第11話 撒離曷【サリフェァ】
陝西の地を得た金軍は、完顔撒離曷に命じて呉玠を討たせた。撒離曷は「長安と鳳翔から山東へ向かう」と虚報を流し、商州と於州を経て漢陰を抜け、金州へ向かった。
呉玠は慌てて兵を率い、饒風嶺で金軍を防ごうとしたが、撒離曷は間道を通って呉玠軍の背後に回り込んだ。
「何と!間道を抜けて、我が軍の背後に回りよったか!?」
これには百戦錬磨の呉玠も肝を冷やした。撒離曷は才略に秀で、太祖・阿骨打に寵愛されて常に軍中で従っており、阿骨打の側近の1人であった。
阿骨打亡き後は、金国の双璧である粘没喝や斡離不、果ては兀朮の影に隠れてしまったが、金国が抱える名将である。
本当に金国の将の質は高く人材は豊富であり、その金国の南侵を食い止めるべくして戦った抗金の英雄達もまた有能であったが、その気苦労も知れると言うものである。
背後を取られた呉玠は、急いで仙人関へ引き返して守った。
「撒離曷様、仙人関へ攻め込みますか?」
「…いや、関を攻めるには我らだけの軍勢では足りぬ。奴らは仙人関で我が軍を迎え討つのだろう?ではこの隙に、宋の領土を切り取れるだけ切り取ってやろう」
撒離曷は興元を陥し、知府の劉子羽は三泉県の潭毒山に退いて守った。この間にも撒離曷は、数城を陥していた。
「どうだった?」
「ここもダメです。一粒の糧米も残っておりません!」
「クソっ!我が軍を干上がらせるつもりか!?」
宋軍は呉玠の命令で、撒離曷が攻めて来るであろう城を予め予測し、住人と金銀財宝、そして食糧の全てを移していたのである。
「空城など、いくら攻め取っても何の価値も無いわ!!」
撒離曷は、歯軋りして悔しがった。兵糧が尽き、金軍は撤退した。その撤退する撒離曷軍を襲撃した軍勢がいた。八字軍である。
「よく聞け!我が金軍は誇り高い狼であり、宋軍はか弱い羊の群れに過ぎない。羊が何匹集まっても狼を倒す事など出来ない。今我が軍は兵糧は尽き、飢えに苦しんでいる。飢えた狼の前に、食って下さいとばかりに羊の群れが現れたのだ。遠慮するな。飢え死にしたく無くば、奴らから兵糧を奪え!」
腹が減って戦意を喪失していた金兵を、この言葉で息を吹き返させた。食い物を奪え!そうで無ければ、明日にも飢え死にするのは我らだと。金軍は飢えた狼の様に、八字軍に襲いかかった。
怒号と悲鳴が木霊し、血を流していない者は無いほどの激戦となった。八字軍も強かったが、金軍は気迫で上回っていた。例えここで勝てたとしても、宋軍から兵糧を奪え無ければ終わりである。それ故に、最初から金軍の勢いは違っていた。
死に物狂いで兵糧を奪いに来る金兵には鬼気迫る物があり、その勢いに宋軍は飲まれた。これまでほとんど負け知らずの八字軍は大敗し、王彦も重症を負って撤退した。
和尚原(鳳翔府)を守る呉璘も、兵糧が尽きて撤退した。撒離曷は、和尚原を占領した。
「報!八字軍が大敗し、金軍に兵糧を奪われたとの事です」
「兵糧を得たとなれば、金軍は必ずや攻めて来るであろう」
「流石は兄上の慧眼、心服致します。兀朮が和尚原に入ったとの報せです」
「兀朮が和尚原に入ったとなれば、この数日のうちにも攻めて来よう。ここが正念場である。7日か10日、持ち堪えれば金軍は退くに違いない。その時ここに伏兵があれば、金軍を殲滅出来る」
呉璘は鳥肌が立った。用兵とはここまで考えて戦うのだと言う事を、兄から学んだ。数日後、果たして金軍は仙人関に押し寄せて来た。
金軍の動きを読んでいたと言う事は、準備は万全であると言う事だ。押し寄せて来た金軍に火矢を浴びせ、殺した金兵の遺体を回収して煮て作った油を梯子にかけ、火矢で焼いて防いだ。
この仙人関を失えば、宋国は四川(蜀)の地を失う。呉玠と呉璘の兄弟は命を賭し、死力を尽くして防いだ。
呉玠が予測した通り、7日目の深夜に金軍は篝火を強く炊き、攻める気迫を見せて退却した。攻めるぞ!と見せ掛けたのは、追撃を防ぐ為である。
「ふふふ、やはり退却したか兀朮。ここが貴様らの墓場となる」
呉玠は、金軍の帰路を遮断した。
「ぬぬぬ、伏兵か?小癪な!」
金兵は次々と宋軍に討たれたが、誰1人として兀朮に敵する者は無く、撒離曷と共に突破されて逃げられた。
「惜しい…ここまでしても殺せんのか、あの化け物は…」
呉玠は兀朮を取り逃して、天を仰いだ。金国を撃退する事は出来たが、大魚を逃した。無念さで、胸がいっぱいになった。




