1-9. いつか終わる夢
八日目の朝。食卓にはいつものように二人分の朝食が並んでいる。
蒸した根菜に干し肉に、森で採れた果実。見慣れた食卓をカイウスはいつもより長く眺めてしまう。
向かいではリアが楽しそうに朝食を口に運んでいる。
「今日は何をしましょうか。晴れてるので、川辺までお魚を捕りに行くのもいいですよね」
「ああ……」
「あっ、この前見つけた綺麗な白いお花! 今日は咲いてるかもしれませんね。見に行きませんか?」
リアは今日の予定を次々と口にする。しかし明日の話は決してしない。
カイウスは木杯へ視線を落とした。言わなければならない。黙って消えるなど論外だ。この笑顔を曇らせることになっても、これだけは誤魔化してはいけない。
「リア」
「? はい。どうしましたか?」
「朝っぱらから悪い。少し話を聞いてくれるか」
リアは果実を摘まんだまま小首を傾げる。
「もちろんですよ、カイウスさん。なんでしょう?」
いつもの声に、いつもの笑顔。それがかえって切り出しにくい。カイウスは重い口をなんとか開いた。
「……今日、ノルヴィア村に戻ろうと思うんだ」
リアの指が止まった。摘まんでいた果実が、木皿にころりと落ちる。
「リアのおかげで村まで歩ける程度には回復した。だけど、それだけじゃない」
カイウスはできるだけ穏やかに続けた。
「あの巨狼のことを村に伝えないといけない。手負いになったヤツが人里へ出る可能性もある。一刻を争う事態になるかもしれない。これ以上は放っておけないんだ」
「……そう、ですか」
リアはすぐに笑おうとした。
「そ、そうですよね! もう随分、良くなりましたもんね! よ、よかったです、本当に。カイウスさんが、ちゃんと治って……」
口元は笑っている。けれど目を合わせようとしてくれない。木椀に視線を落とし、匙で中身をゆっくりとかき回していた。
「……リア。あのさ」
「だ、大丈夫ですよカイウスさん! わたし、そんな子供じゃありません」
リアは先回りするように言った。
「最初から分かってましたから。カイウスさんは旅の人です。怪我が治ったら、ちゃんと笑ってお見送りしようって、ずっとそう思ってたんです。だから、大丈夫なんです。……大丈夫じゃなきゃ、いけないんです」
小さな沈黙のあと、彼女の指が木椀の縁で止まった。
「……カイウスさん」
「……ああ」
「すみません。ひとつだけ、我儘を言っちゃってもいいですか」
カイウスは黙って続きを待つ。リアは膝の上で両手を重ね、指をきつく絡ませた。
「……ここに、いてくれませんか? この森で、わたしと、ずっと一緒に」
言い終えた途端、リアの顔がくしゃりと歪んだ。縋ってしまった自分を責めるように、視線が更に落ちる。
「ご、ごめんなさい。わたし、本当に分かってるんです。カイウスさんをこんな所に縛りつけちゃいけないって。でも……」
必死に笑おうとするが、もう上手く笑えなかった。
「わたし、この一週間、本当に楽しかったんです。一緒にご飯を食べて、話して、笑って……誰かと暮らすのなんて、本当に久しぶりで。だから、少しだけ変な夢を見ちゃったんです。明日もカイウスさんがいて、その次の日もいて……こんな毎日が、ずっと続けばいいのにって」
一粒、涙が卓へ落ちた。
「でも、いつか終わるって分かってました。だからそのときは笑って、『ありがとうございました』って……ちゃんと、お別れするつもりだったのに……」
リアは何度も息を整えようとした。
六年間、一人で生きてきたのだ。ただ元の暮らしに戻るだけ——そう自分へ言い聞かせるようだった。
「……でも、そうなったら……明日から、また一人で起きて……カイウスさんの声も、もう……二度と、聞けなくなる……」
リアは俯き、肩を震わせた。涙がもう一粒、頬を伝って落ちる。
「……いやです。そんなの、いやぁ……わたし、もっとカイウスさんと笑ってたい、一緒にいたい!」
リアは咄嗟に唇を噛む。しかしもう言葉は止められなかった。
「お願いです……! わたしをもう一人にしないで……っ!」
言った瞬間、リアははっと息を呑んだ。たちまち後悔が顔に広がり逃げるように口元を覆う。赤い髪がさらりと落ちて泣き顔を隠した。
「……っ、ご、ごめんなさい……」
カイウスは動けなかった。
リアはいつもそうだった。すぐに自分の気持ちを後回しにする。そんな彼女が、初めて自分の願いを口にして縋ろうとした。その事実がどうしようもなく胸を打った。
そんなリアを、この森へ置き去りにするのか。
——それだけはできない。してはいけない。
なぜそう思うのかは自分でもよく分からない。ただ体の奥で、何かがそう叫び続けていた。
カイウスは静かに席を立ち、卓を回ってリアの隣へ行く。
「……ありがとう。助けてくれて、看護もしてくれて。毎日、美味い飯まで作ってくれてさ。本当に感謝してもしきれない。リアがいなかったら、俺はどうなっていたか分からない」
照れくささを隠すようにカイウスは笑った。
「本当のことを言えば、俺もここでの暮らしが好きだったんだ」
リアの肩が小さく揺れる。
「鳥の声で起きて、リアと飯を食って、くだらないことで笑って。そういう暮らしが俺にも昔あったなって、思い出させてもらった」
「……なら」
リアがゆっくり顔を上げる。濡れた目にはかすかな希望が灯っていた。
「なら、ここに……!」
「だけど、村には戻らなきゃならない」
リアの唇がぴたりと止まる。
「あの化け物のことを伝えないと。もし村の誰かが襲われたら、俺は絶対に後悔する」
「……はい」
「でも、だからってリアをここに置いていく必要もないだろ」
カイウスは続ける。
「……え?」
「リア。俺と一緒に来ないか? ノルヴィア村へ」
赤い瞳が大きく開かれる。
「まずは、今回の異変の正体があの巨狼だったと村に伝える。俺がこの目で見たことも、リアが俺を助けてくれたことも話す。そのうえで、六年前に何があったのか、リア自身の言葉で伝えればいい」
「で、でも……わたし、みんなに憎まれてる赤獣なんですよ?」
「そうだな」
カイウスはあっさりと答えた。
「でも俺は、それ以上にリアがどんな人かを知ってるよ」
彼女の目を真っ直ぐ見返す。
「見ず知らずの俺を助けて、怪我が治るまで面倒を見てくれた、呆れるくらいのお人好しだ。人が笑えば自分のことみたいに嬉しそうにして、泣き虫なくせに、誰かのためなら自分が傷つくのも気にしない。そんなリアを誰かに『化け物だ』って言われたくらいで、『はいそうですか』って信じられるか。俺はこの一週間、そんなリアをずっとこの目で見てきたんだから」
「……カイウスさん」
「俺は、リアを信じてる」
出会った日と同じ、迷いのない言葉だった。
「だから大丈夫だ。何も取り繕わなくていい。いつものリアのまま向き合えば、きっと分かってくれる奴はいるはずさ」
カイウスは安心させるように笑った。
「それに、一人でどうにかしろって言ってるわけじゃない。誰に何を言われたって隣にいるし、俺にできることなら何だって手を貸すよ……どうだ?」
リアの唇が震えた。濡れた目がためらいがちにカイウスを向く。彼女の返事を待つ間、カイウスは拳を握った。
頼む、頷いてくれ。もう君を一人にはしたくないんだ。
やがてリアはぐいと目元を拭うと、小さく頷いた。
「……わかりました。わたしも、カイウスさんを信じます。一緒に行かせてください。ノルヴィアへ」
***
二人は朝靄の残る森を歩いていた。夜露を吸った落ち葉が、足元でくしゃりと鳴る。
村へ近づくにつれ、リアの歩幅は少しずつ狭くなった。胸元の小さな布袋を両手でぎゅっと握りしめる。誕生日に祖父から貰ったお下がりだ。これを持っていれば少しは落ち着ける気がした。
「怖いのか?」
「……はい。すごく怖いです」
正直に答えると、カイウスは歩みを止めて振り返った。
「どんな事を言われるんだろう、とか……やっぱり受け入れてもらえないんじゃないか、とか。良くないことばかり考えちゃって」
言葉にすると不安は余計に膨らんだ。このまま際限なく大きくなるんじゃないか。そんなことまで考えてしまう。
「なら俺が先を歩くから、リアは俺の背中だけ見てればいいよ」
「……え?」
カイウスは少し照れたように視線を逸らす。
「それでも前には進めるからさ。いまはそれだけできれば十分だ。……行こう」
彼は先に立ち森の奥へ歩き出す。リアも言われた通りそのすぐ後ろについた。
前を行く背中を見つめるうち、強張っていた口元が自然と綻ぶ。そういえばカイウスの背中をじっと見るのはこれが初めてかもしれない。
(……カイウスさんってスラっとしてるけど、意外と肩幅は大きいんだな)
胸が、とくんと跳ねた。慌てて目を逸らす。けれど気づけばまた彼の背中を追っていた。
(……え? な、なんだろう、これ)
胸のあたりがそわそわと落ち着かない。なのに嫌ではない。むしろもっと感じたいとさえ思ってしまう。
そんな自分がよく分からず、リアは困ったように眉を下げた。
「なあ、リア」
「……え? あっ、はい」
「ノルヴィアは故郷なんだよな。久しぶりに行ってみたい場所とかあるのか?」
「え、えっと……」
不意の問いに、リアは少し考えた。
「北の方にある用水路の石橋と……薬草畑、ですかね」
「薬草畑?」
「はい。おじいちゃんが薬師だったので、手入れを任されてたんです」
話しているうちに、記憶の中の景色が浮かんでくる。
「小さい頃はよく一緒に薬草を摘みに行きました。薬草の種類や見分け方、匂いや効能まで、全部そこで教えてもらったんです」
「へぇ」
「夏になると、近くの石橋に腰かけて、用水路の水に足を浸すんです。ひんやりして気持ちよくて……そのまま昼寝しちゃったり。そういえば、幼馴染の男の子と水を掛け合って遊んだなぁ」
くすりと笑った直後、はっとして我に返る。
「……す、すみません。行ってみたい場所を聞かれたのに、昔のことばかり話してしまって……」
「いいじゃないか。むしろ安心したよ」
「安心?」
「リアもちゃんと、外で遊んでたんだなって」
「……どういう意味ですか、それ」
「リアは大人ぶるところがあるからさ。子供の頃も本ばかり読んで、難しい顔をしてたのかと思ってたよ」
「失礼ですね!」
リアの頬がぷくりと膨らむ。
「わたし、ちゃんと年相応にはお転婆でしたよ!」
「へぇ、そうなんだ。泥だらけになって遊んでるリア、見てみたかったな」
「そ、それはやめてください。本当に泥まみれでしたから」
頬が熱くなりリアは顔を逸らした。
いつの間にか歩幅は戻っている。気づけばカイウスの隣に並んで歩いていた。
森の向こうが明るくなった。湿った風が葉を揺らし、土と緑の匂いを運んでくる。木立を抜けると、視界が一気に開けた。
一面の麦畑だった。
たわわに実った穂が朝日を浴び、風に揺れている。黄金の波が丘を越え、遥か遠くまで続いていた。
リアは思わず足を止めた。
「……きれい」
吐息のような声がこぼれる。何度も見てきた筈なのに、六年ぶりに目にする故郷の麦畑は記憶よりもずっと鮮やかだった。
「ノルヴィアの麦畑って、こんなに綺麗だったんですね」
隣で、カイウスも金色の丘を眺めていた。
「……じゃあ、これも一つ追加だな」
「えっ? 何にですか?」
「リアがこれから作る、『行きたい場所』リストにさ」
カイウスは、いたずらっぽく口の端を上げた。
「いつか今日のこの景色も、笑って話せるようになるさ。『あの時は怖かったけど、勇気を出してノルヴィアに行ってよかったね』ってさ。ゴタゴタが全部片付いたら、また二人でここに来よう。そん時は思いっきり遊ぶんだ。それこそ、泥まみれになってさ」
——また二人でここに来よう。
村で何が待っているかは分からない。それでもカイウスは、その先のことを当たり前のように口にしてくれた。彼がそう言うのなら、いつかまた彼と並んでこの景色を見る日が本当に来るような気がした。
リアは胸元へそっと手を添える。
「……はい。約束、ですよ」
二人は再び歩き出す。金色の穂波が、並んだ背中を追うように揺れていた。




