成田賢太郎の日記(5) 六月十四日 (月)
もうすぐ、有紀子さんは退院できる。それを知ったとき、とても嬉しくなると同時に、不安な想いに襲われた。
有紀子さんの体調が戻っているのは心から嬉しいし、安心する。それはずっと望んできたことだから。でも、有紀子さんが退院するということは、あの病室へお見舞いに行けなくなるということ。それはつまり、ボクと有紀子さんが会う機会がなくなるということ。有紀子さんの家は知っているけれど、そこを訪ねるというのはどうなんだろう・・。恋人なのだから問題ないはずなのに、今のボクたちの関係では、それが許されないことにも感じる。だって、有紀子さんはボクのこと覚えていないわけだから。
正直、有紀子さんの退院が延びたと聞いて安心した。正確には、彼女の日記を読んで安心したわけだけれど。ただ、嬉しいのは事実なのに、素直に喜ぶわけにもいかない。退院が延びた理由は頭がクラクラするということだから、事故の影響に違いない。ボクだって、全身を強く打ちつけたくらいだし、打ち所によっては記憶がなくなっていても不思議じゃなかった。
本人が気づいているかわからないけれど、有紀子さんの携帯電話は壊れてしまっている。あの事故のせいで・・。ボクのは無事なのに、有紀子さんに連絡することはできなくなっている。
事故が起きたとき、救急車で病院に運ばれてから、少しずつ状況がわかってきた。有紀子さんは手術というのか、治療を受けていて、ボクの怪我は軽かったから、病院の中で待機していた。その間に刑事さんがやってきて、話を聞かれたりしていた。その次の日も警察へ行かなければならなかったわけで、あの日の会話は無駄だったのかもしれない。混乱していたから、話の内容がメチャクチャだったとか。
それで、事故現場に落ちていた有紀子さんの持ち物を確認させられた。財布とか携帯電話の入ったカバンがつぶれてしまっていて、中身も可哀想な状態だった。そのときに、携帯電話が壊れていることを知って、今まで連絡できずにいる。
そういえば、有紀子さんはお母さんからも何も知らされていないはずだ。お母さんに連絡がいったのは、事故の後、しばらく経ってからだと思う。有紀子さんを特定することはできていたし、ボクが彼女のことは警察に話した。その後で連絡がいったんだと思う。
でも、お母さんに自分の正体を明かすことはできなかった。ご挨拶はしたけれど、恋人であることは伝えていない。だから、お母さんからは何も伝わっていないはずだ。ただ、さすがに、どうして一緒にタクシーに乗っていたのか尋ねられ、何かを答えるしかなかった。そこで、偶然出会って、目的地が同じ方向だったからタクシーを相乗りした、と答えておいた。午後二時過ぎで、駅までは遠い位置のことだし、それほどおかしな説明ではなかったと我ながら思う。
それ以上、詳しい説明は求められなかったのも幸いだった。ボクたちは事故の被害者なのだから、容疑者を追いつめるようには質問されるはずがないか。
どうしてそんな嘘をついたのか、記憶が戻った有紀子さんなら不思議に思うはずだ。だって、ちゃんとしたお付き合いをしていたわけだし。お母さんに説明したって問題はなかった。少し早いというだけのこと。
ただ、有紀子さんがひどい怪我をしているのに、そんな浮かれた話をすることができなかった。娘に恋人ができたと伝えられたら、少なからず驚いたはずだから。それに、お母さんが一人で育ててきてくれたということを聞いていたから、そのお母さんの気持ちを考えると、簡単には伝えられない。喜んでくれるかもしれないけれど、たった一人の娘を奪われたように感じることもあるかもしれない。それを事故の直後に伝えられたら、お母さんに良い印象を与えるとも思えなかった。ボクのせいで事故が起きた、そんなことに結びつけてしまうかもしれなかった。
だから、ボクはそれ以上の説明をしなかったし、説明を求められることもなかった。もし、有紀子さんが退院して、一緒にタクシーに乗っていたボクのことを気にかけたとしても、偶然乗り合わせたと言い通すつもりだ。有紀子さんの記憶が戻って、元通りの関係に戻れたら、そのときはお母さんにも紹介して欲しい。有紀子さんがこの日記を読むとしたら記憶が戻った後なのだから、案外、すでに紹介済みかもしれない。そう思うと、少しだけ元気が出てきた。つらいことが重なって、最近は笑うことも少なくなっていたから。
ただ、大きな問題として、有紀子さんが退院した後のことは悩みの種になっている。最終手段としては、有紀子さんの家へ行き、ボクたちの関係を説明する。
ただ、混乱させてしまうことが怖いし、元通りの関係を修復するのに障害となるかもしれない。それを避けるためにも、まずは違う方法を考えようと思う。きっと、これを読んでいるということは修復できたということだから、ボクがどんな工夫をしたのか、振り返って笑ってもらえると嬉しい。ボクの努力が伝われば、少しは報われるから。
鳴らない携帯電話を何度も確認しながら、有紀子さんが記憶を取り戻す日を待とう。それを諦めるつもりなんて皆無だ。
でも、待ち遠しい! 有紀子さんと話したい! 諦めるな! 成田賢太郎!




