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二十羽




「お凛――!」

「できたの――!」


 ぱたぱたと走り寄るそっくりな子どもに背後から飛びつかれ、凛は盛大にバランスを崩した。そのままソファーに顔面から飛び込んだものの、お値段のいいソファーはその金額に見合った反発力で三人を包み込んだ。


「お凛―、窓ふき終わったの――!」

「お凛―、窓ふき終わったの――!」


 まるでスピーカー。浮かべる笑顔まで同じ子どもを乗せたまま時計を見る。時刻は三時三分前。


「おやつにしようか」

「二葉、おやつだよ!」

「二葉、おやつだよ!」


 お腹の上で飛び跳ねて駆けだされたので、ぐえっと変な声が出た。

 咽ながら起き上り、部屋の中を見回す。単身者用ではないマンションは広いのに、家具も荷物もとても少ない。部屋はたくさん余っている。

 それでも凛の荷物はその内の一部屋に定住したし、リビングにはソファーあったらいいかもねと言った次の日にはお高いソファーが鎮座していた。食器棚には、日に日にコップが増えていく。その内お椀も増える気がする。


「掃除終了。おやつは掃除道具片づけてから」

「はーい!」

「はーい!」


 長い廊下を駆け抜ける軽い足音を聞きながら、足を引きずりながらキッチンに向かう。お湯を沸かし、冷蔵庫からおやつを取り出す。きちきちと声が聞こえて振り向くと、糸の先に人数分のフォークを巻きつけた二葉がいた。


「ありがと」


 きちきちきち。二葉の返事はとても静かだ。

 おやつも全部受け持ってくれた二葉に甘えて、片手を庇いながら椅子に座る。開けっ放しの窓から吹き抜ける風は温かく、風来坊が高層マンションにまで花の匂いを届けてくれるのだからありがたい。





 あれから後のことを、凛は詳しく知らない。

 橘義信と紀煉は逃亡中だ。屋敷には腐り落ちた紀煉の腕が落ちていたという。毒が全身に回るのを防いだのだろう。腕の付け根は切れ味の悪い刃物で無理やり捩じ切ったようだったという。切り落とされた夜叉丸の腕はくっつくけれど、人間の腕は二度と生えない。

 現在は世界的に指名手配されているが、そう簡単にはいかないだろうというのが皆の見解だ。何せ、屋敷に踏み込まれたと分かるや否や火を放ち、小間使いにしていた妖怪諸共焼き尽くしたのだ。どうりであの時、夜叉丸がやけに鼻を動かしていた。一族郎党ごっそり姿を消しているのでまだ根は深そうだが、国家を揺るがしたテロリストのことを悩むより前に、凛にはやることが幾つかあった。



 年越しまでの数日間、父に電話するのを忘れていたのが一つ目。

『娘に何かあったんです! 探しに行かせてくださいというか行きますぅ!』と病院から逃亡を試みて、正門三歩で倒れていた桔梗に、ちょっと羽目を外し過ぎただけですごめんなさいすみません申し訳ないと、電話越しに息継ぎを挟まずノンブレスで謝り倒したのが修羅場だった。

 彼は今、母と同じ国にいる。外国での手術が決まったと、明けましておめでとう電話と共に知らせてもらった。雲雀の働いている国での手術で、本来何年もの予約待ちの執刀医が担当してくださるらしい。何でも母の仕事上の関係でちょっと融通を効かせてもらえたらしい。我が母ながら凄い人だ。


 二つ目は、会った会ったと言って言葉も交わさずさっさと帰ろうとした八つ目爺と、せめて言葉くらい交わしておくれと大泣きした四つ辻女郎をなんとかしたこと。なんともならなかったけれど。まあ、元気だったか、よかったよかったとの一言でなんとか溜飲は下がったので、何とかなったというのだろうか。


 三つ目、これは単純に養生だ。腕は折られ、足は刃で貫かれ、挙句の果てにその状態で動き回ってくれたおかげで、立派な衰弱状態に陥った。まあ、当人は即座にICUに担ぎ込まれた状態だったので文句は言えなかった。


 四つ目。これがなかなか面倒だった、はずなのだが、蓮が全面的に矢面に立ったことで凛が関わることはなかった。詳しいことは知らないが、今回の騒動のどこにも凛の名は残っていない。蓮が手を回し、凛はただ巻き込まれただけの一般人ということで落ち着いた。

 おかげでこうやって、呑気に引っ越し準備を完了させることができたという訳だ。



 桔梗が日本を離れる事となり、両親が気にしたのは一人残る娘の事だった。母方の祖父母宅は少し古い考え方をする家で、正直跡取りとなる弟だけしか預かりたくないらしい。まあ、それはいいのだ。幼い頃から碌に会ってもいない祖父母から愛を貰いたいと思うほど、凛は人間が好きではない。父方の祖父母は既に他界している。そして凛は、日本を離れたくなかった。

 まだ高校生の娘の処遇を考えた両親が出した選択は、全寮制の高校にいれることだったけれど、それだと二葉が自由にできない。考えた末に出した結論に難色を示した両親だが、土下座して頼み込んだ凛の横で、病院を抜け出した蓮までもが両親に土下座して頼み込んだ。その後ろでは夜叉丸と二匹の子どもが頭を地面につけていた。

 母はテレビ電話からの参戦で、画面に映った母の姿に仰天した。何故なら、瞼に絆創膏を貼っていたからだ。


『眠らないようにしたの。気にしないで』


 疲れているのに、真夜中に本当に申し訳なかった。時差ってつらい。





 大きなテレビをつけると、無表情のアナウンサーが淡々とニュースを流していく。

 未だ逃走中の橘義信の行方は依然……本日の会見で元気な姿を見せた神鬼月……今度の事件を得て法改正を…………。

 もともと騒がれていた所に今回の件が重なり、一気に時の人となった蓮は怪我が治る間もなく引っ張りだことなった。あちこちの雑誌にテレビにと、彼の顔を見ない日はない。NYSの顔だった人間がテロリストとして追われる事態となり、宣伝塔に顔の良い彼を起用したいのは分かる。分かるが、仏頂面のほうがまだましだと思う無表情が淡々と用件だけを告げても逆効果にしかならない気がする。

 蓮が矢面に立ったことで凛の名は何処にも残らない。詳しい話を凛は知らない。蓮が話したがらないからだ。きっと問えば答えるだろう。今の蓮は、憎まれ口こそ叩けど凛の為に生きていると言っても過言ではない。凛の願いを問い、叶える。凛の命を聞き、従う。それこそが生きる意味だと淡々と無表情に言い切るのだ。

 だから凛は問わない。仮令それが問いかけであろうと、蓮は従ってしまう。問いかけが厳命となってしまうのだ。彼が沈黙していたいことでも答えてしまう。凛はそれを望まない。だから聞かない。問わない。これが対等な付き合いであれば何したのと気軽に聞くことができた。けれど、今の彼との間柄では無理な話だ。恋より忠義に近く、服従より愛に近い温かさがある。何と問われれば、さあ……としか答えられない。



 ぱたぱたと軽い足音が戻ってくる。


「お凛、雑巾片づけたの。霰はけいきがいいの!」

「お凛、桶を片づけたの。霙もけいきがいいの!」

「バケツはちゃんとひっくり返して干した? そして今日はケーキじゃありません」


 子どもの顔がしょんぼりとなる。耳と尻尾も盛大に下がった。


「今日はわらび餅です」

「わさび!」

「わさびなの!」

「嫌だ、そんなおやつ!」


 耳と尻尾が跳ね上がった。

 くりくりと振られていた尻尾が、耳がピクリと動いた瞬間高速になる。子どもは、とたとたとやけに軽い足取りに玄関に向かう。


「主! 今日のおやつはわさびなの!」

「主! 今日のおやつはおもちなの!」


 帰宅早々おやつの報告をされた蓮は、どうでもよさそうに取り合わない。子どもも反応がない事などどうでもよいのか、にこにこ周りを飛び跳ねている。夜叉丸はソファーに胡坐をかき、テレビのチャンネルを回した。


「おかえり、蓮、夜叉丸」

「ただいまでござりんす」

「お帰りなさい、夜叉丸。蓮もおかえり」


 再度繰り返しても、形良いくせに憎まれ口しか叩かない唇はぴくりとも動かない。


「おかえり」


 しかし凛は諦めない。諦めることを諦めたほうがいいと、始まったばかりの同居生活ですでに悟っている。

 そのことを知っている蓮は、だんまりのほうが面倒だと思ったのか、渋々ながら口を開いた。


「戻った」

「倦怠期のおっさんか」

「只今戻りました」

「業務連絡!」





 立花錬とだけ彫られたシンプルな墓石。立花『家』ではないのは錬の為だろう。あれを家とは認めない。生前、錬はそう言った。家としての形なんて最初からなかったとも。

 錬のお墓は、とても静かな場所にあった。他の墓からも少し離れていたけれど、定期的に人の手が入っていると一目で分かる。丁寧に管理されていた。その場所を見て浮かんだ感情は、きっといつまでも凛の中に残るだろう。

 何処かを流れるせせらぎが、葉が擦れ合う音が、やけに大きく聞こえた。

 霊も妖怪もいない、静かに保たれた墓場の中を音だけが通り過ぎていく。

 ああ、錬はどこにもいない。分かっていた事だった。それを確認しただけだ。なのに、打ちのめされたようにも、安堵したようにも思えた。自分の感情なのによく分からなかったのだ。

 錬はいない。もういないのだ。

 何処にもいない彼と会えないのは当たり前のことなのだ。


 消毒液の匂い消えない二人で、松葉杖をつきながら墓を参った。錬が好きだった色の服を着ていこうと提案すれば、意外なほどあっさりと蓮は頷いた。それがピンクだと聞いて、よりにもよって桃色でござりんすかえと大笑いしたのは夜叉丸だけで、蓮はすぐにピンクのシャツを用意した。そのシャツを二人で着込み、明るい色が好きだった彼の為に、およそ墓参りにはふさわしくない、まるで誕生日を祝うかのように楽しい花束を供えた。






 黙黙とわらび餅を食べていた蓮は、最後の一つを咀嚼してごくんと口内を空にした。きなこを吹き飛ばしてしまう子どもらの口を拭いていた凛は、視線を感じて顔を上げる。無表情が、じぃっとこっちを見ていた。


「何? おかわり? あるよ?」

「霰もわさびもち食すの!」

「霙もわさびもち食すの!」

「そんなおかわりはないかな!?」


 ショックを受けた子どもらの視線が、凛を通り越してある一点に固定される。はっとなったように動きを止めたのは、両足でわらび餅を掴んだ二葉だ。双方しばし無言の睨み合い。ふわっと風来坊からの春の香りプレゼントを合図に、二葉は空を飛び、子どもはそれを目指して宙を駆けた。

 ドタバタと廊下を駆け抜けるBGMを聞きながら、凛は綺麗な笑顔を浮かべる。見なかったことにしよう。


「で、何か聞きたいことあった? もしくは言いたいこと」


 じぃっと綺麗な顔が凛を見る。その顔に逡巡や葛藤は見られない。


「明日の、予定は?」

「明日? えーと、とりあえずこの周辺の妖怪達への挨拶回りかな。どこにどのくらいの怪がいるか把握して、雑鬼達にもこれから二葉がここにいること見せといて、後は配った後に激減するだろうお菓子備蓄の調達と……あ、拠点に出来そうな場所の目途もたてたい。今までは八つ目爺が事務所みたいになってたから、受付システム考えなきゃだけど……とりあえずおチビちゃん達を交代で配属する。あ、明後日には新しい制服取りに行くよ」


 予定なら目を回すほどある。怪我で思うように歩き回れないのは痛い。物理的にも痛い。

 凛は、春から東京に住む。高校も編入した。両親とも散々話し合った結果だ。両親には霊視の事も、怪の事も、何も話していない。東京で彼と暮らしたい。そう言って土下座した大怪我を負った娘を何と思ったのだろう。まさか許可をくれるなんて思わなかった。

 両親は何も聞かなかった。ただ、凛を信頼する。何かあったら言いなさい、怪我をしないように。それだけを厳命して旅立った。

 凄い人達だと思う。自慢の両親だ。自慢で、大切で、大好きな家族である。凛が人を嫌いだと断言できず、また、したくないのは、彼らがいてくれたからだ。


「その、妖怪共の相談室みたいなこと、こっちでも続けるのか?」

「え? うん。だって人間側の妖怪や心霊現象でお困りの方はって窓口はいっぱいあるのに、妖怪がお困りの時はって窓口がないのはずるいと思う。今迄は八つ目爺が選った依頼をこなすだけだったけど、八つ目爺を後ろ盾に使っていいからって言ってくれたし、そろそろ自分だけでやってみるよ。将来的にはこれで食べていくつもりだし」

「だったら何故、学校に行く? 人間世界を切り捨てたほうが自由が効いて、やりやすいはずだ」


 淡々と紡がれる言葉に、凛は背筋を伸ばして向き合った。彼はただただ不思議なのだろう。あえて非効率で不便な道を選ぶさまを疑問に思っただけだ。子どもが問う。問うのは知ろうとするからだ。知りたい理由が、知らなければならないからでも、知っていたほうが都合いいからでも構わない。理由は何であれ彼は今、凛と関わろうとしているのだ。

 だから凛は答えよう。はしょらずに、しっかりと、向き合おう。


「一つ。私はまだ両親に学校に行かせてもらってるから。両親に養ってもらってるし、両親の意向に沿うのはある程度は当然義務でもあるし、私はそれが苦ではなくそうしたいと思うから」


 言葉一つ逃がさないと言わんばかりに、蓮の神経全てがこちらを向いている。ほどほどになんて高度な事を初心者に求めるのは酷だ。だって彼は今まで誰とも繋がってこなかった。関わろうとしてこなかった。ほどほどなんてものは、経験を得て適度適切が分かった人がやることだ。

 動きも全て止めて、凛の肌がちりりと焼けそうなほど見つめる瞳を咎める気はない。一つ一つ。一歩一歩、赤子の歩みを邪魔してはならない。


「二つ。私はそれほど人間が好きじゃない。妖怪だけの世界にどっぷり浸かって生きていくほうが楽だとも思う。……けど、貴方がいるなら、投げ出さないでいようと、思う」

「は?」


 無表情がほんの僅かに崩れる。

 いつか、彼と家族のように話せる日が来るのだろうか。テレビを見ながら、作業をしながら、話しかけられると背中のまま答えたり。くだらないことで笑ったり、今日あったことをたらたらと話すだけの意味のない会話を、したりするのだろうか。


「私の所為で貴方の選択肢を狭めることだけはしたくない。貴方が選ぼうと思った時、どっちの道も残っていてほしい」


 それが責任だと、凛は思う。

 見る見る間に無表情の眉間に皺が寄り、渓谷を作った。


「僕の所為であなたの人生を制限するなんてあってはならない」

「これは制限じゃないよ、蓮。少なくとも、私はこの選択をそう呼ぶつもりはない」


 分からないと瞳が語る。その感情の動きが嬉しいのは、錬が残していったものだからだろうか。きっとそうで、だけどそれだけじゃない。彼が彼であることが嬉しいと思えるほどに、凛は彼が好きだった。

 美しいものを見て。美しい音を聞いて、美しい色を感じて、美しい世界を知ってほしい。

 そして凛は、そうできる人間でありたい。

 その為には、人と生きる道は捨ててはいけないことだ。


 凛だって偉そうなことは言えない。所詮、二十年も生きていない小娘だ。童顔といわれてきた顔立ちはきっと、変わりたくなかった私の最後の抵抗だった。もう二度と変わらないあの人から離れていきたくなかった。けれど、これからは変わっていくだろう。変わって、いかなければならない。先に進む為には、時の流れは絶対だ。

 だから、全てこれからだ。見て、聞いて、生きて。そうして初めて、生きてきた道で何を選んだか気付くだろう。その時後悔しないよう、狭い視界を精一杯広げたい。自分が切り捨てた何かの所為で、彼の道を狭めることは、それこそあってはならないとさえ思う。

 それが、蓮を託された凛に出来ることで、しなければならないことだ。

 ランが蓮を人間にした。彼はそう願ったのだ。人も妖怪も拒絶した彼が残したものは、彼が諦めたこの世界への希望だと、そう、思いたい。


 一連の大騒動を得て、何が解決したのかと問われると、何もの一言に尽きた。

 凛と蓮の仇とその元凶は、社会的な地位を失っただけで今も世界に存在している。一人の五体満足は奪ってやったが、それだけだ。凛と蓮の大切な(よすが)を殺した罰には遠く及ばない。

 憎悪も殺意もこの胸に残ったままだ。何一つ晴れてなどいない。何の仇も取れなかった。

 これだけ大騒動を得て、二人が手に入れたものは出会いだけだった。

 凛は蓮と出会い、蓮は凛を見つけた。


 それはきっと、二人の奇跡だった。





「蓮、この後の予定は?」


 くるりと話題が変わって、今まで張りつめていた視線が戸惑うように揺れる。


「何、も」

「だったら、ランのお墓参りがてら散歩行こうよ。おいしいパン屋さん見つけたんですよ。フランスパン買って、今日はシチューだ!」

「なら、花屋に寄っていこう」


 あっさり承諾が返ってきた。元より断られるとは思っていない。

 最近、帽子を目深にかぶった蓮とちょくちょく散歩をする。勿論、二葉と夜叉丸、霰と霙も一緒だ。住み慣れない街並みを探検がてら、あちこち寄り道する凛とはしゃぐ妖怪達に最初は鬱陶しがっていた蓮だったが、『あの花は錬が好きだった』『こういうパンを錬はよく選んでた』と挟まる錬情報を欲しがり、最近は自主的に散歩の用意を始めていて、凛が慌てて用意をするということもある。

 武田や丹羽には、この世の終わりかというほど驚かれた。いそいそ帽子を用意している蓮を見て『リードをくわえてくる犬みてぇだな!』と満面の笑顔で言い切った武田は、そろそろ両ほっぺにつけられた呪いの頬紅が薄れているといい。蓮の呪いは意外とお茶目だ。



 リハビリがてら、ゆっくり歩いて家を出る。杖はもう必要ない。少し引きずるものの、ギプスは早い段階から外している。脅威の回復力だと驚いていたお医者さんには言えない。八つ目爺から貰った物を利用して陰で色々としていただなんて。

 肩を少し越えた辺りまで短くなった髪は、不自由な腕でも洗いやすくて助かったけれど寝癖が付きやすくてちょっと面倒だ。まだ慣れない髪の長さに肩を竦め、黒のパーカーの中に着込んだ薄桃色に目を細める。錬を見れば、大きめのカーディガンの中に桜色のシャツを着ている。一色だけ、喪の中に色を混ぜるようになった。どうしても喪が明けない。それでも、一色だけ。最初は彼の好きだった色から始めることにした。凛も、蓮も、一緒に。


 道に出るや否や、霰と霙が駆け出す。注意しようと口を開く間もなく、同じタイミングで地面と仲良くなっていた。


「お凛――! 霰は転んだ!」

「お凛――! 霙は転んだ!」


 律儀に報告してくれた後、同じタイミングで大泣きしながら駆け戻り、凛の腹に体当たりでしがみつく。


「ふぐっ……!」


 なぜ凛限定かというと、蓮と夜叉丸はひらりと避けるからだ。避けると霰と霙はその勢いのまま再び地面に突っ伏すので、流石に躊躇っている間にいつも体当たりを受け入れる羽目になる。

 普通なら糸で庇ってくれるはずの二葉も、悪意なき無邪気な攻撃に躊躇っているのだろう。肩の上で、出しそびれた糸がしゅわしゅわ萎れていく。心なしか申し訳なさそうな瞳がうるうるしている。


「……うん、ありがとう二葉。愛してるよ」

「霰も! 霰もお凛アイスしてる!」

「霙も! 霙もお凛アイスしてる!」


 そして始まるアイスコール。

 犬と散歩中の上品な奥様が微笑ましそうな笑顔を向けてくれるが、凛としては、愛の言葉がただのアイスになった悲しみを切々と訴えたい気分である。

 泣いた子どもがもう笑った。転んだ痛みなんてもう忘れたのか、霰と霙はきゃっきゃと楽しそうに駆けていく。流石にそのスピードについていけるほど足が回復していない。


「夜叉丸」


 蓮は面倒くさそうに顎で二人を指した。


「やれ、学ばぬことでありんすなぁ。仕置きをかねて、少々頭から齧ってくれりゃんす」

「少々どころの騒ぎじゃありませんね」


 とんでもないことを言い置いて、夜叉丸の姿が煙に巻かれる。文字通り、煙の中に見えなくなったのだ。少し離れた場所から、子ども特有のきゃあ――! という甲高い悲鳴が届いたけれど、聞かなかったことにした。

 急に静かになった道程を、二人で黙々と歩く。沈黙は特に苦ではない。時々、前回はまだ咲いていなかった花に足を止めて、流れる雲の形を当てて、ゆっくりと季節を巡る。

 上ばかり見て、段差に気付かず躓いた。


「うわっと!」

「粗忽者」

「わあい、蘇るいらっと感!」


 懐かしささえ感じるけれど、別にいい思い出ではないので嬉しくはない。

 蓮は可愛くないことは言うものの、ちゃんと足を止めて待ってくれている。ただし、手を貸してくれたりはしない。段差があることも教えてくれない。そういう方法を、知らないからだ。


「へーへー、どうせ私は粗忽者ですよ」

「自覚があるようで何より」

「だから、転ばないよう手を繋ぎませんか?」


 無造作に手を差し出せば、蓮の全てが固まった。瞳は一点に固定され、思考どころか呼吸さえ止まっているように見える。

 凛は、蓮が動き出すまでひたすら待った。嫌ならいいよとも、どうする? とも口に出さない。知らないなら知ればいい。そうして育てばいいだけだ。そしてそれは、生きている人間が持ちえた権利である。

 やがて、一つの瞬き、肩が動くほど大きな、けれど細く長く吐かれた息で蓮は動き出した。錆びたからくりのような腕がぎこちなく持ち上がり、開かれた凛の掌の前で一度動きを止める。固定されていた視線が凛を向いたので、とりあえず笑っておいた。

 少し震える指先が凛に触れる。それを確認して、凛からその手を握り締めた。反射的に逃げそうになった手を引き、また笑う。


「行こう、蓮」

「う、ん」


 歩き方までぎこちなくなった蓮に歩調を合わせ、凛は今度こそ足元をしっかり確認して、一歩を踏み出した。

 全てを始めよう。ここから始めよう。

 二人で、初めてみよう。

 


 この広い世界、数え切れない人の中、彼を愛したのは二人だけ。

 同じ人を愛した、双りぼっちの私達。

 双りぼっちの絆を(よすが)に、一体どこまでいけるだろう。

 ちょっとそこまで明日まで。歩いて休んで生き抜いて。ずっと一生最後まで。


 辿りついたその先で、絆はきっと、世界で一番愛しい人の顔で笑ってくれると信じている。





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