6章 好きなものの話
今日は珍しく、昼食の後、アンジェネはどこかに引っ込んでしまい、僕は一人で過ごしていた。
「エル、お茶にしましょう。こっちに来て」
昼下がり、アンジェネに呼ばれて屋敷の裏にある庭に向かうと、すでにテーブルの上に二人分の紅茶や菓子の用意がされていた。
もはや見慣れた光景だけど、今日のアンジェネは妙に嬉しそうだった。
「これを見て!」
僕が席に着くやいなや、アンジェネがテーブルの上に置いてあった瓶のふたを取り、僕の目の前に差し出してきた。
薄紫色の小さなひらひらしたものに、白い細かい粒がまぶされている。
「何これ?」
「ミレの花の砂糖漬けよ。わたし、これが大好きなの」
訝しがる僕の顔など気にも留めず、エマが持ってきてくれたのよ、とアンジェネは嬉しそうに語った。
「花? これを食べるの?」
人間が色々なものを食べるのは知っていたけれど、花までとは思っていなかった。
「とっても美味しいのよ」
アンジェネが瓶のなかの花びらを一枚摘み、ひょいっと口の中に入れた。
そしてもう一枚、花の砂糖漬けをとり、僕の方に渡してきた。
「エルもどうぞ?」
僕は花をまじまじと見つめた。アンジェネは本当にこんなものを喜んで食べているのか?
正直、花を食べるなんて気がすすまなかったが、断って面倒なことになるのも嫌だったので、アンジェネから渡されたそれを受け取り、恐る恐る口に入れた。
「……甘い」
それ以外の感想が特にない。
砂糖の味しかしない。というか、これは砂糖をそのまま食べているのとほぼほぼ同じなのではないだろうか。
「お花の味もちゃんとするわよ?」
いや、まったく分からない。
そもそも食事に興味のない悪魔に、繊細な味覚などある訳がない。
「僕には砂糖の塊としか思えないよ……」
「……まぁ、本当はお茶の中に入れたり、飾りに使うものだからそのまま食べる人はあまりいないかもしれないわね」
「なら最初からそう言ってよ……」
本来の食べ方じゃない方法を勧めるってどういうつもりなんだか。
「わたしはこのまま食べるのも、何かに入れて食べるのも好きよ」
はぁ、とため息を着く僕をよそに、涼しい顔でアンジェネは言った。
紅茶をすすって口の中に残る甘ったるさを消していると、
「エルは、何が好き?」
とアンジェネが問うてきた。
「心臓」
短く答えた僕を見て、彼女が首をかしげる。
「本当にそれだけ? 心臓以外は好きじゃないの?」
「好きじゃないよ」
「心臓は、どんな味がするの?」
「え……」
心臓の味についてなんて聞かれたことがない。今まで出会った人間たちは、心臓を喰らう僕の姿を見て、おぞましい怪物か、浅ましい獣を見るような顔をしていた。
どうしてそんなことを聞くのだろう。
まさか自分も食べてみたいなどと言い出すのか、と思ったが、その心配は杞憂に終わった。
「そんなに心臓を美味しいって思うのなら、きっととても特別な味がするのでしょう? わたしは食べたいとは思わないけれど……、友達が好きなもののことは、知りたいって思うの」
アンジェネの目には、恐れや軽蔑は宿っていなかった。本当に、純粋に知りたいと思っているのだろう。
「うーん、甘い、かな」
「甘いの? お砂糖みたいな味? それとも蜂蜜?」
「いや違う、砂糖じゃなくて、なんていうかもっと違う甘さ」
心臓の味なんて説明したことがないから、うまく表現する言葉が見つからない。
「そう……、そんな味があるのね」
口ではそう言ったものの、アンジェネは想像できない、というような顔をしていた。
仮に彼女が心臓を食べたとしても、きっと甘いとは思わないだろう。
心臓の甘さは、悪魔だけが知る秘密だ。
「悪魔と人間じゃ、感覚が違うんだよ。僕にこの花の味が理解できないのと同じさ」
僕が言うと、アンジェネはそうね、と頷いた。
「きっと、エルはわたしの知らない世界をたくさん見ているのよね。それってとても面白いことだわ。エル、わたし、貴方のことをもっと知りたい」
「……悪魔なんて、そんなに面白いものじゃないよ」
僕が言うと、アンジェネは違うわ、と首を振った。
「わたしが知りたいのは、悪魔のことじゃなくて、エル自身のことよ。何を食べて美味しいと思うとか、何をするときに楽しいって思うとか……」
「え……」
予想していなかった言葉に、僕は言葉を詰まらせた。
今まで、僕ら悪魔を珍しい獣と同じように考えている人間に、あれやこれやと調べ回られたこともあった。
だけどアンジェネが聞きたいのはそれではない、僕自身のこと……僕の何にそんなに興味があるんだ?
僕だって他の悪魔と同じだ。心臓以外に興味はない。楽しい、と感じることなんてない。
返答に困っていると、ところで、とアンジェネが話題を変えてきた。
「エルは心臓が好きで、心臓は甘いっていうことは、エルは甘いものなら好きになれるかもしれないわね?」
「その花は無理だよ」
人間のつくったものを食べる機会は何度かあったが、美味しいと感じたことは一度もない。
どんな食べ物も、心臓の味の前ではかすんでしまう。砂糖まみれの花などもっての外だ。
「じゃあ、これはどう?」
アンジェネが、テーブルの上に乗っていた皿をそっと僕の目の前に置いた。
皿の上には、狐色に焼きあがった小さい丸いものが並んでいる。
「……これは?」
僕が聞くと、アンジェネは目を丸くした。
「まあ、クッキーを知らないの?」
「知らない」
少なくとも食べたことはないし、見たことはあるかもしれないけれど記憶にない。
「味見してみない?」
アンジェネに促され、僕はクッキーを一枚手に取った。ほのかに甘い匂いがする。
それを口に運び、齧るとさく、という軽い音がした。
先ほど食べた花の砂糖漬けほどは甘くない。色々なものが混ざっている感じがする。
何が入っているのかは分からないが、思っていたよりはまともな味だった。
「どう、美味しい?」
期待のこもった眼差しで、アンジェネが感想を聞いてくる。
「……まぁ、悪くはないかな」
もちろん、心臓の味には遠く及ばないけれど。
「本当!?」
決して美味しいとは言っていないのに、彼女はぱっと輝かせた。
「それ、わたしが作ったの。食べてもらえて嬉しいわ」
先ほど一人で一体何をしていたのかと思えば、これを作っていたのか。
「たまに作ることはあったのだけど、誰かに食べてもらう機会はあまりなくて……。エルに美味しいって言ってもらえるように、もっと頑張るわね」
……別に頑張ってもらう必要なんかないんだけど。
なんだか、アンジェネと話していると不思議な気分になる。
彼女の態度は、今まで出会ったどの人間とも違う。僕に対する恐れや不安も、利用してやろうという狡猾さも欲深さも感じない。
それなのに、僕たちの間に結ばれた「鎖」の力は恐ろしく強い。
その不均衡さに戸惑いを拭うことができないまま、時間だけが緩やかに過ぎていった。




