学生が座っていた。
当たり前だが、知っている顔などいなかった。
(この人たちと同じクラスか)
昨日、掲示板で見た名前の一つ一つに、ようやく顔がつき始める。
空いている席を見つけて座った。
右隣には、茶色い髪の男子生徒が座っている。
整った顔立ちだが、どこか柔らかい雰囲気があった。
緑色の眼がこちらを向く。
目が合った。
互いに軽く会釈する。
それだけだった。
まだ名前も知らない。
それが、なんとなく新鮮だった。
領地にいた頃、俺の周りにいる人間のほとんどは、最初から俺が誰なのかを知っていた。
ここでは、そうではない人間がいくらでもいる。
もちろん、名前を聞けば分かる者もいるだろう。
昨日の掲示板に《特別選抜》とまで書かれていた。
それでも今は、ただ同じ制服を着た一年生として座っている。
後方から、急にざわめきが大きくなった。
何人かが入口を振り返る。
俺もつられてそちらを見る。
一人の男子生徒が入ってきた。
長身。
濃い銀髪。
赤い瞳。
顔立ちもかなり整っている。
だが、それ以上に目についたのは姿勢だった。
背筋を伸ばし、迷いなく歩いている。
どこへ座るのか、誰の横を通るのか、最初から全部決まっているような足取りだった。
「あれ、ヴァレリウスだ」
少し離れた席から声が聞こえた。
「アルドリック・ヴァレリウス?」
「入試首席の」
「実技が凄かったらしいぞ」
(あれが)
名前は知っている。
帝国三大貴族の一角、ヴァレリウス公爵家。
帝国の軍事を長く担ってきた家だ。
アルドリックは一組の席へ向かい、そのまま腰を下ろした。
すぐに何人かから声を掛けられている。
一人ずつ短く返しているようだが、愛想を振りまくわけでも、偉そうに振る舞うわけでもない。
それなのに自然と周囲に人が集まっていく。
(首席か)
気になった。
正直、かなり。
俺は通常の入学試験を受けていない。
だから、同じ試験を受けていたら自分が何番だったのかは分からない。
分からないからこそ、余計に知りたくなる。
同じ十四歳。
同じ総合科。
その中で首席を取った人間。
どんな魔法を使うのだろう。
実技で何をしたのだろう。
自分と戦ったら、どうなるのだろう。
考えていると、今度は二組の辺りで人が動いた。
金色の髪が見えた。
一人の女子生徒が、二組の席へ向かっている。
光を受けた髪が、歩みに合わせて綺麗に揺れた。
琥珀色の瞳。
白い肌に、整った目鼻立ち。
周囲にも容姿の整った貴族の子女は何人もいる。
それでも、その中で自然と目が向いてしまうほど綺麗な顔をしていた。
華やかな容姿に反して、立ち居振る舞いには落ち着きがある。
アルドリックと同じく背筋を伸ばして歩く姿には、幼い頃から礼儀作法を身につけてきたことがそのまま出ているようだった。
「リア・セリウスだ」
「次席の?」
「首席と僅差だったらしい。魔法理論がほぼ満点って聞いた」
(セリウス)
こちらも三大貴族。
帝国の魔法研究を長く支えてきた家だ。
リアは二組の席へ入る直前、近くの生徒から声を掛けられた。
足を止める。
穏やかに笑って、短く言葉を返した。
それだけで、話しかけた側の緊張が少し解けたように見えた。
アルドリックとは、また違う。
(次席)
首席と次席。
実技で大きく抜けたアルドリック。
座学、特に魔法理論で抜けたリア。
自然と口元が緩んだ。
まだ知らない。
二人が実際にどう魔法を使うのかも。
どんな術式を組むのかも。
何が得意で、何を苦手としているのかも。
学院に来て、まだ一日。
なのにもう、見てみたいものが増えている。
やがて前方で鐘が鳴った。
低い音が一度、講堂全体へ響く。
重なっていた話し声が、少しずつ小さくなっていった。
壇上の脇から教師たちが入ってくる。
服装は様々だった。
魔導衣を着た者。
軍服に近い服装の者。
杖を持つ者。
手ぶらの者。
同じ学院の教師でも、専門が違うのだろう。
視線が次々とそちらへ動いてしまう。
(あの人は何を教えるんだろう)
肩から細い杖を下げている女性。
腰に何種類もの魔導具を付けた男。
片腕だけ分厚い革手袋をしている老人。
一人ずつ見ていたらきりがない。
その列の最後に、一人の老人が現れた。
白髪。
長い白髭。
穏やかな表情。
ゆっくり歩いているのに、壇上へ出た瞬間、不思議と周囲の視線が集まった。
ルドルフ・アルセイン学院長。
名前は知っている。
帝都中央魔法学院を預かる人物だ。
ルドルフ学院長は演台の前まで来ると、講堂を見渡した。
急いで話し始めない。
残っていた小さなざわめきが消えるまで、ただ待っている。
やがて、静かになった。
「入学、おめでとうございます」
穏やかな声だった。
声を張り上げているようには聞こえない。
それでも、不思議なくらいよく通る。
「今日ここにいる皆さんは、それぞれ違う場所から来ました。帝都で育った者もいれば、何日もかけてここまで来た者もいるでしょう。貴族もいれば、平民もいる。帝国の外から来た学生もいます」
俺は少しだけ周囲を見る。
今は全員、同じ黒紺の学院外套を着ていた。
「もちろん、ここへ来るまでに積み重ねてきたものまで同じになるわけではありません」
ルドルフ学院長が続ける。
「家名も、育った環境も、学んできたことも、皆さんが持つ才能も消えません。それらは、皆さん自身の一部です」
一度、言葉が切れた。
「ですが、それだけで四年間を過ごすことはできません」
何人かが僅かに姿勢を正した。
「昨日までどれほど優秀だったとしても、今日の課題を解くのは今の皆さん自身です。家名が術式を解いてくれるわけでも、強い魔法が知らない知識を補ってくれるわけでもない」
穏やかな声のまま。
言葉だけが、はっきりしていた。
「ここでは、知らないことを学ぶ者が学生です」
知らないこと。
その言葉が妙に残った。
「皆さんの中には、すでに一つの分野で大人を凌ぐ者もいるでしょう。反対に、今日初めて触れる分野もあるはずです」
ルドルフ学院長が講堂を見渡す。
「知らないことを恥じる必要はありません」
そこで、少しだけ微笑んだ。
「四年間で、いくらでも増えますから」
俺も思わず口元が緩む。
(知らないことが、まだこんなにある)
昨日から、それを何度も感じている。
帝都の魔導具。
学院の研究施設。
この場にいる教師。
そして、同い年の学生たち。
俺は、それを知るためにここへ来た。
「帝都中央魔法学院には、古くから一つの言葉があります」
ルドルフ学院長の声が再び響く。
「よく学べ、されば叡智は汝を導かん」
そう言って、学生を見渡す。
「学んだ先に、何を選ぶかは皆さん次第です。研究者になる者もいるでしょう。魔導師、軍人、官僚、職人。あるいは、今はまだ自分でも知らない道へ進む者もいる」
ルドルフ学院長が、一人一人を見るようにゆっくり視線を動かす。
「そのためにも、まずはよく学んでください」
一拍。
「皆さんの四年間が、実りあるものであることを願っています」
拍手が起こった。
前方から始まり、すぐに講堂全体へ広がっていく。
俺も手を叩いた。
長い話ではなかった。
何を目指せとも言われなかった。
ただ、学べと言われた。
それなら。
(やることは山ほどありそうだな)
拍手が収まる。
続いて、教務を担当するらしい教師が演台へ立った。
「続いて、本年度入学者の成績優秀者を紹介します」
講堂の空気が少し変わった。
何人かが一組の方を見る。
俺も自然と視線を向けた。
「帝都中央魔法学院総合科、入学試験首席——アルドリック・ヴァレリウス」
アルドリックが立ち上がる。
周囲の視線が一斉に集まった。
本人は気にした様子もなく、壇上へ向かう。
長身に黒紺の学院外套がよく似合っていた。
教師から証書を受け取る。
一礼。
余計な動作はない。
「同、次席——リア・セリウス」
今度は二組から金色の髪が立ち上がった。
リアが壇上へ向かう。
黒紺の外套に金髪がよく映える。
壇上へ上がり、証書を受け取る。
こちらも綺麗な一礼だった。
二人が並ぶ。
銀髪と金髪。
赤い瞳と琥珀色の瞳。
雰囲気はまるで違う。
それでも、二人ともあそこに立っていることが不思議なくらい自然に見えた。
「……楽しそうだね」
隣から小さな声がした。
「え?」
顔を向ける。
さっき目が合った男子生徒が、今度は少し笑っていた。
「いや。さっきから壇上見て、すごい嬉しそうだから」
「そんな顔してた?」
「してた」
「……そうか」
前を向く。
少し恥ずかしい。
「ヴァレリウスとセリウスが気になる?」
「うん」
「首席だから?」
「それもある」
首席と次席。
同じ総合科に入る以上、気にならないと言えば嘘になる。
俺は通常試験を受けていないから、今のところ二人と同じ順位表にすら載っていない。
だからこそ、自分がどこまで通じるのかは知りたかった。
「でも、それよりどんな魔法を使うのか見てみたい」
「そっち?」
「そっちも」
男子生徒が一瞬黙った。
それから、声を抑えて笑った。
「両方なんだ」
「順位だって気になるよ」
「結構、負けず嫌い?」
「……かもしれない」
自分でも少し笑った。
首席だから気になる。
次席だから気になる。
それも本当だ。
けれど、順位だけなら数字を見れば終わる。
俺がもっと知りたいのは、その先だった。
何を考えて。
どう魔法を使って。
何ができるのか。
自分にできないことを、どんな形でやってみせるのか。
早く見てみたい。
壇上からアルドリックとリアが降りていく。
その途中。
「特別選抜のアストリアは?」
少し離れた場所から、小さな声が聞こえた。
「通常試験は受けてないだろ」
「じゃあ順位はないのか」
いくつかの視線が動いた。
その一部がこちらへ向く。
(やっぱり気づかれてるか)
昨日、掲示板にわざわざ《特別選抜》と書かれていたのだ。
当然といえば当然だ。
少しだけ居心地が悪い。
けれど、視線はすぐに前へ戻っていった。
俺も壇上を見る。
今は順位がない。
なら、これからだ。
授業。
実技。
試験。
ここでは、いくらでも比べる機会がある。
そう考えると、むしろ楽しみになった。
成績優秀者の紹介が終わる。
その後はいくつかの連絡が続いた。
授業開始の日程。
施設利用の注意。
学院内での規則。
配られた書類にも書いてある内容が多く、聞きながら手元の資料へ目を落とす。
そして。
「最後に、第一学年の皆さんへお知らせします」
教務教師が一枚の紙を持ち上げた。
周囲の空気が少し変わる。
「本年度も、一年生前期総合評価として《新入生競技大会》を実施します」
講堂がざわついた。
(新入生競技大会)
名前だけは事前の資料で見たことがある。
だが、詳しい内容は知らない。
「第一学年については、通常の前期期末試験に代わり、この大会を前期の総合評価として扱います」
ざわめきが少し大きくなる。
「競技方式、班編成、評価方法などの詳細は、後日改めて告知します。今の段階では、大会があるということだけ覚えておいてください」
「班編成?」
「何するんだ?」
「競技って、模擬戦か?」
「総合評価って言ったぞ」
あちこちから小声が聞こえる。
俺も少し前のめりになっていた。
競技方式は不明。
班を組む。
前期の総合評価。
今分かるのは、それだけだ。
(魔法は使うよな)
競技大会なのだから、おそらく使う。
単純な模擬戦なのか。
別の課題があるのか。
実技以外も関係するのか。
考え始めると、いくらでも予想が浮かぶ。
隣から、また小さな笑い声がした。
「またその顔してる」
「……そんなに分かりやすい?」
「かなり」
茶髪の男子生徒が肩を揺らす。
「大会、楽しみ?」
「うん」
「まだ何するかも分からないのに?」
「分からないからじゃない?」
「なるほど」
彼は少し考えるように俺を見る。
「君、結構変わってるね」
「今日初めて話した相手に言うか?」
「今日初めて話したから言えるんだよ」
思わず笑った。
ちょうどその時、式の終了を告げる鐘が鳴った。
教師の指示で、前方の区画から順に学生が立ち上がる。
隣の男子生徒も席を立った。
「じゃあ、また」
「ああ」
名前を聞こうかと思った時には、彼は人の流れへ混ざっていた。
(まあ、また会うか)
座席の位置からして、同じ総合科のはずだ。
明日から授業も始まる。
急ぐ必要はない。
講堂の外へ出る。
朝より高くなった太陽が、学院の石畳を明るく照らしていた。
あちこちで新入生が立ち止まり、さっきの式について話している。
首席。
次席。
学院長の言葉。
新入生競技大会。
学院へ来て二日目。
もう、気になるものがいくつも増えた。
寮へ戻る途中、中央図書館の前を通る。
昨日と同じように、足が止まりかけた。
開いた扉の向こうに本棚が見える。
「……今日はやめとくか」
この後、昨日途中で放り出した荷解きも終わらせなければならない。
それに、同室者もそろそろ来ているかもしれない。
後ろ髪を引かれながら、図書館を通り過ぎた。
男子寮へ戻る。
階段を上がり、自分の部屋の前まで来た。
扉に手をかける。
「……ん?」
鍵を掛けて出たはずだった。
けれど、扉が僅かに開いている。
中から、荷物を動かすような音がした。
昨日まで空だった、もう一つのベッド。
どうやら。
同室者が来たらしい。
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