7章 悪魔と本
ある日、見せたいものがある、とアンジェネに引っ張られてやって来たのは、屋敷の図書室だった。
僕の背丈ほどある本棚がずらりと並んでいる。それぞれに本がぎっちり詰まっていて、かなりの量がありそうだ。
「すごいでしょう?」
アンジェネが自慢げに僕の顔を覗き込んでくる。
「うん、まあ、すごいね」
この屋敷で火事でも起きたら大変なことになりそうだ。さぞかしよく燃えることだろう。
「エルが気になる本があったら、自由に読んでね。お部屋に持って行ってもいいわよ」
「そりゃどうも。でも僕は読まない」
僕が喜ぶと思っていたらしいアンジェネは、不思議そうに首をかしげた。
「本は嫌い? これだけあったら、エルが面白いと思うものも一冊くらいあるはずよ」
「好きとか嫌いとかじゃなくて、僕、字が読めないからさ。本も読めない」
人間の文字なんて今まで読む必要は特になかったし、本というものにも全く興味がわかない。
僕にとっては何気ない一言だったのだが、それを聞いたアンジェネは、いきなり殴られたかのような、唖然とした表情で突っ立っていた。
「どうして? 誰にも教えてもらえなかったの?」
「一体誰に教わるっていうんだよ」
悪魔は強いし頭もまわるが、全知全能とまではいかない。それに、文字は人間の生み出したもので、僕らが知らないのも当たり前だ。
「じゃあ、わたしが教えてあげる!」
「はぁ!?」
突然のことに、今度は僕が呆然とする番だった。何でそんなことをする必要があるんだ?
アンジェネは僕のことなどお構いなしに、本棚の方へ駆け寄り、本を何冊か引き抜いて、僕の方へ戻ってきた。
「簡単な本で一緒に勉強しましょう。大丈夫、そんなに難しくはないわ」
「いや、だから……」
有無を言わさず彼女に手を引かれて席に座らされ、目の前に広げられた文字とにらみ合うことになってしまった。
ただでさえ窮屈極まりないのに、輪をかけて頭を抱えたくなる生活の始まりである。
***
「やれやれ……」
夜、アンジェネも眠りにつき、やっと自室で一人になった僕は大きなため息をついた。
アンジェネの元でなぜか文字を学ぶことになり数日。さすがに丸一日の拘束ではないものの、
一体何の意味があるのか分からないことを続けるのはそれなりに気が滅入る。
彼女と二人、紅茶や食べ物が並んだテーブルをはさんで向かい合っている方がまだましに思えるくらいだ。
アンジェネの授業に僕は決して意欲的な態度はとっておらず、むしろ心底面倒だという雰囲気でのぞんでいるのだが、彼女はそれを咎めることはせず、懇切丁寧に説明をしてくる。
こんなことをして、アンジェネに何の得があるというのだろうか。本が読みたいなら一人で読めばいいのに。
悪魔の僕が、人間にものを教わっているなんて、他の悪魔に知られたら絶対に笑いものだ。
……そう考えると、無性に腹が立ってきた。
さっさとこの日々を終わらせるにはどうすればいいか、アンジェネに納得してもらうためには……。
とにかく、早いところ文字を覚えるしかないだろう。不本意ではあるけれど。
ランプを手に図書室に向かった。机の上には、昼間に使っていた本が置きっぱなしになっている。小さな子供が読むような、絵が多い簡単な本だ。当然のことながら、内容はとんでもなくつまらない。
机の上にランプを置いて席につき、本を広げた。
とりあえず基本は頭に入っているので、アンジェネがいなくとも何とかなるだろう。後は数をこなすだけだ。
すべては苦行でしかない時間からの解放のためと思えると、やる気もわいてくる。
明け方まで、僕は黙々と、時に呟きながらひたすら紙の上の文字をなぞり続けた。
***
そして翌日。
「それじゃあ、今日も頑張りましょう」
一晩中、僕が一人で勉強していたなど知る由もないアンジェネが、いつものように本を広げる。
「今日はここからね」
昨日までなら、僕がたどたどしく読んでいき、間違えた時にアンジェネの訂正が入る、といった流れだったのだが、今日でそれも終わりだ。
「騎士が、山の頂上に着くと、見上げるほどの、大きな竜が、眠っておりました」
「……まあ」
アンジェネが目を瞬かせる。僕がつっかえることなく、正しく一文を読み切ったのは初めてだからだ。
驚きつつも、ページを一枚めくった。
「次は、どう?」
「竜は、目をさますと、大きな声で鳴いて、真っ赤な炎を、吐きました」
「エル、あなた、もう読めるようになったの?」
アンジェネはすっかり目を丸くしている。
「本気を出せばこんなのすぐ覚えられるよ。悪魔をなめないで欲しいね」
「そう……そうなのね……」
こんなに驚いた彼女の顔を見たのは初めてだ。今までは何かと調子を狂わされてばかりだったから、うまく出し抜けて少し気分が良い。
が、その表情もつかの間、みるみるうちにその顔に笑みが広がっていった。
「すごいわ。エル! 急に読めるようになるんだもの。びっくりしたわ」
アンジェネはまるで、自分のことのように喜んでいた。
一体何が、そんなに嬉しいのだろう?
「こんなことして、君に何か得があるわけ?」
「え?」
アンジェネが不思議そうな表情で僕を見る。
「だから、僕が字を読めるようになるのは、君にとって何か意味があるの?」
「そうね……本が、とっても素敵なものだからかしら」
「何それ?」
「一冊の中に、今、わたしたちがいるところとは違う世界が広がっていて……冒険をしたり、色々なことを知れる、それって素敵なことだと思わない?
でも、文字が読めなかったら本も読めないでしょう? こんなに素敵なことを知らないで生きていくなんて、勿体ないわ」
「……はぁ」
まったくよく分からない理論だ。まるで興味が持てない。
「それにしても、エルは本当に賢いのね。そのうち、すごく難しい本でも読めるようになるかもしれないわ。悪魔は皆こんなに頭がいいの?」
「知らない。文字が読める悪魔がいるって話は聞いたことないよ」
「ふふっ、じゃあ、エルが一番最初に、本が読めるようになった悪魔かもしれないわね?」
仮にそうだとしても、他の悪魔から褒められたりもしないだろう。
だけど、アンジェネから、今までにないくらいきらきらした瞳で、すごいすごいと褒められて、頬のあたりがちりちりと熱をもつのを感じた。こんなことは初めてだ。
それを彼女に悟られたくなくて、僕は席を立ち、大きく伸びをした。
「君はこれで満足だよね?」
「エル?」
「文字は一通り読めるようになったんだし、これで終わりで良いだろ? こんなこと毎日続けてたら気が狂いそうだよ」
今までの僕の努力は、ひとえに机に向かって本にかじりつく時間からの解放だ。
「え、ええ。そうね。エルは一人で頑張ったもの。疲れたはずよね。でも……」
アンジェネはまだ何か口を出す気なのかと、僕は眉間にしわを寄せた。
「いつでもここに来て、好きな本を読んでいいから。エルが気に入る本も、きっとあるはずよ」
「……気が向いたらね」
それだけ言い、僕はつかつかと図書室を出た。
ここに自分から足を踏み入れることはもうないだろう。
***
……もう来るつもりはなかったのに。
その夜、僕はランプを片手に図書室に足を踏み入れていた。
アンジェネが眠ってしまう夜は、どうしても暇になる。
一人でいると、どうしても落ち着かない。心臓の味が恋しくなって無性にいらいらしてしまう。
不本意ではあるが、何でもいいから気を紛らわすことができるものが欲しかった。
厚さも装丁も異なる本で埋め尽くされている本棚を、ランプの光でなぞる。
あまり難しすぎるものは頭が痛くなるだろうし、かといってアンジェネが僕に文字を教えるために使っていたような本は退屈すぎる。
「……ん」
一冊の本の前で、ランプを持つ手を止め、その本を引っ張り出した。
紺色の革製の表紙で、帆船の絵が彫られている。分厚くもなく、薄すぎることもない。
昔、海を渡る帆船は見たことがあるけれど、乗った経験はなかった。
僕は本を手に、席について机の上にランプと本を並べた。内容が難しければ戻せばいい。けれど何となく、読めそうな気がした。
表紙の絵の通り、それは海を渡る船の物語だった。
ある人間の男が、まだ見ぬ土地を求めて海へ繰り出す。
嵐に遭い、陸の見えない海上で何日も過ごし、何度も命の危険に晒されながら、遂に彼は今まで誰にも知られていなかった、未知の大陸へたどり着く。
本当にあった話なのか、誰かの作り話なのか、それはどこにも書いていなかった。
けれど、まるで僕も海上の冒険に居合わせたかのような気分になる。
紙の上の文字を目で追っているだけなのに、なぜか、波の音や、潮の香りが感じられる。
すらすらと読むまではいかなかったが、男の行く末が気になって、ここではないもう一つの世界を見ていたくて、紙をめくる手は止まらなかった。
最後のページを読み終えた頃には、とっくに夜は明けていた。




