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灰冠の大陸 ~滅びの王都と七百年の罪~  作者: 綾瀬 灯


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第2話「北門は開かない」

灰暦七〇〇年、霜月十七日。


王都ヴァルセインの夜は、まだ終わっていなかった。


夜明け前の空を煙が覆っている。


王宮の北塔は崩れ落ち、その周囲では火の粉が風に乗って舞っていた。遠くから聞こえるのは、鐘の音と怒号、そして時折響く剣戟の音だった。


アルト・レインは運河沿いの石段に腰を下ろし、濡れた手を見つめていた。指の間に黒ずんだ血が残っている。さきほどの兵士を助けたときについたものだ。


いや、助けたというのは正しくない。アルトは兵士の傷を押さえ、言われたことを聞いただけだった。あの男は何かを託し、何かを伝えようとしていた。そして、最後まで言葉を言い終えることなく命を落とした。


「灰冠を渡すな……王女を探せ」


アルトは小さく呟いた。


意味が分からない。灰冠とは何なのか、なぜ自分にそんなものを託すのか。そもそも王女を探せと言われても、アルトは王女の顔さえまともに知らなかった。


王宮で暮らす人間と、辺境の村で剣を振ってきた自分とでは、住む世界が違う。それなのにあの兵士は自分を選んだ。


なぜだ──答えはなかった。


アルトは上着の内側に手を入れた。布に包んだ金属片がそこにある。


手のひらほどの大きさもない。表面は黒ずみ、縁には細かな傷が走っている。兵士が握りしめていたせいか、片側には乾きかけた血が付着していた。


月明かりの下で見たとき、そこには文字のようなものが刻まれていた。しかし今は、何も読み取れない。刻まれた線は確かにある。だが目を凝らすほどに、それらは意味のない傷へと変わっていく。


「……何なんだよ、これ」


投げ捨ててしまいたかった。


こんなものを持っているから、兵士に追われる羽目になったのかもしれない。あの男に出会わなければ、今頃は宿に戻り、朝になったらリサの勤め先をもう一度訪ねていたはずだ。


リサ──


その名前を思い出した瞬間、アルトは顔を上げた。


そうだ。自分がここに来たのは、王女を探すためではない。リサを探すためだった。


半年前、村を出た幼なじみの彼女は、王都の商家で働くことになっていた。最初のうちは手紙を送ってきた。王都の市場がどれほど大きいか、見たこともない食べ物があること、仕立屋の店先に並ぶ衣服が、村の祭りで着る服とは比べものにならないこと。最後の手紙には、仕事にも慣れてきたと書かれていた。


それきり返事が来なくなった。アルトはその理由を確かめるために王都へ来たのだ。

ところが、リサの勤め先は閉まっていた。


王宮は燃え、王は殺され、街には黒鷲の旗が掲げられている。そして今、自分は死にかけた兵士から正体不明の金属片を託され、反乱軍に追われている。


「……リサを見つけたら、すぐに村へ帰る」


誰に聞かせるでもなく、アルトは言った。


自分に言い聞かせるためだった。これ以上、面倒事に関わるつもりはない。王族の争いも、貴族の陰謀も、古代帝国の遺物も、自分には関係がない。


そう考えながら立ち上がったとき、運河の向こうから馬の蹄の音が聞こえた。アルトは反射的に身を伏せた。


石橋の上を、騎兵が三人通り過ぎていく。全員が黒い外套をまとい、胸元には黒鷲の徽章を付けていた。先頭の男が手にしているのは、巻かれた羊皮紙だった。


「北門は封鎖だ。許可証のない者は通すな」


男の声が夜の街に響いた。


「南門と西門も同じだ。王都から出ようとする者は全員、身元を確認しろ。王党派の兵士、王女の関係者、そして王宮から持ち出された物品を所持している者は拘束する」


別の騎兵が尋ねた。


「一般市民はどうしますか」


「抵抗しなければ通せ。ただし、荷物は調べろ。王命に背く者を見逃したとあれば、こちらの首が飛ぶ」


「王命はもう存在しないでしょう」


一瞬、沈黙が落ちた。先頭の男が振り返る。


「だからこそ、新しい命令に従うんだ」


騎兵たちは橋の向こうへ消えていった。アルトはしばらく動かなかった。


北門へ行け──


あの兵士はそう言った。だが、北門は封鎖されている。それどころか、王宮から持ち出された物品を所持している者を拘束すると、はっきり告げられた。


アルトは上着の内側を押さえた。この金属片がそれに当たるのかは分からない。だが、確かめるために捕まってやるほど愚かではなかった。


北門へ向かう道は危険だ。それでも他に行き先があるわけでもない。


アルトは運河沿いを進み、石造りの建物が密集する地区へ入った。王都の北側には、古い水路が張り巡らされている。王宮が建てられるよりも前から存在すると言われる水路で、今では一部が下水道として使われていた。


村にいた頃、旅商人から聞いたことがある。北門の外へ流れる古い水路がある。水門は何十年もまともに整備されておらず、普段は人が通れる場所ではない。しかし、街の外へ出る道がすべて塞がれたとき、密輸商人が使うことがあるという。


本当かどうかは知らない。だが今は、他の手段を探すよりましだった。


やがてアルトは、半ば崩れた石壁の前にたどり着いた。水路の入口には錆びた鉄格子がはまっている。隙間からは濁った水が流れ出し、腐った臭いが漂っていた。


アルトは周囲を見回した。人影はない。剣の柄を握り、鉄格子に手をかける。


動かなかった。


「くそっ」


体重をかけても、格子はびくともしない。錆びついているのではない。内側から鎖で固定されているようだった。


アルトは剣を抜き、格子の隙間から差し込んだ。鎖に刃を引っかけようとしたが届かない。そのとき、背後で声がした。


「そんなところで何をしている」


アルトは振り返った。石壁の陰に老人が立っていた。


灰色の帽子を目深にかぶり、片手には小さなランタンを持っている。薄汚れた外套の裾は濡れ、腰には工具袋がぶら下がっていた。


「……何でもない」


「何でもない人間は、夜明け前に下水の入口をこじ開けようとはせん」


老人はアルトの剣を見た。


「兵士か」


「違う」


「なら、追われているのか」


アルトは答えなかった。


老人は短く息を吐いた。


「答えたくないならそれでいい。だがここはやめておけ。今夜、水路は使えん」


「なぜだ」


「水門を閉じたからだ。王宮の騒ぎが始まる前にな。大きな荷物を運び込む予定があるとかで、役人が急に命令してきた」


「何を運び込むんだ」


「知るか。知っていても、おまえに教える義理はない」


老人はランタンを掲げ、アルトの顔を照らした。


「その服は辺境のものだな。王都の人間ではない」


「そうだ」


「なら、忠告しておく。今夜は誰を信じてもいかん。黒鷲の兵士だけではない。王宮に忠誠を誓っていた連中も、今頃は自分の命を守るために仲間を売っている」


「……あんたはどっちなんだ」


「どっちでもない。水路を掃除して金をもらっているだけの老人だ」


老人は鉄格子に近づき、下部の石を指さした。


「向こうの角を曲がれ。古い排水溝がある。狭いが、人ひとりなら通れるかもしれん。ただし、北門の内側に出る。門の外へ出るには、そこから先を自分で考えろ」


「なぜ教える?」


「おまえがここで騒ぎを起こすと、私の仕事場まで調べられるからだ」


老人はそう言うと、ランタンを持って歩き出した。


アルトは一瞬ためらった。


見ず知らずの老人を信じていいのか。先ほどの言葉が脳裏をよぎる。


──誰を信じてもいかん。


だが他に手がない。


「待ってくれ」


老人は足を止めた。


「何だ」


「北門はいつまで封鎖される?」


「さあな。新しい支配者が何を恐れているかによる」


「何を恐れているんだ?」


老人は振り返り、薄い笑みを浮かべた。


「それを知っているなら、こんなところで下水掃除などしておらんよ」


彼は再び歩き出した。アルトはその背中を追った。


二人は建物の裏を抜け、崩れかけた階段を下りた。そこには、壁の一部が崩れてできた狭い穴があった。穴の向こうから、湿った風が吹き込んでくる。


「ここだ」


老人が言った。


「通り抜けた先に古い倉庫がある。その裏手が北門の内側だ。だが今は、兵士が巡回している。見つかれば、言い訳はできんぞ」


「分かった」


「分かっていない顔だな」


老人はアルトの目を見た。


「おまえは何かを探している。人か、物か、それとも答えか。どれにしても、今夜の王都では、探し物をする人間から先に死ぬ」


アルトは返事をしなかった。老人はそれ以上何も言わず、ランタンを消した。


「行け」


アルトは穴に身を滑り込ませた。石が肩に当たり、外套が引っかかる。狭い通路を這うように進むと、やがて前方にわずかな光が見えてきた。


出口だ。


アルトは這い出し、積み上げられた木箱の陰に身を隠した。そこは北門に近い倉庫街だった。


石畳の道を黒鷲の兵士たちが巡回している。門の上には、聖王国の黄金の鷲に代わり、黒い鷲の旗が掲げられていた。


門前には人々が集められていた。荷車を引く商人、子供を抱いた女、旅装の男たち。彼らは兵士に荷物を調べられ、身分を問いただされていた。


一人の商人が声を荒らげた。


「私はただ町を出たいだけだ! ここで商売を続けることなどできるものか!」


兵士が槍の柄で商人の腹を突いた。


「黙れ! 王都を出る理由を言え」


「理由だと? 王宮が燃えているからに決まっている!」


「王宮が燃えたのは、王が民を見捨てたからだ。新しい統治に従うなら、何も恐れることはない」


「王が民を見捨てた? 王はもう死んだのだろう!」


兵士は商人の胸ぐらをつかみ、地面へ引き倒した。


「王の死を侮辱するな」


その言葉にアルトは思わず眉をひそめた。


王を殺したのは誰なのか。王宮を焼いたのは誰なのか。それなのに兵士は、王の死を口にする者を殴っている。


正義という言葉は、口にする人間によって意味が変わるのだろうか。アルトは考えかけて、すぐに首を振った。今はそんなことを考えている場合ではない。


門の警備は厳重だった。荷物を持った人間はもちろん、身軽な者も一人ずつ顔を確認されている。強行突破は無理だ。別の出口を探すしかない。


そのとき、門前の兵士たちの会話が耳に入った。


「王女の捜索はどうなった?」


「まだ見つかっていない。王宮の地下通路を使ったという話もあるが、確証はない」


「王女が生きているなら、いずれ必ず現れる。公爵閣下は、王家の血を引く者を放置するつもりはない」


「捕らえた後は?」


「それをおまえが知る必要はない」


兵士たちは歩きながら声を低くした。アルトは木箱の陰で息を潜めた。


──王女。


あの兵士が探せと言った人物だ。黒鷲の軍勢は王女を探している。つまり、王女が見つかっていないことは確からしい。


しかし、なぜ自分まで王女を探さなければならないのか。金属片と王女に、何の関係があるというのだろう。アルトは懐の布包みを押さえた。


その瞬間、倉庫の反対側で物音がした。


「誰だ!?」


兵士の声が飛ぶ。アルトは顔を上げた。


一人の少年が、木箱の間を駆け抜けていた。十歳ほどだろうか。片手にパンを抱え、もう片方の手で破れた上着を押さえている。


兵士が追いかけた。


「止まれ! 盗人め!」


少年は足をもつれさせ、石畳に転んだ。パンが地面に転がる。


兵士が追いつき、少年の襟首をつかんだ。


「何を盗んだ!?」


「何も……」


「そのパンはどこから持ってきた!?」


「店の前に落ちていたんだ!」


「嘘をつくな!」


兵士が少年を殴ろうと腕を振り上げた。


アルトは動きかけた。だが足を止めた。


ここで飛び出せば自分も捕まる。金属片を持っていることが知られれば、ただの盗人として扱われるだけでは済まないかもしれない。


助けるべきか。逃げるべきか。迷っている間に、少年が兵士の手に噛みついた。


「痛っ!」


兵士が手を離す。少年は転がったパンを拾い、路地へ逃げ込んだ。


「待て!」


兵士が追いかける。アルトはその隙に、木箱の陰から抜け出した。


倉庫の壁に沿って進み、巡回兵の視線が届かない路地へ入る。やがて門前の喧騒が遠のき、細い道の先に古い荷馬車置き場が見えてきた。そこには、車輪の壊れた荷馬車が何台も放置されていた。


アルトはその陰に身を隠し、ようやく息を吐いた。


助かった。


だが、北門を通ることはできなかった。王都の外へ出るには、別の道を探さなければならない。


そのとき、遠くで鐘が鳴った。


今まで聞いていた警鐘とは違う。低く、ゆっくりとした鐘の音だった。


荷馬車置き場の入口から、二人の兵士が現れた。


「布告だ。聞き逃すなよ」


一人が羊皮紙を広げ、読み上げ始めた。


「聖王国エルディアの秩序回復にあたり、ローデリク・ヴァイン公爵閣下は、臨時統治評議会を設置する。王都における略奪、放火、反乱行為を厳しく取り締まり、民の安全を保障する」


兵士は一度、紙から目を離した。


「また、旧王宮に関係する者、王家に忠誠を誓う軍人、王宮の財産を持ち出した者は速やかに申し出ること。これに従わない場合は、反逆者として処罰する」


もう一人の兵士が付け加えた。


「王女セレスティア・エルディアは、王宮襲撃後に所在不明となっている。王女の居場所、逃走経路、または王宮から持ち出された品について情報を提供した者には、相応の報奨を与える」


アルトは思わず息を止めた。王女の名が初めて、はっきりと耳に入った。


セレスティア・エルディア。


その名を聞いても、彼の中に何かが結びつくわけではない。ただ、あの兵士の言葉が再び頭の中で響いた。


灰冠を渡すな。王女を探せ。


「……一体、何なんだよ」


アルトは小さく呟いた。


兵士たちが去るのを待ってから、荷馬車置き場を抜けた。


空の色がわずかに変わり始めていた。夜明けが近い。このまま王都に留まれば、いずれ身元を調べられる。村から来たばかりの若者など、誰も気に留めないかもしれない。だが、あの金属片を持っている以上、偶然の一つで命を落とす可能性がある。


まずは、リサの勤め先へ戻ろう。何か手がかりが残っているかもしれない。アルトはそう決め、商人街へ向かった。


昨夜訪ねた商家は、通りの奥にあった。看板は外され、窓には板が打ちつけられている。入口には封印の札が貼られ、扉の前には荷物が散乱していた。


アルトは扉を叩いた。


返事はない。


もう一度叩く。


やはり何も聞こえない。


「リサ、いるのか?」


自分でも、いるはずがないと思っていた。それでも声をかけずにはいられなかった。


アルトは店の周囲を調べた。裏手の扉は半開きになっていたが、中は荒らされ、棚は倒れ、帳簿らしき紙片が床に散らばっていた。人が争った跡なのか、急いで逃げ出した跡なのか、見分けがつかない。奥の部屋には、割れた陶器と血の付いた布が落ちていた。


アルトは足を止めた。


血は少量だった。誰かが怪我をしたのかもしれない。だが、それがリサのものだという証拠はない。


「……リサ」


呼びかけても返事はなかった。


彼女が王都を出たのか、どこかへ隠れたのか、それとも何者かに連れ去られたのか。何も分からない。


アルトは床に散らばった紙を拾い上げた。ほとんどは破れていたが、一枚だけ、文字が残っているものがあった


商家の取引記録らしい。日付は、霜月十六日。王宮が襲撃される前日だった。


そこには、見慣れない地名と数字が並んでいた。アルトには商取引の詳しいことは分からない。だが、紙の端に小さな印が押されているのが目に留まった。


円の中に、三本の線。その形を見た瞬間、懐の金属片が妙に気になった。


アルトは布包みを取り出した。金属片の表面に刻まれた線は、暗がりではただの傷にしか見えない。だが、紙の印と並べてみると、ほんの一部だけが似ていた。


偶然かもしれない。


そう考えた直後、店の外で足音がした。アルトは紙を懐にしまい、剣の柄に手をかけた。


「誰かいるのか」


男の声だった。


一人ではない。複数の足音が入口の前で止まる。


「ここだ。中を調べろ」


黒鷲の兵士だ。アルトは裏口へ走った。しかし、外にも兵士の姿が見えた。路地の両端を塞ぐように、数人が配置されている。


逃げ道がない。アルトは部屋の中を見回した。


倒れた棚、壊れた窓、奥へ続く狭い通路。窓から外へ出るには、板を外さなければならない。間に合わない。


扉が開いた。


「動くな!」


兵士が剣を抜き、部屋へ踏み込んでくる。


アルトは倒れた棚を蹴り飛ばした。木材が崩れ、兵士の足元を塞ぐ。その隙に奥の通路へ飛び込んだ。


背後から怒号が響く。


「追え! 逃がすな!」


アルトは暗い通路を走った。狭い階段を下り、積まれた木箱を飛び越える。通路の先には、壁の一部が崩れた小さな穴があった。外へ通じているかは分からない。


それでも進むしかなかった。穴を抜けた先は、商家の裏にある空き地だった。アルトは泥の上に転がり出た。


立ち上がったとき、すぐ近くに黒鷲の兵士がいた。目が合った兵士が剣を抜く。


「貴様、何者だ!」


アルトも剣を抜いた。剣を向けられるのは、これが初めてではない。


村では、山賊や野獣を相手に剣を振るったことがある。だが相手は兵士だ。訓練された人間を、まともに斬り合って倒せるとは思えない。


「答えろ!」


兵士が踏み込んだ。アルトは剣を受けた。金属音が響く。


腕に衝撃が走り、剣の柄が滑りそうになった。兵士の力は強い。技術も自分より上だ。


二撃目を受けきれず、アルトは後退した。兵士の剣先が肩をかすめる。布が裂け、熱い痛みが走った。アルトは歯を食いしばった。


勝てない。ならば、勝つ必要はない。


足元の泥を蹴り上げ、兵士の顔へ飛ばした。


「なっ!」


兵士が目を覆う。アルトはその横をすり抜け、空き地の塀を乗り越えた。背後から矢が飛んできたが、石壁に当たって弾けた。アルトは走り続けた。


路地を曲がり、荷車の下をくぐり、開いた門から別の通りへ飛び出す。やがて、追ってくる足音が聞こえなくなった。アルトは壁に手をつき、荒い息を吐いた。


肩から血が流れている。浅い傷だ。動ける。


それだけを確かめると、彼は上着の内側に手を入れた。金属片は残っていた。商家から拾った紙もある。リサの行方は分からない。王女も見つかっていない。


北門は封鎖され、王都では黒鷲の軍勢が人々を拘束している。そして、今や自分も追われる身になった。


アルトは空を見上げた。雲の切れ間から、朝日が差し込んでいた。


王都の屋根は赤く染まり、煙の向こうで王宮の残骸が黒い影を落としている。あの場所には、昨日まで王がいた。王女がいた。そして、多くの人間が、自分たちの暮らしは明日も続くと信じていたはずだ。


それが一夜で崩れた。だが、アルトにはまだ分からない。


王国が本当に滅びたのか。黒鷲の軍勢が、これから何をしようとしているのか。七百年前の歴史が、なぜ今になって動き始めたのか。


何一つ、分からない。ただ一つ確かなことがある。このままでは、リサを見つけられない。


アルトは剣を鞘に戻し、商家から拾った紙をもう一度広げた。


円の中に、三本の線。その印の下に、小さな文字が残っていた。


「北部旧街道・灰鐘の修道院」


アルトはその文字を見つめた。


──灰鐘の修道院。


聞いたことのない場所だった。だが、紙に記された日付は王宮襲撃の前日。そして、その印は、彼が持つ金属片に刻まれた模様と似ている。


偶然なのか。それとも、リサの失踪と王宮の事件は、どこかでつながっているのか。


アルトには判断できなかった。しばらく考えた末、紙を折りたたんだ。


今すぐ王都を出ることはできない。それならば、もう一つだけ確かめることがある。リサが最後に働いていた商家について、誰か知っている人間はいないだろうか。


アルトは人通りの少ない道を選び、商人街の外れへ歩き始めた。背後では、黒鷲の旗が朝風にはためいている。その旗の下で、新しい秩序が始まろうとしていた。


だが、秩序を作る者たちが何を隠し、何を恐れているのか、アルトはまだ知らない。


懐の金属片が、布越しに冷たく胸へ触れていた。そして王都の地下深くでは、誰にも知られぬまま、一つの古い扉が開かれようとしていた。

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