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第五話・『逢坂の神域、風は断ち切られ』

ガキィッ!!!


圧倒的な死の気配に呑まれそうになりながらも、義経は足首の激痛をアンカーにして『薄緑』を抜き放ち、上段へと構えた。刀身に走る黒緑の斑点が、無惨の紅い瞳に映って禍々しく揺れる。


対峙する鬼の絶対的始祖――鬼舞辻無惨は、その紅い瞳をわずかに細めた。


「……ほう。私の威圧感を前にして、硬直すくまずに刀を抜いた人間は初めてだな。だが、その刀……ひどく不快な色をしている。そして、お前が背負うその独善、実に目障りだ。蟲が、随分と騒がしく這い回っていると聞いてな」


その言葉が終わるよりも早く、神域の死闘の幕が上がった。


無惨の背から、肉を引き裂いて突き出された、悍ましき肉鞭。それは全盛期の傲慢を体現した、圧倒的な質量と速度を誇っていた。


ドォッ!!!


山道が爆ぜ、巨石が粉砕される。

義経は、足首の止め紐を支点とした超高速の直角スライドでこれを紙一重で回避。そのまま、重力を置き去りにした三次元の空中戦へと跳躍した。


「――『風ノ技・参、晴嵐風樹』!!」


激しい突風の壁を身に纏い、木々を足場に無惨の死角へと回り込む。人間の領域を遥かに凌駕した天才の連撃。

しかし、無惨の放つ肉鞭の速度は、その風をも容易く引き裂いた。


「がはっ……!」


かすった。ただ、風圧をかすめただけに過ぎない。

にもかかわらず、義経の額の皮膚は一瞬にして爛れ、頬の肉が腐り落ちるように裂けた。無惨の攻撃に含まれる、致死量の血の毒。細胞を内側から破壊する激痛が脳を焼く。


空中で体勢を崩しかけた義経の肉体を、全集中の呼吸が強引に繋ぎ止める。カァッ! と肺腑を限界まで膨張させ、沸騰した熱い血が全身を巡る。その瞬間、傷口から吹き出た義経自身の熱い血が、手元を伝って『薄緑』の刀身を濡らした。


ジ、ジジ……と、刃が悲鳴をあげるような異音が響く。

これまでどんな人間の血を吸ってもなお瑞々しい若葉色を保っていたその刃が、持ち主である義経の「狂気の血」を得たことで、じょわ、と音を立てて血を貪り食うように吸い込んでいく。それは芽吹く春の拒絶。己の血で愛刀を汚した瞬間、瑞々しい若葉色は、生気を失ったどす黒い深緑の刀身へと完全に腐り落ちた。毒の毛細血管のような斑点は、今や刃のすべてを侵食し、禍々しい輝きを放っている。


「……これでいい。僕が化け物になろうとも、お前だけは、ここで断ち切る!」


着地と同時に、義経は再び地を蹴った。

足首の紐がブチブチと音を立てて肉に食い込み、骨が軋む。その激痛を燃料に変え、義経は人生のすべてを賭した狂瀾の連撃を繰り出した。


「『風ノ技・弐、白雨・乱れ斬り』――!!」


空中から降り注ぐ、全方位、全密度の暴風の刃。

だが、無惨は眉一つ動かさない。その紅い瞳には、退屈な羽虫を眺めるような冷酷さだけがあった。


ザシュッ!!!


「あ……」


烈風の隙間を縫って放たれた無惨の触手。小気味よい音とともに、義経の左手の五本の指が、根元から消し飛ばされるように切り落とされる。

それだけではない。返す刀の如き一撃が、義経の腹部を深く、横一文字に引き裂いた。


ボタボタと、内臓を巻き込んで溢れ出る鮮血。

常人であれば即死。あるいはショックで失神するほどの致命傷。

しかし、義経は倒れない。いや、倒れるわけにはいかなかった。


「全集中……!!」


肺が張り裂けんばかりの呼吸。血管の破裂を防ぐため、全身の筋肉を鋼のように硬化させ、引き裂かれた腹部の肉を、全集中の圧力だけで強引に押し留める。呼吸を解けば、その瞬間に肉体が内側から割れて弾け飛ぶ――そんな極限の呪縛の中で、義経はなおも無惨に喰らいついた。


右腕一本、深緑に染まった薄緑を逆手に持ち替え、無惨の首筋へと肉薄する。


「消えろ、無惨ァァァッ!!!」


渾身の、執念の一閃。

ズバァッ!!!

確かな手応え。強固な肉を引き裂き、その刃は頸骨の芯にまで達した。引き裂かれた無惨の首から、赫い血が天に舞う。

だが。


「……浅いな。いや、遅いと言うべきか」


刃が通り過ぎた先から、肉が、皮が、細胞が、火花が散るような速度で「瞬間再生」していく。舞った血飛沫すら、重力を無視して無惨の肉体へと吸い込まれていく。

傷を負わせることすら叶わない。最初から、戦いにすらなっていなかったのだ。これが、夜の支配者。絶対の始祖の力。


「お前がどれだけ言葉を飾ろうと、その刃に宿る執念は、己の目的のためだけに他者を排斥する『不滅の利己』。醜悪な化け物の燻ぶりだ」


限界は、唐突に訪れた。

過剰な酸素を取り込み続けた肺が、ついに機能を停止するように悲鳴をあげる。

視界が急激に霞み、暗転していく。

その暗闇の向こうから、走馬灯のように、かつての記憶が溢れ出してきた。


洛北、鞍馬山の白い雪。

「風を掴め」と笑ってくれた、天狗面の男の不器用な優しさ。

京の夜、自分の血塗られた足首を、涙を流しながら白い布で拭ってくれた、静の温かい手の温もり。


(ああ……僕は……)


なぜ、あの優しさを守るために、あんなにも多くの人間を殺してしまったのだろう。

なぜ、誰も泣かない世界を望んだはずなのに、自分自身が最も多くの涙を流させる怪物になってしまったのだろう。


(間違えて、しまったのか――)


胸を突く、痛烈な後悔。

次の瞬間、無惨の容赦のない、そして圧倒的な一撃が、視界のすべてを埋め尽くした。


ズバァッ!!!!


肉と骨が、おぞましい音を立てて両断される。

義経の肉体は、胸から腹にかけて斜めに、綺麗に袈裟斬りにされ、上下に分断された。


その瞬間、パチン、と、悲しい音が響いた。


少年をこれまで人間として、天才剣士として支え続けてきた、足首の「止め紐」。それが肉の爆ぜる圧力に耐えかねて、虚しく弾け飛んだ。片方の草履が、主を失って泥の中に転がる。


ドサリ、と。

上下に分断され、物言わぬ肉塊となった義経の身体が山道の泥の上へと転がり落ちる。

愛刀『薄緑』は手から零れ落ち、どす黒い深緑の刃を虚しく月光に晒している。

足首のちぎれた皮膚からは、もはや人としての形を保っていない、赤黒く変色した血がだくだくと流れ出していた。それは彼が歩んできた『人間の理』の完全な崩壊だった。


「ふむ……」


無惨はぬるりと歩み寄り、上下に分断され、死を待つだけの義経を見下ろした。

その瞳には、憐れみも怒りもない。ただ、新しく手に入れた実用的な玩具の「強度」を確かめるような、冷酷な好奇心だけが宿っていた。


「死の間際にして、なおその細胞が生存を渇望しているな。その強靭な肉体、武の才、速度、そして歪みきった不滅の利己……。ただ死なせるには、少々惜しい素材だ」


無惨は自らの鋭い爪で指先を切り裂くと、そこから、どろりとした、黒く脈動する「始祖の血」を滴らせた。


「お前が私の血を取り込んだ時、一体どうなるか……試してやろう」


意識が完全に消え去る寸前の義経の口内に、無惨の禍々しい血が、容赦なく注ぎ込まれていく。


最凶の天才剣士の肉体が、絶望とともに、激しく、悍ましく痙攣を始めた。

引きちぎれた足首の肉が、泥に塗れた草履を、千切れた止め紐を、生き物のように貪り、溶かし、一体化させていく。


人間・源九郎義経が死に、歴史の闇に「悪鬼・遮那王」が誕生するまで、あと、数刻。

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