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13 目覚めと確信

***



 視界が真っ白に弾けた。

重く湿ったまぶたを押し上げる。


 視界に飛び込んできたのは、見慣れた寮の白い天井だった。


(……いま、誰かの、声を……)


 心臓が、喉の奥までせり上がってくるほど激しく脈打っている。

 熱を帯びた耳たぶを、震える指先でなぞった。けれど、そこにはもう、自分を包み込んでくれていた大きな掌の温もりはない。


 必死に記憶の糸を辿る。けれど、手を伸ばした瞬間に、色鮮やかな旋律の残響は指の間をすり抜け、深い霧の向こうへと消えてしまった。


(……あ。そうだ、私……)


 体を起こした拍子に、昨日お兄様に撫でられた髪がさらりと肩を滑った。

 聞こえてくるのは、いつもの沈黙。風の音も、寄宿舎の喧騒も、私の耳を素通りしていく。


(やっぱり、夢だったのかな……)


 急激に体温が奪われていくような不安に襲われた、その時だった。


 ふと、枕元に置かれた一枚の紙が目に入る。そこには、昨夜、お兄様が図書室で綴ってくれた、あの流麗な筆致の文字が残っていた。


[アリア。また明日、図書室で待っているよ]


 その文字を目にした瞬間、止まっていた時が動き出すように、脳裏に「あの声」がなだれ込んできた。


(――『大丈夫だ、アリア。全部、僕が受け止める』)


 五感の奥に直接響く、深く、穏やかな銀の残響。それは物理的な音を凌駕するほどに鮮明で、私の絶望を塗りつぶすほどに温かかった。 不意に、脳裏を掠めた昨夜の記憶。


 あの人は、計算でも記号でもなく、魂を削るような重さで私に「言葉」を届けてくれた。



(……本当に、あったんだ。お兄様が、私を……)



 気がつくと、頬に熱いものが伝っていた。


 音が聞こえない世界で、私は初めて、自分の心臓が「嬉しい」と脈打つ音を、魂で聴いた気がした。

 今日から、私の世界はもう、昨日までと同じではない。怖くて、けれどどうしようもなく愛おしい「音」が待っている。


 私は震える手でその紙を胸に抱きしめ、何度も、何度も、その名前を心の中で呼び続けた。





***




 期待と不安を胸に一歩踏み出した学園は、昨日までと変わらず、冷たく無機質なノイズに溢れていた。


 廊下を行き交う生徒たちの口は忙しなく動いているが、そこから溢れるのは「心」を伴わない死んだ記号の羅列だ。自慢げに放たれる魔法の余韻も、私にとっては肌を粟立たせる不快な空気の震えでしかない。



(……ああ、やっぱり。お兄様以外、誰も何も語っていない)



 色のない景色の中、私はただ俯いて歩を進める。


 誰の音も響かない世界で、私は自分の心臓が刻む鼓動だけを頼りに、長い、長い一日を耐え忍んだ。

周囲から投げかけられる、実体のない嘲笑の眼差し。


 それらをすべて透明な壁の向こうに追いやりながら、私は脳裏にこびりついた「銀の残響」だけを何度も反芻する。


(お兄様……早く、あなたに会いたい)


 その渇望が限界に達しようとしていた、その時だった。

 放課後を告げる鐘の音は聞こえない。けれど、教室の空気が一斉に弛緩し、生徒たちが一斉に動き出した振動で、私はその時が来たことを知った。


 鞄を握りしめ、私は人波を逆走するように旧校舎へと急ぐ。



 心臓の鼓動が、昨日よりもずっとうるさい。


(……お兄様。本当にお兄様は、あそこにいてくれるの?)


 図書室の重い扉の前に立ち、私は一度深く息を吸った。震える指先で木肌に触れ、ゆっくりと扉を押し開ける。


 西日に照らされた静かな室内。そこには、朝に枕元で見たあの文字と同じ、凛とした空気の中に立つ一人の青年がいた。



「『……アリア。待っていたよ』」



 扉が開いた瞬間、私の脳内に、あの深く穏やかな「銀の残響」がなだれ込んできた。物理的な声ではない。けれど、その響きは朝に反芻した記憶よりもずっと鮮明で、ずっと温かい。

 お兄様は机から顔を上げると、私を見て、雪解けのような優しい微笑みを浮かべた。


「っ……」


 足が勝手に動いていた。


 一日の間に溜め込んだ不安や、周囲から浴びせられた冷たいノイズが、その一音だけで綺麗に溶けていく。

 私はお兄様の元へ駆け寄り、彼のコートの袖をぎゅっと掴んだ。

 お兄様は驚いたように目を細めた後、私の頭にそっと手を置き、昨日と同じ温かな掌で、私の髪を優しくなでる。


(……ああ。やっぱり、夢じゃなかった)


 耳元で、お兄様の静かな呼吸の振動が伝わってくる。

 この銀色の静寂の中にいれば、もう何も怖くない。私はそう確信しながら、顔を上げてお兄様の瞳を見つめた。



 私が袖を掴んだまま震えていると、お兄様は優しく私の肩を抱き寄せた。


 お兄様の肩に顔を埋めた拍子に、昨日よりも強く彼の匂いが鼻をくすぐった。冷たい薬草の奥にある、男性特有の熱。それに気づいた瞬間、急に顔が熱くなって、私は慌てて視線を逸らした。


 耳を塞ぐ大きな掌の温もり。そこから、静かな、けれど有無を言わせないほどに力強い銀の残響が流れ込んでくる。

 


「『……怖がらなくていい、アリア。君が今日、どれほど冷たい雑音の中を歩いてきたか、僕には分かっているよ』」


(お兄様……)


「『君を傷つける音は、僕がすべて遮断してあげる。……だから、今は僕の音だけを聴いて。それだけでいい』」


 お兄様の言葉は、朝に見たノートの文字よりもずっと深く、私の魂の奥底まで浸透していく。


 私が小さく頷くと、お兄様は満足げに目を細め、ようやく片手を離していつもの万年筆を執った。さらさらと、紙の上を滑る万年筆の心地よい振動。



[今日はお疲れ様、アリア。……さあ、ここからは楽しい時間だ。新しい課題を一緒に解こう。君が一番、美しくいられる場所でね]



 お兄様の綴る文字。そして、脳裏に残り続ける彼の慈愛に満ちた音色。


 私は、お兄様が用意してくれたこの「静寂の檻」こそが、世界で最も甘やかな居場所なのだと、再び自分に言い聞かせた。

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