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19 さくらの叫び

 林に向かって飛び始めたライカが急に動きを止めた。大きく目を見開いて唖然としているライカを見たさくらは、ただ事ではないことを一瞬で理解した。

「ライちゃん、どうしたの? 一体何があったの?」

「な……、何じゃ、ありゃあ……。最終形態に変身した鏡太朗が翼を生やして飛んでいるんじゃ……。さ、さくら、たいへんじゃ! 鏡太朗は商店街に向かってるんじゃ! きっと人間を食らうつもりじゃ!」

「きょ、鏡ちゃん!」

 さくらは両目を見開き、思わず両手で口を覆った。

「さくら、河童(かわわらわ)に商店街へ向かうように伝えるんじゃ! わしは先に商店街へ向かう!」

 二人は別々の方向へ急いで飛んだ。


 商店街の近くのバス停では、六人の女子高生がバスを待ちながら談笑していた。その中の一人が何かに気づいて他の五人に声をかけた。

「ね、ねぇ、何、このバタバタって音。近づいてくるみたいで怖いんだけど……」

「本当だ。この音……、上から?」

 六人が一斉に見上げると、闇のオーラに包まれた鏡太朗が二枚の翼と八つのヘビのようなものを生やし、体中から呪いの言葉を響かせて自分たちに向かって降下していた。

「きゃああああああああああああああああっ!」

 五人の女子高生は、悲鳴を上げた直後に失神してその場に崩れ、残る一人は腰を抜かして震え始めた。

「な、何? 何なの?」

 女子高生の前に降り立った最終形態の鏡太朗の顔には、黒目と表情がなかった。

「げへへへっ……。まずはお前たちからだ。体も魂も全てを食らい尽くしてやる」

 鏡太朗の口から発せられた大勢の人間が一斉に喋る狂気を帯びた声を聞いた時、残った女子高生も気を失った。

 鏡太朗の体から生えている八本のヘビのような黒い雲の中の六本が、倒れている六人の女子高生に向かってそれぞれ一本ずつ伸びていき、その雲の表面ではたくさんの顔が、憤怒、憎悪、悲嘆、絶望などの様々な表情を見せながら蠢いていた。

「げへへへっ……。お前たちの後で、この近くにいる人間どもを一人残らず食らってやるぞ。げへへへっ……」

 鏡太朗の口から発せられる大人数が狂気に満ちて嗤う声が響く中、ヘビのような形の黒い雲の先端が女子高生たちのすぐ手前で大きく膨らみ、口のような裂け目を大きく広げて女子高生たちを呑み込もうとした。


「飛べ、三日月(きょう)―っ!」

 雷に覆われた三日月(きょう)が回転しながら飛んで来て、黒い雲を次々と切断して消えた。

「誰だ?」

 鏡太朗が瞳がない目で振り返ると、戦闘モードのライカが宙に浮かんでいた。

「げへへへっ……。お前のことは覚えているぞ。この前、俺たちの邪魔をした奴だ」

 切断された黒い雲はヘビのような黒い雲に引き寄せられて合体し、元通りになった。

「今度こそ、お前を食らってやるぞ」

 八本の黒い雲が長く伸びてライカに襲いかかり、ライカは飛び回って黒い雲から逃げ続けた。黒い雲の正面で蠢く顔が悲鳴を上げ、歪んだ空間が次々とライカに向かって放射されたが、ライカは空中を旋回してそれをかわし続けた。

「ぎゃあああああああああああああああっ!」

 鏡太朗の右掌から放たれた歪んだ空間がライカに命中し、ライカは血を吐きながら落下して気を失った。

「げへへへっ……。お前も、ここにいる人間どもも、同時に食らってやるぞ」

 ライカに向かって二本の黒い雲が伸び、気絶している六人の女子高生には黒い雲が一本ずつ伸びていき、ライカたちを呑み込むために先端が大きく広がった。

「水流砲!」

 誰かの声が響き、ライカと六人の女子高生は強烈な放水を受けて吹き飛び、黒い雲から逃れた。

「誰だ?」

 振り向いた鏡太朗の二十メートル先で、筋肉が盛り上がったカッパの姿の河童(かわわらわ)が両掌を鏡太朗に向けて立っていた、

「きゃー太朗! 人を食らうなんて絶対ダメだきゃ! きゃー太朗を乗っ取っている奴、きゃー太朗はとても優しいオラの大切な友達だきゃ! 早くきゃー太朗から出ていくだきゃあああああああっ! 水流砲!」

 河童(かわわらわ)の両掌から鏡太朗に向かって大量の水が放出されたが、鏡太朗が左右の掌を河童(かわわらわ)に向けて突き出すと、掌の表面で蠢く顔が一斉に悲鳴を上げて前方の空間を歪め、その空間に当たった水はたくさんの飛沫(しぶき)になって弾け飛んでいった。歪んだ空間がそのまま河童(かわわらわ)に向かって伸びていくと、河童(かわわらわ)は後ろを向いて背中を丸めながらしゃがみ込んだ。

「金剛甲!」

 河童の背中の制服の外側にダイヤモンドのように輝く甲羅『金剛甲』が出現し、歪んだ空間は金剛甲に当たって消滅した。

「げへへへっ……。これならどうだ」

 鏡太朗の両掌で蠢く無数の顔が、さらに強烈な耳をつんざく悲鳴を上げると、その前方の空間が一層激しく歪み、河童(かわわらわ)に向かって伸びていった。

「金剛甲(へき)!」

 金剛甲が河童の背中から落下して一瞬で大きくなり、二メートル四方のダイヤモンドのような輝きを放つ厚さ三十センチの壁になったが、激しく歪む空間は金剛甲の壁を粉砕して河童(かわわらわ)を直撃した。

「ぎゃああああああああああああああああああっ!」

 河童(かわわらわ)は悲鳴を上げながら十メートル後方へ吹き飛び、地面に落下すると気を失って動かなくなった。

河童(かわわらわ)くん!」

 その時、やっと河童に追い着いたさくらの魂が、地面に降り立った。

「悪霊さん、お願い……、誰も傷つけないで。鏡ちゃんをあたしに返して!」

「げへへへっ……。お前のことも覚えているぞ。この前、床を通り抜けて逃げた奴だ。今度こそ食らってやるぞ」

 さくらに向かって八本の黒い雲が伸びて襲いかかり、さくらは後ろ向きに飛んで四階建のビルの壁を通り抜けて姿を消し、八本の黒い雲は壁に激突した。ビルの屋上からさくらが飛び出して鏡太朗に向かって叫んだ。

「鏡ちゃん、お願い! 悪霊さんたちに負けないで!」

 最終形態の鏡太朗は、瞳と表情がない顔のまま狂気をはらんだ声で嗤い出した。

「げへへへっ……。わかったぞ。お前の体は霊体でできている。お前の正体は肉体から抜け出した魂だ。俺たちはお前が魂であっても食らうことができるが、魂のお前には俺たちに触れることができない。俺たちが人間を食らっても、お前には何もできない。助けることもできない。お前の前で、この二体の魔物と六人の人間を同時に食らってやる! お前は何もできずに、そこで泣き叫ぶがいい!」

「やめてえええええええっ!」

 涙を浮かべて叫んださくらの目の前で、鏡太朗の体から伸びる八本の黒い雲が気絶しているライカと河童(かわわらわ)、六人の女子高生に向かって同時に伸びていった。

「やめてえええええええええええええええええええっ!」

 さくらは大粒の涙を散らして叫んだ。


『さくら、どうして泣いているの?』

 さくらの頭の中に、十年前の母との会話の記憶が蘇った。

 雷鳴轟之(らいめいとどろきの)神社の裏庭に面した縁側で、五歳のさくらは母の大腿の上に横向きで座って声を上げて泣いており、母の月夜(げつよ)は愛おしそうにさくらを見つめながら、右手でさくらの頭を優しく撫でていた。

 さくらは、泣き濡れた顔で月夜(げつよ)の顔を見上げた。

『おかーさん、あたし、おかーさんに教えてもらった『りこんのじゅつ』で空を飛んでたら、小さな子が川で溺れてたの。あたしは助けようと思って、その子の手を引っ張ったけど、何度やっても、その子の手はあたしの手を通り抜けてつかめないの』

『その子はどこ? 助けなきゃ!』

 月夜(げつよ)は慌てて立ち上がろうとした。

『近くにいた大人が気づいたから、その子は助かったの。でも、あたしは何もできなかったの。助けたいのに、あたしは魂だったから何もできなかったの。目の前で苦しんでいる人がいたのに、何もできなかったことが悲しいの……』

『さくら、あなたはとても優しいわね。あなたの優しさはお母さんの誇りよ』

 月夜(げつよ)は慈愛に満ちた目でさくらを見つめると、優しく抱きしめた。やがて月夜(げつよ)はさくらから体を離し、満面の笑みでさくらの目を見つめながら楽しそうに言った。

『さくら、あなたに特別な術を教えてあげるっ! 奥伝といってね、おねーちゃんも知らない特別な術なのよっ! さくらが使いこなすのは難しい術だけど、誰かを助けたいって強く思っている時だったら、きっと月の神様がさくらに力を与えて下さる……』


 さくらは何かを強く決意した表情で叫んだ。

「古より月を司りし月光(つきみつ)照之命(てらすのみこと)よ! その御力(みちから)を宿し給え! 天女之羽衣!」

 空に満月が輝き、満月に照らされたさくらの全身が月の光で包まれた。その光が消えた時、さくらの髪は頭の上に二つの輪がある『飛仙髻(ひせんけい)』と呼ばれる形になり、服装は桃色をした平安時代の貴婦人の服『女官朝服(にょかんちょうふく)』に変化しており、その両肩には薄桃色の領巾(ひれ)という長い布が掛けられていた。さくらは、黒い雲に呑み込まれる寸前のライカと河童(かわわらわ)、女子高生たちに強い眼差しを向けた。

『絶対にみんなを助けるんだ!』

「な、何っ?」

 表情がない顔で驚きの声を上げた鏡太朗の前では、さくらの領巾(ひれ)の両端が、美しい曲線を描きながら一瞬で長く伸びて八つの黒い雲を同時に受け止めており、ライカたちを守っていた。

「変身して実体化しただと? ならば、破壊してから食らってやる!」

 鏡太朗はさくらに背を向けると、背中の大きな翼で蠢く無数の顔が一斉に大音量の悲鳴を発し、強烈に歪んだ空間がさくらに向かって伸びていった。

 さくらはとっさのことで身動きできず、目を見開いて悲鳴を上げた。

「きゃああああああああああああああああっ! ……え?」

 歪んだ空間は領巾(ひれ)を粉砕し、さくらを通り抜けて空へ消えていった。

「実体化していたのは領巾(ひれ)だけだったの……?」

 さくらは驚きと安堵が入り混じった顔で呟いた。

「おのれ! 破壊できないならば、お前の霊体を食らい尽くしてやる!」

 鏡太朗が背中の翼で羽ばたきながら瞬く間にさくらの目の前に移動し、八本の黒い雲が長く伸びてさくらに襲いかかった。

『逃げられない!』


 逃げられないことを悟って絶望の表情を浮かべたさくらの目前で、鏡太朗が突然意識を失ったかのように落下した。地面にうつ伏せで倒れた鏡太朗の姿は元の姿に戻っており、その二メートル上では、八本の黒い雲と二枚の翼が合体して大きな黒い雲の塊に変化し、その表面では無数の心霊写真のような青白い顔が蠢きながら呪いの言葉を口々に呟いていた。

 その様子を見たさくらは、愕然として叫んだ。

「時間だ! たいへん、鏡ちゃんが食べられちゃう!」

 黒い雲の塊は鏡太朗と十本の細い雲で繋がったまま、ゆっくりと鏡太朗に向かって降下してきた。

「お札はどこ? 河童(かわわらわ)くんが運んできたお札はどこなの?」

 さくらは激しく動揺しながら、倒れている河童の周囲を見渡した。

「あ!」

 さくらは河童(かわわらわ)から離れた場所に落ちている火バサミとお札を発見すると、一気にお札まで飛んだ。

「お札があった! ……え?」

 さくらがお札をつかもうとした時、お札はさくらの手を通り抜けた。

「そ、そんな……。お札をつかめない……。もう時間がない!」

 振り返ったさくらの視線の先では、黒い雲の塊が鏡太朗から三十センチの位置に迫っていた。さくらは狼狽し、両目からは大粒の涙が溢れた。

「誰か……、誰か助けて! ライちゃん! 河童(かわわらわ)くん! 起きてええええっ! 誰か、誰か鏡ちゃんを助けてええええええええええええええっ!」

 さくらは大粒の涙を散らして絶叫した。黒い雲は鏡太朗の十センチ上まで迫っていた。


 さくらは満月を見上げた。

「神様! 月の神様! お願い、鏡ちゃんを助けて!」

 満月が強く光り輝き、一筋の光がさくらに差し込んだ。

「体が温かい……」

 さくらの体は月の光に包まれていた。

「もしかして!」

 さくらは右手でお札をつかんだ。

「お札を持てる!」

 さくらはお札を手にすると、鏡太朗に向かって地面すれすれを必死の想いで一気に飛んだ。さくらの視線の先では、黒い雲がすでに鏡太朗の後頭部の髪に触れており、鏡太朗を呑み込む寸前だった。

「鏡ちゃあああああああああああああああああーん!」

 さくらは叫びながら、鏡太朗の左肩にお札を叩きつけた。

 突然たくさんの悲鳴が響き渡り、黒い雲が鏡太朗の体にどんどん吸い込まれ始め、大勢の狂気に満ちた声が一斉に叫んだ。

「よくも何度も俺たちの邪魔をしてくれたな! お前のことは絶対に許さんぞ! 次にこいつの中から出てきた時は、必ずお前を食らってやる! 俺たちが消滅する前に、必ずお前だけは食らってやるぞ! 覚えておけ!」

 やがて全ての黒い雲が鏡太朗の体の中に消え去り、一帯は静寂に包まれた。

「月の神様……、ありがとう。鏡ちゃん、約束は守ったよ。鏡ちゃんのことは絶対にあたしが守り続けるからね……」

 さくらは鏡太朗の横に座ると、優しく微笑みながら右手で鏡太朗の左頬に触れた。さくらを包んでいた月の光が消え、さくらの右手が鏡太朗の頬を通り抜けた。

「元の状態に戻ったみたい……。鏡ちゃん、先に林に行ってあたしの体に戻っているね」

 さくらの魂は弓道着姿に戻り、満月が消えた夜空を林に向かって飛んで行った。

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