第13話 九紋龍の師
「申し訳ございません、娘娘(太后様)」
侍女がいなかった事を問いただすと、高宗から「太后と重要な話があるので決して入らぬ様に」と申し付けられ、更に足湯の支度を命じられたとの事だった。
「なるほど、最初から俺の身体が目当てだったか…」
妃にしたいと言ったのは、本気か嘘か分からない。一夫多妻制なのだから、その愛が自分1人だけに向けられるものでは無い事も承知している。
太后は皇帝の母として敬われる立場にあるが、その権力を与えているのも結局は皇帝である。皇帝が本気で妃にすると言えば、重臣らがいくら反対しても武照の時の様にそれが叶ってしまう事になる。
高宗が今夜また来たら、拒む事は出来ずに一線を越えてしまうだろう。そうなれば、もう母子では居られなくなる。
まだ徽宗も生きているのだ。夫からその息子に乗り換えるなど、そんな不義は出来ない。もっとも、未だに徽宗の妻にされた事も実感が無いのだが。
そう言えば徽宗は、1135年に亡くなるのだ。宋国の史書では1137年となっているが、実際は1135年であり、金国から徽宗の死が伝わるまでに2年かかったのが原因で差異がある。今は1134年だから、徽宗が亡くなるまで後1年も無い。
半ば無理矢理に妻にされたが、沢山の愛情と恩を受けたのは間違い無い。単身、金国に乗り込んで、徽宗を助け出そうと思い立った。
俺は垂簾聴政を止め、政権を高宗に返上する旨の書状を書き残すと、深夜を見計らって出奔した。俺が急に居なくなれば大騒ぎとなり、俺の侍女たちが罰せられる事だろう。その為、「侍女らは何も知らぬので罪に問うな」と一文を付け加えた。
徽宗が北に連行されてから、黄龍の姿も見ていない。高宗が立ったが、正当な皇帝は欽宗だと思っているのだろう。付き従って、側で守っているのかも知れない。
身体強化を極限まで上昇させ、城壁を飛び越えた。そして、そのまま走り去った。
「さて、取り敢えず北に向かうかな」
走りに走ると長江が見えて来た。
「そぉりゃあぁぁ!」
水面に右足をつけると、身体が沈むよりも速く左足を前に出し、それを連続で水面を蹴って走った。中南米の熱帯雨林に生息するバシリスクと言うトカゲは、1秒間に20歩も水面を連続で蹴る事によって、河を走って渡る事が出来る。まるで忍者の様なトカゲが生息している。俺はそれに倣って、長江を走り対岸まで渡り切った。
「ひゃっほーっ!」
これはテンションが上がる。文字通り風を切る様な速さで駆け抜け、自動回復は傷だけでなく体力すらも自動で回復する。だから息を切らす事も無く、走って体温が上昇しているのだが、風が気持ち良くて心地良い。
大名府の近くに野狐舗と言う土地があり、宋国の陣屋があった。
「何者だ!?」
俺は武装した兵士に囲まれて、四方から槍を突き出された。俺を囲んだ兵士らは、宋国の兵であったので安堵した。
「ははは、お前たち、朕を知らんのか?太后・花娘子とは朕の事である!」
兵士らは、太后と聞いて困惑した表情を見せた。
「下がれ!無礼者ども。花太后、配下の者が失礼致しました。万死に値します。どうか私に罰をお与え下さい!」
そう言って拝謁した男に声をかけた。
「良い、面を上げよ!」
「感謝致します。万歳、万歳、万万歳」
形式通りの挨拶をして、頭を上げた男の顔を見て目を丸くした。
「王進殿では無いか!?ここで何を?」
俺は駆け寄ると、王進の腕を取って立たせた。
「はい、お恥ずかしい話ですが、兀朮の奴に敵わず追い散らされてしまい、ここで夜営をしていた所で御座います」
「私にそんな格式ばった話し方をしなくても良いわよ?」
「いえ、あなた様は、今生陛下の母君で在らせられます。親しくお声を掛けて頂くだけでも畏れ多い事です」
相変わらず生真面目な堅物ぶりは、健在であったので思わず苦笑した。
「ここにはあなた様のお知り合いが、もう1人おります…」
そのタイミングで挨拶をして来た者がいた。
「花太后、久しくお目通り叶わず不忠者で御座いました。お許し下さい」
そう言った男は、轟天雷・凌振であった。
「おおー、凌振殿まで」
「なにぶん軍中な上に、敗戦の身である為に何のおもてなしも出来ませぬが、酒なら御座います」
そう言って、簡単な宴の席を設けると、俺は他の兵士らにも酒を振る舞う様に指示した。太后だからと言って、自分達だけで酒を酌み交わすのには抵抗があった。
身分が高いからと言って、自分達だけが美味い料理を飲み食いしていれば、配下の者らは上司を恨むだろう。そうなれば、指示にも素直に従わなくなって来るだろう。
俺が前世でサラリーマンだった時、しがない中間管理職だった。部長や課長らは、昭和時代の叩き上げでのし上がって来た人間だから、「俺は部長だぞ!誰に向かって口を聞いてやがる?」と、一々指示するのにも偉そうに怒鳴り散らす奴だった。
俺の同期で同じく係長だった奴は、こんな上司の下で仕事をしているストレスを、更に下の主任や一般社員に対して偉そうに、何かある度に上司と同じく怒鳴り散らしてぶつけていた。
最低だ。最低の一言に尽きる。どいつもこいつもクズばかりで、最低の会社環境だった。俺は自分がされて嫌な事は他人にはしないタイプだったので、部下に偉そうにしたり怒鳴り散らしたりはしなかった。だが、理不尽に怒鳴られながら仕事をする彼らを、見て見ぬふりをして助けなかった俺も最低だ。
だから俺は、偉そうに物を喋る人間が嫌いだ。権威や権力を振り翳す人間が大嫌いだ。
次の日の朝も早いのに、この日は夜通し飲み明かして語り合い旧交を温めた。




