8章 森の秘密
僕がアンジェネと契約して、ひと月が経とうとしている。
本当に変わり映えのない毎日だ。屋敷を訪れる人間はエマしかいない。
アンジェネは、森の外には決して出ようとしなかった。彼女はこの菓子がお気に入りだのあの花が好きだのといった話はするが、自分の生い立ちや、どうしてこの屋敷に独りで住んでいたのかについては決して口を割らなかった。
素性のしれない人間との共同生活というのは、どうにも居心地が悪くて仕方ない。
今日も夜が来た。悪魔は人間より夜目がきく。明かりがなくても特に困らないが、部屋の窓から見渡しても、広がっているのは空と木々だけだ。ここがまるで、まったく知らない別の世界のようにも思えてくる。
ぼーっと窓の外を眺めていた時、扉を叩く音が聞こえた。
「うん?」
アンジェネはとっくに寝ている時間だが、今日、エマは屋敷に来ていない。つまり、音の主はアンジェネだ。
こんな時間に何の用だろう?
僕はのろのろと扉に向かい、取っ手に手をかけた。
そこに立っていたのはやはりアンジェネだった。外に出かけていく時に羽織る、深緑色の外套を身に着けて、白い光が灯ったランプを手に持っている。
今から外に出ていく気なのだろうか。
「遅くにごめんなさい」
「何か用?」
何となく嫌な予感がする。
「エル、貴方は強い?」
「は?」
彼女の言っていることが理解できず、僕は眉をひそめた。
「わたしと一緒に戦って、って言ったら、聞いてくれる?」
戦い、それは悪魔が最も得意とすることと言っても過言ではない。
無論、僕だってかなりの手練れだ。人間が相手ならまず負けない。
しかし、いきなり戦えとはどういうことだろう? アンジェネは謎だらけだが、少なくとも命の危険と隣合わせの生活をしているようには思えない。
この屋敷での暮らしは不自由だが、命を脅かす「敵」がいないという点でいえば安全ではあった。
「何があったの」
「怖いものが来る。独りじゃ不安なの」
アンジェネの口調は、決して僕をからかっているようではなかった。怖いもの、何かがこちらに迫っているのだろうか。
考えられるのは人喰いを覚えた獣か、人間の賊くらいだ。
……待てよ、もし、侵入者が人間なら、これは絶好の機会だ。心臓にありつくことができるかもしれない。
そうなれば、ここでの暮らしもずっとましに思える。
「望むなら、ちゃんと命令して」
アンジェネが小さく息を吸う音が聞こえた。
「エル、わたしと一緒に来て、戦って」
***
僕はアンジェネの後ろについて、夜の森の中を進んでいた。
いつ戦うことになってもいいように、杖をあらかじめ出して手に握っているが、周りは不気味なほど静かで、他の生き物の気配がない。
僕たちの足音だけが聞こえている。
アンジェネは、前方をランプの灯りで照らしながら歩いている。
ランプの中の白い光は、ただの火には見えない。エマが前に言っていた、魔法の灯りというものだろうか。
「まだ進むの?」
僕はアンジェネに問いかけた。うっそうと茂る木々の間を縫うように歩いていると、自分がどこにいるのか分からなくなってしまいそうだ。
アンジェネは何も答えず、立ち止まることもなく、しっかりとした足取りのままでいる。
「怖いもの」の居場所は分かるのだろうか。そもそも「怖いもの」とはなんだろう?
「アンジェネ……」
もう一度彼女に呼び掛けたところで、視界が開けた。アンジェネがぴたりと足を止める。
僕たちがたどり着いたのは、広場のようになった場所だった。歪な円形になっていて、倒木があちこちに横たわっている。完全にその命を失い、朽ちていくばかりのものもある。
まるで、森の一部分にだけ嵐が来たかのようだ。
広場の向こう側は、今まで通っていた道と同じように、木々が壁のように並んでいる。
不自然だ。どうしてここだけ、切り取られたように木がなくなっているのだろう?
「ここは……」
「静かに」
口を開いたところで、アンジェネに止められた。
「もうじき、来るわ」
掠れた声で彼女が囁く。普段の様子とはうってかわって、厳しい表情をしている。
一体、何が来るというのか。少なくともただの人間という可能性は、限りなく低いだろう。
「……ん?」
しばしの沈黙の後、僕たちのいる広場の向こうから、かすかにだが物音が聞こえた。
がさがさという、木々をかき分けているかのような音と、ずるずると這うような音。
その音が近づいてくるにつれ、背筋が凍っていくのを感じた。
強い敵意が向けられている。逃げなければと本能が訴える。
それなりに生きた悪魔であれば、多少のことでは動じない。それは僕も然りだ。
今まで、これほどの、思わず足がすくむような危機感を覚えたことはない。
つまり、僕たちのもとに迫ってきているのは、数百年生きた僕ですら出会ったことのない何か。
人間でも獣でもない、普通に生きていれば出会うはずのない何か、だ。
「アンジェネ……! まずいって……!」
声を張り上げたいのを抑えながら、僕は必死にアンジェネに呼び掛けた。
「一緒に戦え」と命令を受けている以上、今、僕だけがこの場から逃げ出すことはできない。
アンジェネの気が変わってくれなければ、ここを離れることはできないのだ。
「嫌な予感しかしないんだ。絶対、よくないことになる……!」
「……勝たなくていいわ。追い払うことができればいいの」
アンジェネはそう言い、ランプを掲げた。ぼんやりとした白い光が辺りを照らす。
同時に、森の奥からやって来る、音の主の姿が見えた。
「ひっ……!」
そのおぞましい容貌に、僕は思わず息を飲んだ。
黒い塊が、こちらに迫って来る。立ちふさがる木々を避けることもせず、そのせいで幹や枝がしなっている。
広場まで出て、僕たちの前にゆらりと立つその体躯は、見上げるほどに大きい。適当に作られた土塊のように、歪んだかたちをしている。
腕のような長いものが二本、体の両脇から伸びていて、それを使い這うように歩いている。
目や口らしきものはない。ただ、息遣いのような音が聞こえるため、生き物であることには違いないのだろう。
しかし、こんな生き物は見たことがない。獣でも、ましてや悪魔でもない。
化け物、怪物、そう呼ぶのが相応しい。
「来ては駄目。引き返して」
アンジェネが言うと、ランプの光が強くなった。白い光が化け物の無機質な黒い皮膚を照らす。
化け物が低い唸り声をあげ、体をくねらせた。目はないが、光を感じることはできるらしい。いや、アンジェネの魔法の力に怯んでいるのだろうか。
アンジェネは、化け物を「追い払うことができればいい」と言った。このまま光を浴びせ続けていれば、こいつは元いたところへ戻っていくかもしれない。
だが、簡単にはいかなかった。化け物が体の横から生えた腕を伸ばし、僕とアンジェネに向かって振り下ろしてきた。
「わっ!」
咄嗟にかわしたため怪我はない。アンジェネも避けたようで、ランプを持ったまま僕から少し離れたところに立っていた。
振り下ろされたそれは、人間の男の腕が三本集まったくらいの太さで、鞭のように長くしなっている。
叩かれればかなり痛手だ。ただの人間であればひとたまりもないだろう。
化け物が再び唸り、腕を振り上げた。狙いはアンジェネのようだ。
「エル! 防いで!」
彼女の命令に応え、僕はアンジェネの前に躍り出た。杖を横にして両手でつかみ、腕の一撃を受け止める。
腕が杖をはたき、引っ込んだ。衝撃は強いが、耐えられないほどではない。
「どうする気!?」
僕は杖を構えたまま、後ろに立つアンジェネの方へ振り返った。
「光を当て続ければ逃げていくわ」
なら、アンジェネが攻撃を喰らわないように僕が化け物の気をそらし続けるしかない。
もう一度、腕が飛んできた。杖で弾き返そうとすると、長い腕がぐるりと杖に巻き付いた。
そのままぐっと引っ張られる。僕から杖を奪うか、へし折る気でいるらしい。
僕は杖を握る両手に力を籠めた。化け物が、耳を塞ぎたくなるような悲鳴をあげ、杖に巻き付けていた腕を引っ込めた。
僕の魔法で杖の、腕に巻き付かれている部分だけを炎のように熱くしたのだ。熱が伝わる相手かどうか分からず一か八かだったが、上手くいった。
アンジェネは、魔法の光を化け物に向け続けている。できるなら今すぐでも逃げ出したいが、それは無理だ。
こうなったらできるだけ早く終わらせるしかない。化け物が怯んでいる隙に、僕はアンジェネから距離をとり、化け物に向かって叫んだ。
「来い!」
化け物が、薙ぎ払うような動作で腕を横に振る。視力が悪いのか気が動転しているのか分からないが、相手を狙っているというより、闇雲に振り回している感じだ。姿勢を低くしてかわしたが、代わりに一撃を喰らった木の幹が真っ二つに折れた。
化け物が苦し気に呻いた。光を浴び続け、限界が近いのだろう。
あと一押しだ。
僕は杖を振り、魔力の球を作った。杖の先を化け物に向けると、球は一直線に飛び、それの体にぶつかって勢いよく弾けた。
今の僕の一撃が効いたのかは定かでないが、化け物はのたうつように体を動かし、来た道を戻ってよろよろと森の奥へ消えて行った。
「ありがとう。エルが手伝ってくれて早く終わったわ」
化け物がいなくなるのを見届けた後、アンジェネが僕のそばに歩いてきた。持っているランプの光は弱まっている。
「今のは……何?」
僕が尋ねると、アンジェネはさぁ?と首を傾げた。
「名前を聞いていないから分からないわ。でも、怖いでしょう?わたしを食べようとしているのだと思う」
特に取り乱すことも怯えることもなく、彼女は淡々と答えた。
「あいつに会うのは初めてじゃないってこと?」
「ええ。何度か会って、そのたびに追い払うの。あれが来る時は予感がする。そう頻繁ではないけれど」
僕はぐるりと周りを見渡した。今いるこの場所が不自然に広くなっているのは、アンジェネが何回もここであの化け物と戦っていたからか。
木が折れて散らばっているのは、あいつがここで暴れたせいだ。
「君、いつからこんなことしてるの? この森にはああいうのがうじゃうじゃいる訳? エマはこのこと知ってる?」
分からないことが多すぎて、質問が次から次へ飛び出てくる。
「あれが初めて現れたのはそんなに前のことではないわ。他に同じようなのはいないと思う。このことは、わたしと貴方しか知らない」
「もし、あれを放っておいたらどうなるの?」
「はっきり分からないけれど、きっと良くないことになるわ。わたしを狙っているみたいだから、屋敷まで来るか、もしかしたら森の外に出てしまうかも。そうなったら、危ないわ」
この森の外に何があるのか知らないが、少なくともエマは外から来る人間だ。アンジェネは彼女のことを心配しているのだろう。
「……君、よくそんなに冷静でいられるよね」
嫌味のつもりで言ったのだが、返ってきたのはいつもと変わらない返事だった。
「わたしは魔女だから。さぁ、帰りましょう」
アンジェネに連れられ、屋敷へと続く道を引き返す。
先ほどの出来事は幻だったのではと思うほど、森は静かで、何の気配もない。
閉ざされた森と屋敷、恐ろしい化け物、そして、得体の知れない魔女。
すべてが夢であって欲しいと、願わずにはいられなかった。




