婚約破棄は鐘の音とともに
「リステルン・リュトムス。お前との婚約を、破棄させてくれないか」
私の前に立つ長身の男性、フリューゲル侯爵家の次男であるところのナハト・フリューゲルは、堅い表情でそう言い放った。
突然の申し出に、私はナハトの精悍な顔をただただ見上げる。唇は何か言葉を紡ごうとはするものの、まるで麻痺したように動かない喉は、あ、とただ掠れた一音を漏らしただけだった。
*
毎月行われる、リュトムス辺境伯領の護国騎士団とフリューゲル侯爵領の氏友軍による合同演習の後、両家の親睦を深める為にいつも開かれるささやかな会食。
「話がある」
ナハトが婚約者である私──リュトムス辺境伯家の長女であるリステルン・リュトムスにそう声を掛けたのは、食事が一段落して和やかな雰囲気が広間に流れていた、そんな折りだ。
黒地に銀の刺繍を施した詰襟の騎士服を着込んだナハトは、長めの漆黒の髪を無造作に流し、深淵の如き闇色の瞳を真っ直ぐに私に向けた。
その妖魔を想起させる夜の色彩から、人はナハトの事を『漆黒卿』と揶揄するけれども、私は彼のその姿が小さな頃から大好きだった。
「何ですか、ナハト様? 改まって」
目の前に差し出された浅黒い大きな手に、私は何の疑いも無さ気に小さな白い手を重ねる。私とナハトは本当にどこまでも正反対だ、と微かな自嘲を浮かべそうになり、穏やかな笑顔で覆い隠した。織り模様の入った淡いラベンダーの生地に白銀のコルセットを合わせたシンプルなワンピースをしゃらりと揺らし、私は出来るだけ優雅な仕草でゆっくりと立ち上がった。
白い炎が揺らめくシャンデリアの光が、虹色にも輝く白く透けた神を神秘的に煌めかせている。きめの細かい白い肌に華奢な身体、低い身長──私は、何もかもナハトとは違うこの身がとても嫌いだった。婚約が決まった頃の私達はまだとても小さくて、でもいつの間にかこんなにも、……。
は、と一瞬物思いに囚われていた自分に気付き、慌てて顔を上げる。ナハトの夜の海のような瞳が、銀とも見紛う淡い菫色の私の目をじっと見詰めていた。
「……ナハト、さま……?」
私の問い掛けにも、ナハトは無言のみを返した。彼は何かを躊躇っている。長く一緒に過ごした私だから判る、些細な表情の変化。
先月に十八歳になったナハトと、先週十六になったばかりの私は、他人から視ればとてもお似合いのことだろう。真っ白な外見から『辺境の真珠姫』などと謳われる私だが、中身はまるで自信の無い、ちっぽけな存在。
近いうちに我が辺境伯家に婿入りし、護国騎士団長を任せられるであろう予定のナハトに、私は見合う存在なのだろうか──最近はずっと、そんな不安ばかりが肉付きの薄い胸を痛めるばかりだった。
……だから、僅かばかりの予感があったのだ。いつかこんな日が来ることを。
*
辺境伯家の堅牢な石造りの屋敷の側、妖魔の棲む荒野に続く土地を護る長い砦と同化するように、その塔はそびえ立つ。
それは今の時代の人間にとって、到底生み出すことの出来ない技術で造られた代物だ。エーテルを利用した魔導機構によって大気中からフロギストンを取り込み、そこから発生したエネルギーによって動かされる巨大な機械は、全て古代の遺産として発掘されたもの。シュンシュンと漏れる熱気が陽炎の如くモヤを立ち昇らせる。ギギ、ギ、と重々しく金属が擦れ、次いでゴウン、ギギ……ガション、と大きな部品が動く音がした。
内部の武骨な作動音とは無関係じみた優雅な面持ちで、塔上部の四方に配された精緻な彫刻の踊る時計の長針が、クン、と星の意匠で飾られた十二の数字を指し示した。
追って厳かな鐘の音が辺り一帯に響き渡る。四つの大きさの違う鐘が奏でる退魔の力を秘めた旋律が、広間の緊張した空気にそっと重なった。
周囲の皆は心配げな面持ちで私達の成り行きを見守っている。誰も動こうとはせず、口を挟もうとする者もいないようだった。
やがて鐘が鳴り止むと同時に、意を決したナハトが口を開いた。
「リステルン・リュトムス。お前との婚約を、破棄させてくれないか」
私は、あ、と微かに息を漏らし、ただナハトを見上げていた。緊張しているのか彼の堅い表情は、まるで私を拒絶するかに思え、自然と私は身を震わせる。
「な、……」
何を、と言おうとして失敗した私の震える唇に、ナハトが痛ましいものを視るような視線を向ける。それがとても遠いものの気がして、私の目には望んでもいないのに涙がこみ上げる。
ナハトは一度眼を伏せた後、何かを吹っ切るかのようにゆっくりと、再度瞼を上げた。月の無い夜空のようなその瞳には、強い意志と一つの決意が込められていて、そして再びナハトは言葉を紡ぐ。
「リース……。──再度、告げる。──俺とお前との婚約を、破棄させて欲しい」
ゆっくりと、しかし念を押すかのようなきっぱりとしたナハトの物言いに、とうとう私の淡色の瞳からはらり、一筋の涙が零れる。
霞んだ視界の向こうで、ナハトの傍にいつの間にか控える女性の姿が映った。すらり背が高く深い紫のドレスと黒銀色のコルセットの女性はヴェールの付いた帽子を目深に被り、顔は見えずとも大人びた雰囲気が、とてもナハトにお似合いのように思えた。
目の前が絶望で暗くなる。信じようとしていた未来が閉ざされた無力感に心は千々に乱れ、そして。
──ふらり、と私は意識を失った。
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お読み頂きありがとうございます。
今のところ、数話で完結する予定です。
スチームパンク(正確には蒸気ではないですが)でファンタジー、そして婚約破棄。ラストにはバトルもある予定です。
よろしければ最後までお付き合いいただけると幸いです。
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