14 銀の安らぎと、消えゆく残響
ミュゼウム魔法学園には、一年に一度、全生徒が逃れられない「審判」の日がある。
魔導共鳴試験。
魔力を音へと変換し、その純度と調和を競うこの試験は、魔法使いとしての資質を測る絶対的な尺度だ。
本来なら、一音も発することのできない私にとって、それは退学へ直結する恐怖の儀式であるはずだった。
けれど、試験を一ヶ月後に控えたこの時期になっても、私はどこかで高を括っていた。これまでの数年間、私は「音が聞こえない欠陥品」であることを理由に、この試験を常に免除されてきたから。今年もきっと、お兄様が上手く手続きをして、私をあの騒がしい講堂から遠ざけてくれるに違いない。
***
試験まであと二週間と迫ったある日の放課後。図書室の空気は、まるでお兄様が魔法で閉じ込めたかのように、穏やかで優しい静寂に満たされていた。
私は、お兄様のすぐ隣でペンを動かしている。
ふとした拍子に肩が触れ、そこから伝わってくるお兄様の深く穏やかな鼓動が、私の不安を一つ一つ溶かしていく。
(……お兄様の隣は、どうしてこんなに、呼吸がしやすいんだろう)
音が聞こえない私にとって、世界は本来、いつ何が起きるか分からない恐怖の場所だった。けれど、お兄様の「銀色の静寂」の中にいれば、私はただの不完全な少女ではなく、一人の「アリア」でいられる気がした。
私がふと顔を上げると、お兄様もまた、手元の魔導書から視線を外して私を見つめていた。眼鏡の奥のアイスグレーの瞳に、私の姿が宝物のように映り込んでいる。
「『……どうしたんだい、アリア。僕の顔に、何か付いているかな?』」
脳裏に響く、温かなチェロの音色。
私は首を横に振り、震える手でノートに文字を綴った。
[お兄様の音が、あまりに綺麗だったので……。ずっと、こうしていられたらいいのに、と思ってしまいました]
書き終えてから、少し恥ずかしくなって視線を逸らす。けれど、お兄様は満足げに目を細め、私の手をそっと包み込んだ。
「『……ああ、アリア。僕も同じだよ。君をこのまま、誰にも見つからない場所へ隠してしまいたいと……そう願わずにはいられないんだ』」
甘い、執着の響き。
お兄様の指先から伝わってくるのは、私をどこまでも深く、暗く、愛おしく隔離しようとする情熱の残響。私はその「檻」の心地よさに、そっと身を委ねた。
***
「『アリア。……課題は終わりそうかな?』」
日が傾いてきた頃、お兄様の声が再び私の中に響いた。
けれど、その音色は、先ほどまでの甘美な旋律とはどこか違っていた。
「……はい」
私が頷くと、ユリアンお兄様は名残惜しそうに微笑んだ。
その瞬間。私の「心の耳」に、お兄様から漏れ出す、軋むようなチェロの不協和音が届いた気がした。
(……え? いま、お兄様の音が……)
お兄様は、いつもは決して肌身離さず持っているはずの、王立研究所の刻印が入った万年筆を机に置いたまま、どこか遠くを見つめるような目をした。
「『……そっか。……用事があるから、そろそろ行くね。明日は……図書室に来られない、かもしれない』」
お兄様の言葉が、脳内で不規則に波打つ。
彼は立ち上がると、私の頭に大きな手を乗せ、髪を愛おしそうに撫でた。
「『寂しい?』」
「……はい」
「『僕も寂しいよ、アリア。……でも、大丈夫だ。必ず、君の静寂は守り抜くと約束するよ』」
お兄様はそう言い残して、音もなく図書室を去っていった。
机の上に残された、お兄様の万年筆。
持ち主を失ったその銀色のペンは、夕闇の中で、まるでこれから訪れる嵐を予感させるように、冷たく、不吉な光を放っていた。
次の日、お兄様のいない、冷え切った廊下でそれは起こった。
私の前に立ち塞がったクラリスお姉様は、見たこともないほど歪な「黄金の魔力」を全身から放っていた。
(……うるさい。お姉様の音が、さっきから、ひどく波立っている……)
彼女が何かを話しているのはわかる。けれど、音が聞こえない私にとって、それは意味を成さない唇の動きに過ぎない。
それでも、彼女の喉から漏れ出る不協和音――あの甲高く刺々しいピッコロの音色が、今日は一段と鋭く、私の鼓膜を直接針で刺すように激しく震えている。
「………………」
彼女は馬鹿にするように笑い、私を指差して、何かを「プレゼント」だと言うように唇を動かした。その表情に宿るのは、純粋な悪意と、そしてどこか焦りを含んだ愉悦。
(プレゼント……? 何のこと……?)
私が首を傾げると、お姉様はさらに一歩踏み込み、私にだけ聞こえるような――いえ、私にだけ「響く」ような、地響きに似た重苦しい振動を叩きつけてきた。
(……っ! 苦しい、……この音……!)
声の内容はわからない。けれど、その振動からは「退学」「破滅」「お兄様を汚す」といった、おぞましい負の感情が直接脳内に流れ込んでくる。
それは、お兄様が丹念に築き上げてくれた私の「静寂」を、一瞬で泥沼に変えてしまうような、不吉すぎる調べだった。
お姉様は最後に、震えるピッコロの音を置き去りにして、私の横を過ぎ去っていった。
後に残されたのは、ひりつくような空気の震えと、得体の知れない「終わりの始まり」を予感させる、冷たい余韻だけだった。




