2-2. 不器用な正義
「わああああ……!」
リアが今日何度目かも分からない歓声を上げた。
ここはナヴィレザ市街の中心、ヴェルディ広場。
白い石畳が敷かれた円形の空間だ。中央の噴水では女性像の足元から水が吹き上がり、砕けた陽光がキラキラと輝いている。
広場を囲むのは、二階建てほどの高さの柱廊。その一角には議事堂らしき華やかな建物と鐘楼が並んでいる。その壁には蔦が這い、窓辺や柱には色とりどりの花が飾られていた。
噴水の音に人々の声が重なり、それは見事な賑わいをみせている。
けれどリアの目を奪ったのは、柱廊の下に軒を連ねる露店の方だった。
『水の宝石』と呼ばれる名産品の硝子細工に、深海を思わせる藍染めの布。食欲を誘う香辛料や、ヴィーザを飾る金細工、見たこともない異国の果実——この世の誘惑が、ところ狭しと並んでいる。
「タ、タオラの専門店……!? 緑色のタオラなんて初めて見ました、絶対食べてみたいぃいぃ! ヴィーザのアクセサリーも、あんなにたくさん! それに、あれは……一体何を売ってるんでしょう、カイウスさん!?」
「好奇心旺盛なのって、ほんと良いことだよな」
カイウスはため息をつきながらも、なんとか歩調をリアに合わせる。あちこちに視線を飛ばす彼女の姿は、広場じゅうにじゃれつく大きな猫のようだ。
「すごい、すごすぎます……! ノルヴィアじゃあ、豊穣祭でもここまで賑やかにはなりませんよ!」
声を弾ませたリアがずんずんと進んでいく。周囲より頭二つ分ほど高い赤髪も人混みに見え隠れし、あっという間に見失いそうだった。
すれ違う人々が、次々とリアを振り返った。
ひときわ高い背に驚いた人々は、すぐに彼女の顔にも目を奪われた。凛とした顔立ちに浮かぶ、あどけない笑み。そのギャップが純朴な可憐さを引き立て、女性まで思わず頬を赤らめる。
一方男たちの中には、旅装越しにも分かる胸や腰の丸みにじっと目を留め、やがて全身にねっとりとした視線を這わせる者もいた。けれど当の本人は露店に夢中で、そんな下心を向けられていることなど知る由もなかった。
(……まったく。無自覚なのも考えもんだな)
なぜか落ち着かないカイウスは歩幅を速めた。人波を押し分けて追いつくと、彼女を隠す位置に回り込む。
「リア。あんまり一人で先に行くなよ」
「あっ、すみません。でも見たいものが多すぎて……!」
ふいに、その足がぴたりと止まった。
とある露店の軒先に積まれた木箱。その中に、色あせた背表紙の古本がぎっしりと並んでいた。
「……っ!? ええっ、ええええ!? ちょっと待ってください、これ!」
見知った友人を見つけたように駆け寄ると、リアは厚手の一冊を両手で引き抜いた。表紙には銀の箔押しで『貴方は私の薔薇の騎士 第四巻』と書かれている。
「うそ……うそ、うそ! これ『わたバラ』ですよ!? 続きあったんだ……! わたしが持ってたの、三巻までだったのに!」
目を見開いて固まったのも束の間、リアはページをぱらぱらとめくり始めた。
「どおりで、生煮えな終わり方だと思ったんです! あれで完結なんてありえないって、ずっと思ってて……!」
その熱の入りようを見たカイウスも記憶をたどる。
(そういえば……)
ノルヴィアの森で静養していた頃。雨音が屋根を叩くなか、リアが本を読み聞かせてくれたことがあった。その中の一冊がこの『貴方は私の薔薇の騎士』、通称『わたバラ』だった。
幼い頃から冷遇されてきた姫が、寡黙だが一途な薔薇の騎士と出会い少しずつ心を通わせていく物語。いかにも年頃の少女が夢中になりそうな筋書きだった。
「ああ、一巻だけ読んでくれたあれか。お気に入りだったんだな」
リアはこくこくと頷いた。
「当然です! わたバラは、ただの恋愛ものじゃないんです! 孤独に悩む姫の心の揺れも、それでも誰かを信じたいっていう願いも、すっごく丁寧に描かれていて……。それに応える薔薇騎士様の想いも、読んでて胸がぎゅーってなるんです!」
そう言いながら、本をそっと胸に抱いた。
「わたし、特に好きな場面があるんです。薔薇騎士様が、姫に初めて告白をするところ。自分の不遇や至らなさに押し潰されそうになっている姫に、騎士様が跪いて……」
ひとつ咳払いをするとリアは声を落とし、表情まで作った。
「『貴方の過去、抱えてきた苦しみ……私は今の貴方を形作る、そのすべてが愛おしいのだ。貴方がいまの貴方であることに、私は心から感謝したい』」
照れくさそうにしながらも、言わずにはいられない様子で続ける。
「初めて読んだとき、もう本当に感動しちゃって! もしわたしがこんなこと言われたら、すぐ好きになっ——」
そこで言葉が途切れた。
ふいに、エルンの家でカイウスにかけられた言葉を思い出す。あのときの彼も、自分の過去と在り方そのものを認めるような事を言ってくれた。
リアは本を抱きしめたままカイウスを見た。目が合いそうになり、慌てて顔を逸らす。どうしてこんなに気まずいのかは、自分でもよく分からなかった。
「……すみません。なんでもないです。ほんとに。でも、とにかく素敵なんです……」
急にしおらしくなるリア。忙しいやつだな、とカイウスも目尻を緩めた。
先ほどヴォルトから受け取った報酬で、手持ちには随分と余裕がある。リアがそれほど気に入ったのなら、思い出に一冊くらい買ってやってもいいかもしれない。
そう思い、服の内側に手を伸ばしかけた——そのときだった。
「捕まえたぞ! この盗人めが!」
広場の一角から怒声が上がった。
「なんだよ! 一つくらい、いいじゃないか! こんなにたくさんあるんだから!」
露店の前で、金髪の少年が店主に髪をつかまれていた。灰色に汚れたヴィーザに、手には果物の詰まった袋。痩せた体を必死によじって逃れようとするが、店主の手は振りほどけない。
「このクソガキ、さっきも別の店でやりやがったな! 商品を返せ! こっちは真っ当に商売してんだ! お前みたいな奴にかまけてる暇はねぇんだよ!」
「……つぅっ!」
「憲兵に突き出してやるぞ、クソガキ。……だが、それだけじゃ俺の気がすまねぇ。二度と盗みを働く気が起きねぇよう、俺直々に、徹底的に懲らしめてやる!」
少年の顔からサッと血の気が引く。
「……や、やめろ……離せ、やめろ! 離してっ! だ、誰か! 誰か、助けてくださいっ!」
店主がさらに髪を引くと、少年の顔が苦痛に歪んだ。
リアが息を呑んだその間に、カイウスはもう動いていた。
「……ちょっと待てよ」
低い声がざわめきを断ち切る。群衆の視線が一斉に彼へ集まった。
「盗まれたものは取り返す。それは確かに当然のことだ。だけどむやみに痛めつけることもないだろ。盗んだ分の代金をもらって、それで手打ちには出来ないか?」
「な、なんだあんたは……部外者が口出ししてくるな!」
店主が怒鳴り返す。カイウスは黙ってその目を見返した。
一秒、二秒。やがて懐に手を入れ、ヴォルトから受け取った布袋を取り出す。
「代金は俺が払うよ。それでいいだろ? いくらだ?」
「は、はぁっ!? な、なんであんたが!?」
「……その子を見ろ」
カイウスの声が一段と低くなる。
「ボロボロのヴィーザに、痩せこけた体。飢えで今にも倒れそうな顔だ。ここで見捨てたら、後味が悪くて寝つけない。俺は今夜もぐっすり眠りたいんでね」
店主は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……チッ。スオラ銅貨三枚だ。どこから来たか知らねぇが、ヴィーザもつけねぇ外者が。いい気なもんだな、偽善者め」
「俺は俺が正しいと思うことをする。それだけだ」
言いながらカイウスはルーメ銀貨を一枚、店主の掌に置いた。
「釣りはいらない。迷惑料だ、取っておけよ」
それが終わりの合図だった。店主は渋々少年の髪から手を離す。解放された少年はよろめき、石畳に膝をついた。
「……次はねぇからな」
「商人のくせに、ずいぶん使い古した脅し文句を吐くんだな。そっちの棚卸しもしておいた方がいいぞ」
店主はヴィーザの下で舌打ちし露店へ戻った。倒れかけた商品を乱暴に並べ直し、気が済まないのか台をどんと叩く。
野次馬たちは潮が引くように散っていった。広場が少しずつ、いつもの活気を取り戻す。
その片隅に、少年だけが膝をついたまま残されていた。怯えと安堵の入り混じった目で、カイウスを見上げる。
「……お、お兄ちゃん、ありがとう。僕、もう何日も食べてなくて……!」
掠れた声。震える手から袋が落ちかけ、両手で握り直した。
「……礼はいらないよ」
カイウスは静かに答えた。
「厳しいことを言うが、俺は何も解決してやれてない。お前は明日も腹を空かせて、また盗みに手を出すかもしれない。だから、俺がやったことはただの自己満足なんだ」
マントを払って片膝をつき、少年と目線を合わせる。
「……けれど。いつかお前が誰かに、何かを与えられるような立場になったら、今日のことを思い出してくれ。非力な傭兵が、こんなやり方でしか正しさを通せなかった。そんな間抜け話をさ」
少年の喉が小さく鳴った。やがて、こくりと頷く。
誰かにこんな言葉をかけられたのは初めてだった。その日を生きるだけで精いっぱいで、明日のことすら考えられなかった。
それでいいと思っていた。なのに、胸の奥がじわりと熱くなる。この人の言葉を忘れたくない。少年は、そう心から思った。
カイウスは手を伸ばし、少年の頭をそっと撫でた。
「お前、名前は?」
「……ルカ。ルカ・リーヴァです」
「ルカか。俺はカイウスだ。またどこかで会えるといいな」
カイウスは立ち上がると歩き出す。ルカはマントをはためかせるその背中をしばらく黙って見送った。
「カ、カイウスさん!」
駆け寄ってきたリアが、大きな目を輝かせた。
「さっきの場面! まるで『わたバラ』第二巻の薔薇騎士様、そのままでしたよ!」
カイウスはため息をつき、空を仰いだ。
「……またそれか」
「だって、本当にそっくりだったんです! 盗賊に襲われた領民を助けるとき、こう言うんですよ。『勘違いするな。私はただ、日課の散歩を邪魔されるのが嫌いなだけだ』って!」
リアは腰を折り、真剣な顔でカイウスを覗き込んだ。
「カイウスさん、よく見ると目元も、どことなーく薔薇騎士様の特徴を捉えてますね」
「勘弁してくれ。似てたとしても、好きで似てるわけじゃないぞ」
カイウスがそっぽを向く。リアはその横顔を眺めると、くすりと笑った。




