第一話 入所記念日
破裂音とともに世界が明転する。
少し遅れて、閃光と共にシャッターが切られる音が響いた。
揺れる視界の中、クラッカーから放たれた紙吹雪がひらひらと舞い上がっていく。
舞い上がった紙吹雪が床に吸い込まれるように落ちていくのを見て、俺は今、逆さに吊られているのだと気が付いた。
呆気に取られていると、目の前にくす玉が登ってきて、開いた。
『今日が君の最初の日だ!』
垂れ幕の文字は、逆さまの状態で読めるようになっている。
「なんだこれ」
呟くと、どこからともなく「おめでとう」という歓声とともに拍手が巻き起こった。
先ほどまでしんと静かだった部屋の、ソファーの影や壁の中、受付カウンターの中に潜んでいたらしい、白衣を着た人たちがわらわらと出てきて、宙吊りにされた俺を取り囲んでいる。一種の宗教のような雰囲気に、俺は堪らず顔をしかめた。
幸いにも、火の中水の中に放り込まれ生贄に……ということはなく、白衣たちの手によって床に降ろされ、全身をガチガチに締めつけていた拘束具からも解放された。
彼らは慣れた様子で、拘束具だとか、ワイヤーだとか、床に散った紙吹雪の片づけを始めている。まるで、何も特別なことじゃないかのようだった。
ふと持ち上げた右手には,薄汚れた何かのぬいぐるみが握られている。吊り上げられる直前、落ちているのを拾ったのだと思い出す。
外れかけたボタンの目を見ながら、反対側の手で自身の耳へと手を伸ばす。
少し冷えた耳たぶの感触を確かめていると、誰かが俺の肩を叩いた。
「びっくりするよね、これ」
振り返ると、細いふちの眼鏡をかけた男が立っていた。
脱色し色ムラのある髪と、しわの少ない几帳面な白衣がアンバランスな青年だった。
「これねー、やっぱり拾っちゃうよね」
青年は笑いながらぬいぐるみを指さした。
恐らく何かの動物を模していたと思われるそれは、ひどく使い込まれ、何日か雨ざらしにでもされたようなひどい有様だった。
縫い目のあちこちが解れ、破れては縫い直され、綿が飛び出ているような個所も見受けられる。耳が付いていたと思われる個所は、鋏で切り取られたようだった。
「そう、ですね」
ぬいぐるみは、この建物に入った時床に落ちていたのだ。
最初は気付かなかったのだが、何かを踏んだような気がして見下ろすと、靴の下にぬいぐるみが横たわっていたのだった。
踏みつけてしまったことが申し訳なくなって、俺はぬいぐるみを腕に抱いた。
その時、青年の社員証が目に留まった。
逆さ吊りにされた青年が白目を剥いて泣き叫んでいるような写真と、その横に『Lv.2 職員C』と印字されている。その下には小さく、何かの日付が書かれているらしい。日付はLから始まっているが、今の年号とは合致しない。
「あ、この写真使われるのも一年間だけだって言うからさ。お互い頑張ろうな!」
職員Cは、じゃ、と手を振って、大掛かりな仕掛けの片づけを行う白衣の群れに戻っていった。
するべきことがわからず立ち尽くしていると、背後に何者かの気配を感じた。
「所長がお呼びです」
声をかけられ、振り返った。
白衣ではなくスーツを着た男が立っている。胸元の社員証には、『Lv.5 副所長』とだけ書かれていて、変な写真も、謎の日付も見当たらなかった。
「こちらへ。足元にお気を付けて」
副所長の案内で、部屋の奥の扉が開かれた。
一瞬、ひやりと冷たい空気を感じる。扉の中は階段になっていて薄暗く、仄かな柑橘色の光に照らされている。暖色の照明だというのに、不思議と温度が感じられなかった。
躊躇いなく進む副所長の後に続いて、その不気味な空間へと足を踏み入れれば、白衣たちの声が一段遠くなったように感じられた。扉を閉めてしまえば、もう、聞こえてくるのは先に階段を下りていく男の足音のみである。
天井からの微かな光に照らされる足元は、目が闇に慣れてもほとんど見えず、また、光そのものも、奥へと進むごとに弱くなっているようだった。前を歩く男の後頭部が、段々と闇に溶けていく。
やがて、視界は完全な暗闇となった。
二人分の靴音と、呼吸音に混じって微かな電子音のようなものが聞こえてくる。
たったそれだけの世界だというのに、俺の足は何故か地面を正確に認識し、次の段、また次の段へと運ばれていく。
沈黙したまま、俺と副所長は階段を降り続けた。
そのうち、前を行く副所長の向こう側に、先ほどより幾分か濃いオレンジ色の光がたまる踊り場が見えてきた。
踊り場は無機質なオレンジ一色で染め上げられ、その他の色は識別できなくなっている。
そこに立つ副所長も同じく、オレンジ色の光とその影だけで構成されていた。きっと、彼から見た自分もまた、同じように見えているのだろう。
踊り場の床は金属でできていた。カンカンと足音が響いても、そこにはやはり温度というものが感じられなかった。
この光は、あらゆる物質から色や温度という概念を消してしまうものなのかもしれない。
踊り場の正面は扉となっていた。取り付けられたプレートには、『所長室』の文字が彫られている。
副所長が無言のまま小さく頷いたので、彼に軽く会釈をしたのち、扉を叩いた。
「どうぞ」
扉の中から、ハスキーな声が返ってきた。女性とも男性とも言えない、しいて言うならば少年のような声、というところだろうか。
軽く耳に触れながら一度だけ深呼吸をして、口を開いた。
「失礼します」
扉を開けると、白い照明が眩しく思わず目を細めた。
決して強い光でも、極彩色に彩られているわけではない、薄暗い簡素な執務室のようなのに、全ての色が鮮烈に目を刺すようだった。
部屋の中心には、グレーの、なんてことない金属のデスクが一つ。
その周りを取り囲むように棚が置かれ、何かのファイルや本がぎっしりと並んでいる。
広いわけでもないが狭くもない、妙な圧迫感と居心地の悪さを感じるが、それ以外は思ったよりも普通の部屋のように見えた。
部屋の主は、デスクの向こうに立ちニヤニヤと気味の悪い笑顔を浮かべている。
「どうだったかな、我がラボ自慢の新人歓迎トラップは!」
その存在はわざとらしく叫びながら、白衣をまとった両腕を広げて見せた。その姿はさながら、悪の秘密結社のボスのようだった。
「……最終面接だと伺っていたのですが」
腕を上げたポーズのまま硬直する存在にそう声をかけると、彼は何か可笑しそうに笑ったまま、デスクを避けてこちらに向かって来た。
「もう終わったよ。君はネズミを拾った。だから合格なのさ」
彼は、例のぬいぐるみを指さした。耳が切り取られていてわからなかったが、どうやら元はネズミだったらしい。
ふと、彼の頭にはフェルトで作られたネズミの耳のようなものが装着されていることに気が付いた。大きさが合わないので、さすがにこのぬいぐるみの物ではないだろうが、かなり使い込まれたもののようだった。ふちや縫い目の周りに毛玉ができている。
彼の髪は美しい灰色で、作り物のように寸分の狂いなく切りそろえられていた。
丸い眼鏡の奥に潜む深紅の瞳と、血が通っていないかのような白い肌。
白衣には、『所長』と書かれたプレートが留められている。
「ふむ……」
所長は首を傾げながら、俺の顔を凝視した。そして唐突に距離を詰められ、思わず息をのむ。所長は大きく見開いた眼でまっすぐに俺を捉えながら、何かを探るように俺の周りを旋回する。
「なるほど、ね」
観察を終えた所長は、静かにその眼を閉じた。ほんの数秒何かを思案したのち、彼は再び眼を開いた。
「今から君の名前はビビだ。よろしく」
所長は、俺の前に手を差し出して握手を求めた。
新しい名前、新しい身分。これは、契約という名の支配なのだとすぐに直感した。この手のやり口には覚えがある。
「よろしくお願いします」
躊躇いなく、その手を取った。俺は、今までの自分を捨てに来たのだ。それができるなら、名前を何度変えようと、主が変わろうと、問題はない。
固い握手が結ばれると、所長は愉快そうに目を細めて頷いた。
こうして俺は、新しい居場所となる『ネズミミ研究所』への入所を果たしたのだった。




