第12話 韓世忠
童貫が率いる官軍は、梁山泊の対岸で対峙していた。梁山泊には関羽に風貌が似ている朱仝と関羽の子孫である関勝は、やはり先祖である関羽に似て、いずれも劣らぬ美髯公であった。
そしてもう1人、ここに美髯公とも勝るとも劣らぬ美しい髯を携えた美丈夫がいた。筋骨逞しいこの男は、18歳の時に募兵に応じて軍人となった。1105年に西夏が国境を侵犯し、西夏討伐軍に参加して大功を立てた。この男が韓世忠である。
自分よりも若くて早くに出世した岳飛とは仲が悪かったと伝えられているが、それでも金国相手に連戦連勝する岳飛の実力は誰よりも認めていた。
金国は岳飛が手強い為に謀略で抹殺する事を考え、講和派で宰相の秦檜に賄賂を贈って岳飛の誅殺を依頼した。その見返りとして、講和も視野に入れた終戦条約を結ぼうと持ち掛けたのだ。
秦檜によって岳飛が反逆罪で投獄されると、韓世忠は「謀叛の証拠があるのか!?」と秦檜に喰ってかかり、秦檜は「莫須有(有ったかも知れない)」と答え、「莫須有の3文字だけで天下を納得させられると思っているのか!!」と、権勢を誇る宰相の秦檜を恐れる事も無く怒鳴り付けたと言う逸話が残っている。
岳飛は韓世忠と同じく抗金の英雄にして、中華史上最高の英雄として讃えられている。その理由の1つは、圧倒的な強さを誇る金国相手に岳飛が率いる岳家軍だけが不敗を誇っていた事だ。その智勇は並ぶ者は無く、岳飛が無実の罪で陥れられて殺されなければ、北宋が滅ぶ事は無かったと思われているからだ。
もう1つは、自分の命よりも国への忠節を重んじた点だ。岳飛の背中には、母親によって『尽忠報国』と刺青を彫られていた事は余りにも有名だ。幼い頃より男子たる者、生まれて来たからには国に忠節を尽くすものだと母から教え込まれて育った。
1142年、無実の罪で捕らえられた岳飛は、秦檜から賄賂を渡された獄卒2人によって、首に巻かれた縄を左右から引っ張られる縛首によって処刑された。この時岳飛は、朝廷(=国)から死ねと言われて拒めば忠節を全うする事が出来ないと言い、無抵抗だったと言われている。
岳飛を祀る杭州岳王廟には、秦檜夫妻が両手を後ろ手に縛られて檻に入れられている像があり、冤罪で処刑した岳飛に対して秦檜夫妻が赦しを乞う姿を表しているのだが、その像に対して参拝客は唾を吐きかける習慣があったほど秦檜は、永らく民衆から売国奴として恨まれた。
ちなみに水滸伝の物語は、洪信が108星の封印を解く所から始まるが、この時の年は1058年。そして、メインストーリーが始まる王進が東京開封府から逃亡した年は1112年の出来事で、宋江が毒酒を飲まされて死んだ年は1124年なので、水滸伝の物語は実質12年間の物語なのである。
水滸伝はバッドエンディングであり、モヤモヤが収まらない読者の願いは、宋江亡き後の物語が描かれた水滸後伝を生んだ。
岳飛は1122年に宗沢が募兵した義勇軍に参加し、秀でた武勇と知略で軍功挙げて次第に頭角を現して行くのだが、奇しくも梁山泊が招安を受けて遼国と戦うのも1122年だ。
韓世忠は、苦虫を噛み潰したような表情で1人酒を煽っていた。辺りはもうすっかり暗く焚火に若鳥の串焼を炙り、その火に当たって暖を取っていた。
彼は梁山泊を一望出来る山岳に陣取ろうとした童貫に対して、火砲(大砲)の的になるつもりか?と喰ってかかったのだ。梁山泊には、元東京甲仗庫の副使だった凌振がいる。
彼が創り出した様々な火砲は、およそ14~15里(約7~8㎞)もの射程距離を誇り、しかも寸分の狂いも無く正確に狙い定める事が出来るのだ。
「1人ヤケ酒なんて、らしくないじゃないの?」
韓世忠が1人で酒を煽っている所へ、紅い甲冑に身を包んだ女将軍が声を掛けて来た。この女性こそ韓世忠の妻であり、軍師でもある梁紅玉だ。
彼女と韓世忠が婚姻を結んだのは、今から2年前の1120年の事である。1122年の今では、今年で彼女は二十歳となる。祖父の代からの軍人家で育ち、幼少の頃は兄達と共に武芸を学び、父から「この娘が男子であったなら家督を譲ったものを」と嘆いたほど、幼い頃から文武の才に長けていた。
1120年、祖父と父は陥れられて「戦機を誤った」と言う敗戦の罪を擦り付けられて処刑され、梁紅玉と侍女達は妓女として売られた。彼女はその美貌と歌舞音曲に優れ、瞬く間に名妓としての地位を築き「南有梁紅玉、北有李師師(南に梁紅玉、北に李師師有り)」と天下にその名を広く知られる様になった。
ちなみに妓女とは言っても日本の遊郭の妓女とは違い、必ずしも身体を売っていた訳では無い。例えるならば、大金を積んで会えるアイドルであり、またはキャバ嬢と言った趣きでもあり、妓女は歌ったり舞を見せたり琴を吟じたり、客の悩み相談などをして話を聞き、酒の相手をして癒した。勿論、妓女自身が相手を気に入れば、共寝もして肉体関係となる事もあった。
2人は方腊の功労を労う祝宴で出会い、まだ一兵卒に過ぎなかった韓世忠に恋をして、半ば押し掛け女房気味に婚姻を結んだ。
「いや何、猛省しているのさ」
「あら?貴方が素直に物を言うのは、今に始まった事じゃないわよね?三つ子の魂、百までも。フフフ、その性格が治る事は無いわね」
「これでも正しいと思ったら引き下がれない性格は、どうにかしたいと思っているのだ」
「そうね。貴方がもう少し柔らかい言い回しが出来たら、もっと早く出世していたわね」
梁紅玉は韓世忠の隣りに座ると、串に刺されて炙られている鳥の丸焼きを手に取って齧り付いた。軍営だから味付けは塩を振るくらいだが、それでも十分に美味い。紅玉は、炙り肉の足を千切って韓世忠に渡した。
「腹が減っては戦はできぬよ。明日はきっと激戦になるわ」
韓世忠は、美しい妻から差し出された肉に齧り付いた。ジュワッと肉汁が口の中に広がり、程よい塩加減が美味さを引き立てていた。
腹が膨れて満足すると、眠気に襲われウトウトとしかけた時、耳を劈く轟音が鳴り響くと振動で地面が揺れた。それを地震が起こったと思って飛び起きた兵士もいた。
「火砲か…」
軍営は火砲の射程外に陣取っているから心配は無いが、どうやら夜襲を仕掛けて来るつもりだと、兵士を鼓舞して叩き起こした。すると思った矢先から歓声が響き、その声が近付いて来るのが分かった。
「杀!(かかれ!)」
「杀」は「殺」であり、直訳すると「殺す!」とか「殺せ!」とかの意味となるが、突撃の合図としても用いられる為に、ここでは「突撃!」とか「かかれ!」と訳すのが適切だろう。
陣を築く柵の内側から賊軍に対して弩や弓を放ち、近付けさせない様に抵抗した。賊徒の目的は、おそらく兵糧の焼き討ちに来たのだろう。だが兵糧は、全兵士の生命線であり命綱だ。当然、別の場所で守っている。
韓世忠は後に「万人敵」と呼ばれるだけあって、官軍にあって明らかに1人だけ桁違いの強さを見せた。歓声を挙げながら向かって来た賊徒達に、大刀で薙ぎ払うと一撃で数十人が吹き飛んで倒れた。
「ぬうんっ!」
敵の頭領らしき人物を見つけ、打ち掛かると3合で捕えた。その者を助け様とした賊の頭領を、更に2人捕えた。どうやらこの3人は、兄弟らしかった。
「被害状況は?」
「はっ!目下の所は御座いません」
報告を受けている所へ、熊かと見紛う黒い影の塊が突進して来た。身を捩って躱わし、カウンターで大刀の餌食にしようと振り上げると、その大男を守る様にして左右から飛ばされた数本の飛刀を弾いた。
「二挺斧…黒旋風か?」
「けっ!そう言うお前は誰だぃ?人に名を尋ねる時ゃあ、先ず自分の名を名乗るもんだ」
「本来なら賊徒相手に名乗る名など無いが、元官僚も多い梁山泊は別だ。俺は韓良臣(良臣は字)だ」
「へぇ、あんたが韓世忠か。こんな俺でも、あんたの名前は聞いた事がある。腐ったお上に仕えてても、つまんねぇだろう?とっとと辞めちまって、俺らと一緒に酒でも飲まねえかぃ?」
「中々魅力的な話だが、官軍の俺には無理な話だな」
「けっ、関勝や呼延灼の兄貴も最初はそう言ってたぜ?あんたも梁山泊に来りゃあ分かる」
李逵は雄叫びを挙げて突進し、怪力に任せて斧を振り回した。
ガギィーン
鈍い金属音が辺りに響き、剛対剛の戦いが始まった。しかしこれは一騎討ちでは無い。李逵の隙間を縫う様にして李袞が飛刀を投げると、走って来た梁紅玉が「危ない!」と叫んで手にした槍を投げ付けた。
左肩か左胸に受けた李袞は地面に倒れて動かなくなり、それを見た項充が飛刀を20本も繰り出して投げたが、全て剣で払い落とされた。間合いに入られた項充は、団牌(盾)で梁紅玉の剣を防いだが、舞う様な剣捌きを受け切れずに袈裟斬りにされて倒れた。
「李袞!項充!おのれ、よくも!」
渾身の李逵の一撃を大刀で受け、その反動でしなった大刀を蹴り上げて一撃を入れると、李逵の巨体が宙に浮いた。さしもの頑丈な李逵も、これには耐えられず地面に蹲って動けなくなった。
「李逵!立ち上がって退け!」
新たに現れた男は槍棒を携え、その構えから只者では無いと感じた。
「よもや元八十万禁軍教頭(師範)だった林冲殿か?」
「そうだ」
「お主が賊徒に身を寄せた経緯には、同情を禁じ得ない…が、これも役目。相手に取って不足無し、いざ参る!」
振り翳した大刀は、唸りを上げて風を斬った。林冲は軽い身のこなしで、大刀の軌道を逸らした。韓世忠は手首を返して刃を引き戻し、林冲の背後を狙ったが、それも弾かれた。
今度は林冲が槍棒を身体の一部の様に操って連続して突き、突くと見せ掛けて打ち込み、打ち込むと見せて突いた。しかし韓世忠は、その全てを受け流した。
「韓将軍!」
童貫が、兵を連れて駆け付けて来るのが見えた。
「くっ、勝負は後日」
そう言い残すと林冲は、李逵の姿が消えた方向へあっという間に駆けて行った。
「韓将軍、今のは豹子頭では?」
「童元帥、確かに林冲でした」
「ははは、そうか。さすが韓将軍だ。あの元禁軍教頭と互角とはな」
数多いる禁軍教頭の誰もが口を揃えて答える。自分達禁軍教頭の中で、1番の使い手は林教頭だと。
禁軍である彼らの勤めは皇帝を守り、秩序の安定化を図る事にある。つまり皇帝直属の近衛兵だ。それ故に皇帝親征時には、禁軍も軍と共に出陣するのだが、基本的には皇宮からは外に出る事は無い。禁軍は一兵士ですら選び抜かれた猛者が配属され、その彼らに武術を教える教頭(師範)が、どれほど強いのか推して知るべしだ。
韓世忠は豹子頭が去った林道を見つめ、そう遠くない日に再戦する予感を感じていた。




