第63話 宋国の滅亡
「ううぅ…ひっく…」
俺はひとしきり泣き、葬儀の準備をしなければと思っていると、村人達が集まって来た。話しを聞けば、宋江が村人達に金を払い、予め葬儀の依頼をしていたとの事だ。人に迷惑をかけまいとする宋江らしい最期だと感心し、その気配りが更に俺を泣かせた。
「花娘子、兄貴は?」
息を切らせて現れたのは、呉用と花栄だった。俺は、宋江と李逵が眠る霊室へ案内した。2人の枕元に宋江の霊が現れて、「高俅の為に毒酒を飲まされて死んでしまった。お前達を置いて先に逝った自分を許して欲しい」と言ったそうだ。胸騒ぎを覚えてここへ来る途中に、花栄に会ったと呉用は言った。
「おおぉぉぉ、兄貴…」
「兄貴…何故、私では無く李逵だけを連れて逝かれたのだ?私は、来世でも貴方の軍師となりましょう」
「ダメよ!貴方達は死んではダメ!お願いだから、これ以上、私の前で死んだりしないで…」
「花娘子、それは出来ない相談だ。私はもう兄貴以外の誰かの為に、策など立てる事は出来ない」
「俺も同感だ。兄貴は、この国を少しでも良くしようと力を尽くして来た。それなのに、その報いに対してこの仕打ちだ。俺も、もう兄貴以外の為に戦う気力が無いんだよ」
2人とも、宋江の後を追って死ぬつもりでいた。
「いや花栄、お前はダメだ。お前には妻子がいる。後を追うのは、独り身の私だけで良い」
「呉軍師、ここに来て俺だけ生きるってのは無いでしょう?兄貴のお供は、李逵や呉軍師だけにはさせませんや」
「ちょっと待って!どうして2人共、死ぬ前提で話してるのよ!」
俺は自分が転生者である事、2人が死んだ後に金国が攻めて来て、宋国が滅ぶと話した。
「呉軍師の知恵も、梁山泊で不敗を誇った花栄殿の力も、この国を守る為に必要なのよ。2人共、抗金の英雄となれる器だわ。替天行道と忠義双全を忘れたの!?」
「…もちろん、忘れちゃいないさ。ただ、先程から何度も言っているだろう?もう俺達は、疲れちまったのさ。国に殉じた兄貴がいない宋国に、もう何の未練も無い。生きていたって、兄貴の様に殺されるだけだ。この国に蔓延る奸臣共を排除しない限りな」
俺には2人の説得は無理だった。最期に兄貴と別れを惜しみたいと言い、一刻経ったら開けてくれと霊室から追い出された。
一刻後、霊室に入ると2人は首を吊っていた。何とかして、このバッドエンディングを回避しようと尽力したが、俺は無力だった。結局、誰も救う事は出来なかった。俺は2人の足元に縋り付いて泣き崩れた。そうしていると村人達がやって来て呉用や花栄も、宋江や李逵と一緒に葬ってくれた。
一方金国では、太祖・阿骨打の後を継いだ弟の呉乞買が金の2代目皇帝太宗に即位した。
「ははは。宋の阿呆どもが、自ら首を絞めよるわ」
「宋国で戦力と呼べるのは西兵軍団の他には、梁山泊だけであったものを」
「梁山泊か…強かったな」
「ほんに、強かったわぃ。我らの四太子殿と互角に渡り合った猛者もおったのぅ?」
「…」
「西兵軍団は遥か西方にあり、開封に来るまでは時間がかかろう?よし、朕は決めた!吉日を選び、開封府へ全軍出陣じゃ!!」
「うおぉぉ、待ってましたぁぁ!!」
「女は犯し、男は皆殺しだぁぁぁ!」
「朕が許す!欲しければ、力で奪え!早い者勝ちだ!」
女真族が建国した金国は、国としての体裁を保ってはいたが、その性根は騎馬民族であり、部族間の抗争では勝者が敗者の全てを奪う。財産は勿論、その母も妻も娘も、女は全て自分の妻として奪う。中華圏では男尊女卑の思想が根強く、女は戦利品でしか無く人権など無かったのだ。
梁山泊との戦いで金国には、大きなメリットがあった。それは地図である。開封府までの道のりを記した地図を完成させる事が出来た。これで地の利による不利は無くなったのである。
1125年9月某日、金国は宋国へ侵攻を開始した。斡離不は河北方面から、粘没喝は山西方面から宋に侵入し、瞬く間に華北一帯を征圧した。1126年正月、遂に金軍は首都・東京開封府を包囲した。
「陛下、金に歳幣を約束して講和をするべきです!」
「金などと言う馬飼の番人に過ぎない者らと講和など、大国である我が国には必要ご座いません。陛下、講和など言語道断ですぞ!この開封が簡単に落とされたりしません。籠城し、我が大宋国最強の西兵軍団を呼び寄せて城から打って出、挟撃すれば勝利は間違い無しですぞ!2度と我が大宋国の地を踏めぬ様、北へ追い払いましょうぞ!」
主戦派と講和派に分かれて連日議論して朝廷はまとまらず、剛を煮やした金国は北門に猛攻をかけた。開封府は落城寸前となり、ようやく宋は折れて講和の使者を送った。莫大な賠償金と毎年の歳幣を約束して講和を結び、金軍は北方に引き上げた。金国内でも宋国の広大な土地を、自分達が支配出来るのか?と危惧する声があり、この度は徽宗皇帝の顔を立てて引き上げる事に決めた。
徽宗皇帝は責任を取る形(実際は金国を恐れた為)で退位し、息子の趙桓が欽宗として即位した。皇帝が退位したのだ、敗戦の責任を誰かが取らねば示しがつかない。欽宗は、蔡京と童貫を海南島へ流刑にした。
流刑地への道中で蔡京が亡くなった。人々は、「蔡京が誅殺した宋江らの呪いに違い無い。彼らは自らの手で復讐を遂げたのだ」と噂し合った。実際には蔡京は病死したのだが、生き残りの梁山泊の頭領達は否定しなかった。そうでも思わなければ、死者の魂が浮かばれないと思ったからだ。
欽宗の側近の陳東は、蔡京と童貫の罪が島流しでは緩すぎる讒言し、欽宗はそれを受けて死罪を申し付けた。蔡京は既に死んでいた為に処刑出来ず、人々はこれを嘆き悔しんだと言う。
童貫は海南島へ流刑の途中で、欽宗の特命を受けた御史の張澂によって処刑された。この時の逸話が有名で、童貫の首が固くて斬首すると逆に剣が折れた。部下の剣を借りて斬首したが、やはり剣が折れた。止むを得ず門の敷居を断頭台の代わりにすると、ようやく首を切り落とす事が出来たと記録が残っている。
金国は憤っていた。宋国が何一つ約束を守らない事に対してだ。粘没喝は、怒りを表して太宗に訴えた。
「宋国との盟書には『逃亡者を匿ったり、辺境の民を誘い撹乱させることを許さない』とあります。それなのに宋国は、金国の逃亡・反逆者を招き入れ、手厚く恩賞を与えています。我が金国は繰り返し反逆者の姓名を記した上疏を送り、童貫を通じて要求しました。これに期日を約束し誓書を持って約束しましたが、結果は周知の通りです。何一つ、送られて来てはおりません。盟約が結ばれて1年も経たないうちに、既にこのような有様です。万世に亘って盟約を守る事など、望めるでしょうか?更に、西方の辺境は安定しておらず、山西の諸郡を割譲してしまえば、我が金軍は駐屯・拠点とする場所を失い、今後軍事行動を行うに当たって、持久が困難になる恐れがあります。どうか割譲しない様お願いします」
太宗は、その訴えを受け入れた。先の盟約に基づけば、宋側も山西の地を求めることが盟約違反ではないことを知っており、それゆえに加幣を求めてこれを請願したのである。
金の太祖は寛大にも、加幣を求めずに単独でこれを許した。これは占領した元の遼の領土を宋国に譲ることであり、その目的は友好関係を築くことにあり、その条件は「逃亡者を匿ったり、辺境の民を誘い擾乱させることを許さない」ことであった。
粘没喝は、宋が既に条件の規定に違反しており、盟約を破る行為であると考えたため、山西の諸鎮を再び宋国に割譲することを反対した。同時に、それは金朝の西辺の情勢を固めるという観点からでもあった。
宣和5年(金天会2年、1123年)11月、金軍は張覚を打ち破り、張覚は逃亡して燕山府に潜伏した。金朝は北宋に対し張覚の引き渡しを要求した。後に北末は張覚を殺害しその首級を送り返したが、北宋が金朝の叛将を匿ったこの事件は、金朝が南侵する口実となった。
1126年1月2日、白河と古北口で宋軍を撃破した。その2日後、宋将の郭薬師が降伏して燕山府の防衛線は崩壊し、中山府から派遣された3万の援軍も金軍によって打ち破られた。破竹の勢いの金軍は、1月14日には真定府で宋軍5千を破り、1月22日には信徳府を陥落させた。
西路左副元帥・粘没喝は、1125年12月29日に朔州を攻略し、1月6日には代州を破って1月13日に中山府が降伏し、1月15日に太原府を包囲したが手強くて足止めを喰らった。包囲を解くのは、斡離不が宋と講和したと聞いた後であった。
1126年1月27日、斡離不が率いる東路軍は黄河を渡り、翌日に滑州を攻め落とし、正月に汴京(東京開封府)を包囲した。汴京守御使・李鋼の激しい抵抗により、東京開封府は陥落出来なかった。
2月に入り、康王・趙構(後の高宗)と太宰・張邦昌を人質として太原、中山、河間の3鎮を割譲する事を条件に和睦をした。その間に種師道が西兵軍団10万を率いて開封府に到着した。金軍は一旦和睦したので引き上げる事にした。西兵軍団は表向きは金軍の護衛だが、宋軍はそれを護送と呼んで金軍を犯罪者扱いした。
斡離不が退却する時、種師道の弟である種師中が3万を率いて開封府に到着した。彼が率いる軍を秦鳳軍と言い、西兵軍団の中でも精鋭中の精鋭であった。
種師道は、秦鳳軍3万に斡離不を尾行させて、半数の兵が渡河中に攻めて金軍最精鋭部隊である東路軍の半数を壊滅させる策を立てた。これが成功していれば、北宋の命脈も少しは長らえたかも知れない。
一時は欽宗もこの策に乗って、更に援軍10万を派遣した。しかし朝廷では主戦派を降伏派が上回り、黄河の岸辺に大旗を立てて宋軍がこの旗を迂回して金軍を追う事を禁じ、違反すれば如何なる理由があろうとも処刑すると命じた。
種師道は仕方なく「亡羊補牢」の策を献じて、黄河の両岸に大軍を集結させて駐屯し、金軍が渡河するのを防いで次の「防秋の計」に備える様に進言した。これに欽宗は許可したが、またもや降伏派の大臣である呉敏、唐恪、耿南仲らに「万が一、金軍が来なければ莫大な軍事費が無駄になる」と反対されて押し切られた。それを聞いた種師道は憤慨して倒れ、そのまま病死した。
金軍は潼関を封鎖し、西兵軍団が開封府に来るのを防いだ。開封府を包囲する金軍は15万となり、宋軍は元々の禁軍に加えて西北からの援軍によって30万に達していた。
降伏派の大臣らによって開封府に入る事を禁じられていたが、南道総管・張叔夜と息子の張伯奮、張仲熊だけが勅命に逆らって粘没喝と遭遇し、大小18戦して引き分け、全軍で開封府に突入して入城に成功した。援軍に成功した唯一の例である。
年が明け1127年1月9日、斡離不と粘没喝の猛攻に耐え切れず、遂に開封府は陥落する。上皇となった徽宗と皇帝・欽宗を捕らえて廃位し、ニ帝を庶人とした。そして無理矢理に龍袍(皇帝だけが着る事を許された衣裳)を脱がせた。随行していた李若水は、欽宗の身体を抱く様にして自分の身体で姿を隠し、金人を「犬畜生!」と罵った。
宋人である李若水からすれば、皇帝陛下は尊上で至高の存在であり、対して金人は北狄の蛮族に過ぎず、畏れ多い無礼者共が何と言う事をするのだ?と、この期に及んでも態度は変わらなかった。
宋の将はおろか諸大臣達も恐怖で震える中、李若水は恐れる事なく欽宗に最期まで忠誠を誓っていた。粘没喝は、李若水の忠義と気骨を惜しんで殺すつもりは無く、降伏させようとした。しかし李若水は、罵り続けて態度を変えようとせず、激怒した粘没喝の部下によって喉を切り裂かれて死んだ。
金軍は開封府を略奪し、絹五千四百万匹、大物段子一千五百万匹、銀八百万丁、その他の珍品秘宝など莫大な財物を奪った。更に4月20日、長邦昌を帝として立てて国号を「大楚」とし、傀儡政権を立てた。
金軍は安全の為に、ニ路に分かれて撤退した。一路は斡離不が率い、徽宗、鄭皇后(今は太后)、親王、皇孫、駙馬、公主、妃嬪らを滑州経由で北へ連行した。もう一路は粘没喝が率い、欽宗、朱皇后、太子、宗室および孫傅、張叔夜、秦檜らを鄭州経由で北に連行した。
これには更に教坊の楽工、技芸工匠など数千人も含まれ、男女10万人もの百姓も北に連行された。この歴史的大事件を「靖康の変」と言い、靖康元年が丙午の年であった為に「丙午の恥」とも呼ばれた。
北への連行の道中、皇后や妃嬪達及び女官らは金兵らに犯され、慰み者とされた。彼女達は金に到着し初めこそ後宮に入れられたが、1128年6月には官設の妓楼である洗衣院に入れられて、金の皇族や貴族を客として相手をする娼婦にされた。朱皇后はその境遇に耐えかねて、隙を見て入水自殺をした。
1127年1月、開封府が陥落してニ帝が北に連行された時をもって宋は滅びたとされる。そして、欽宗の弟である趙構が南に逃れて南宋を興し、高宗として測位するのである。




