第1話「王の死ぬ夜」
最初に鐘が鳴ったとき、アルト・レインは、それが誰かの葬儀の始まりだと思った。
夜半を過ぎた王都では珍しいことではなかった。冬の寒さは貧しい者から命を奪い、疫病は貧民街の狭い路地を渡り歩く。死者を弔う鐘の音など、数えていれば眠れなくなる。
だが、二度目の鐘は違った。低く、長く、腹の底に響く音だった。
王城の北塔から黒い煙が立ち上っていた。
「……火事か?」
アルトは宿屋の窓から身を乗り出した。
王城は夜の闇に浮かぶ巨大な城壁だった。七つの塔が空を突き、尖塔の先には王国の紋章である金色の鷲が掲げられている。その北塔の窓から赤い光が漏れていた。
火の粉が夜空へ舞い上がる。続いて三度目の鐘が鳴った。
今度は、王都の別の場所からも鐘の音が重なった。教会の鐘ではない。軍の召集を告げる警鐘だった。
「おい、兄ちゃん。窓を閉めろ」
背後で宿屋の主人が言った。
「衛兵が道を封鎖してる。城門も閉めるらしい。厄介事に首を突っ込むなよ」
「何があったんです?」
「知るか。王様が死んだとか、貴族が反乱を起こしたとか、そんな噂だ」
主人は窓を閉めようとした。その手をアルトが押しとどめた。
「王様が死んだ?」
「噂だと言っただろう」
主人は苛立たしげに手を振り払った。
「王様が死のうが生きようが、明日のパンが安くなるわけじゃない。お前さんも田舎へ帰るなら、朝一番の馬車に乗るんだな」
アルトは返事をしなかった。
彼が王都へ来たのは三日前だった。故郷のレインフェルト村を出て、街道を南へ進み、ようやくたどり着いたこの都市で、幼なじみのリサを探していた。
リサは半年前、王都の商家に勤めると言って村を出た。手紙は最初の二か月だけ届いたが、その後パタりと途絶えていた。
心配になって訪ねてみれば、彼女が働いていたという商家はすでに閉鎖され、近所の者も行方を知らなかった。
アルトは、明日もう一度だけ手がかりを探すつもりだった。だが、王都の空に立ち上る煙を見ているうちに、胸の奥に嫌な予感が広がっていった。
何かが起きている。そして、今夜の出来事は、明日になれば元に戻るようなものではない。
「悪い、ちょっと出てくる」
「おい、聞いてなかったのか!」
主人の怒鳴り声を背に、アルトは階段を駆け下りた。
***
大通りへ出た瞬間、彼は異変の大きさを知った。
人々が城とは反対の方向へ走っていた。荷物を抱えた女が転び、誰かがその上を踏み越えていく。馬車が横転し、荷台からこぼれた小麦袋をめぐって男たちが殴り合っていた。
王城へ続く大通りには、王国軍の兵士たちが列を組んでいた。しかし、彼らの鎧に刻まれているのは、王家の金鷲ではなかった。
黒い鷲。
アルトは足を止めた。
王国軍の一部が、反乱を起こしたのか。兵士たちは通行人を追い立て、交差点に柵を築いていた。その後方を、黒い外套をまとった騎士たちが馬で駆け抜けていく。
「王命である! 夜間外出は禁止された! 抵抗する者は反逆者として処断する!」
拡声の魔術が、兵士の声を街区全体に響かせた。
「王命だと?」
近くにいた老人が吐き捨てた。
「王様は何をしておられる……こんなことをお許しになるはずがない」
その言葉が終わる前に、兵士の一人が老人を殴り倒した。
「黙れ、逆賊め!」
アルトの手が剣の柄にかかった。だが動けなかった。
相手は一人ではない。武装した兵士が十数人いる。ここで剣を抜けば、老人と自分の両方が殺される。アルトは歯を食いしばった。
老人は地面に倒れたまま動かなかった。
「行くぞ!」
誰かがアルトの腕をつかんだ。振り返ると、酒場で見かけたことのある荷運びの男だった。
「立ち止まるな! あいつら、見境なしだ!」
男に引きずられ、アルトは路地へ逃げ込んだ。
背後で悲鳴が上がった。続いて、剣が肉を断つ音がした。
アルトは目を閉じた。そして、再び目を開けた。今は逃げるしかない。それを自分に言い聞かせることが、彼にはひどく苦しかった。
***
路地を三つ曲がったところで、荷運びの男は別の道へ走っていった。アルトは一人になった。
周囲の家々は戸を閉ざし、窓には布が掛けられていた。どこかで犬が吠え、遠くから金属のぶつかる音が聞こえる。王城の方角では、火の手が広がっていた。
そのとき、壁際からかすかな声がした。
「……水を」
アルトは振り返った。倒れている男がいた。
王国軍の兵士だった。胸当ては割れ、左肩から血が流れている。年齢は三十歳ほどだろう。顔には泥と煤がこびりついていた。
「おい、聞こえるか」
アルトが膝をつくと、兵士は薄く目を開いた。
「水……」
「今はない。傷を見せろ」
アルトは外套を裂き、兵士の肩を強く縛った。血は止まりきらなかったが、少なくとも流れる量は減った。
「誰にやられた?」
兵士は答えず、アルトの手首をつかんだ。
「城へ……戻るな」
「何があった?」
「王が……」
兵士の唇が震えた。
「王が殺された」
アルトは息を止めた。
「やったのは誰だ?」
「黒鷲……近衛隊……いや、違う。あれは……」
兵士の目が路地の奥へ向いた。何かを見たようだった。その顔から血の気が引いていく。
「灰冠を……渡すな」
「灰冠?」
「王女を……探せ」
兵士は懐から小さな金属片を取り出した。それは紋章の一部だった。黒ずんだ金属に、見たことのない文字が刻まれている。鷲にも獅子にも似ていない、円を裂くような奇妙な形だった。
「これを……北の門へ……」
言葉はそこで途切れた。兵士の手から力が抜けた。
「おい?」
アルトは肩を揺すった。
「おい、しっかりしろ!」
返事はなかった。首筋に指を当てる。脈は、まだかすかに残っていた。アルトは兵士を背負おうとした。
その瞬間、路地の入口に光が差した。
「そこにいるのは誰だ」
兵士の声だった。一人ではない。複数の足音が近づいてくる。
「負傷兵を発見。生存者が一名」
「そいつも連れていけ。王城の命令だ」
アルトは兵士の身体を壁際へ押し込んだ。狭い路地の奥には、雨水を流す古い排水溝があった。人ひとりが通れるかどうかの隙間だ。
彼は金属片を握り締めた。なぜだか分からない。だが、これを渡してはいけないという予感があった。
「おい、そこにいるのは分かっている!」
兵士たちが路地へ踏み込んできた。アルトは排水溝へ身を滑り込ませた。
直後、剣が壁を叩いた。
「逃がすな!」
狭い穴の中で、アルトは泥水に顔を浸しながら前へ進んだ。頭上では足音が響いている。やがて、背後で何かが倒れる音がした。
負傷兵が見つかったのだろう。声が聞こえた。
「こいつは違う。もう死んでいる」
アルトは歯を食いしばった。助けられなかった。また一人、目の前で死んだ。
排水溝の出口へたどり着いたとき、彼はようやく息を吐いた。
***
出口は、王都の西側を流れる運河の近くにあった。夜明けにはまだ遠い。しかし、空は赤かった。
王城の北塔は崩れ、尖塔のひとつが炎の中へ落ちていった。城壁の上では、黒い旗が掲げられていた。金色の鷲はもう見えなかった。
王国軍の旗が降ろされ、黒鷲の旗が王城を覆っていく。その光景を見ながら、アルトは手の中の金属片を開いた。
刻まれていた文字は、知らない言語だった。それなのに、一瞬だけ読めた気がした。
灰の王。
彼は目をこすった。文字は再び意味を失い、ただの奇妙な傷のように見えた。
遠くで、誰かが叫んだ。
「国王陛下、崩御!」
続いて別の声が響く。
「王国軍は王都を掌握した! ローデリク公爵が臨時統治を宣言する!」
王都は静まり返った。誰も王の死を悼まなかった。誰も新しい支配者を祝福しなかった。人々はただ、明日の朝まで生き延びることを考えていた。
アルトは王城を見つめた。リサはどこにいるのだろう。王女は本当に逃げたのだろうか。そして、あの兵士が言った灰冠とは何なのか。
答えは何一つ分からなかった。分かっているのは、もう以前の王都には戻れないということだけだった。
アルトは剣を背負い直し、暗い運河沿いの道を歩き始めた。その手には、血と泥にまみれた金属片が握られていた。
王国が滅びた夜、彼はまだ知らなかった。自分が拾ったものが、七百年にわたって封じられてきた歴史の一部であることを。
そして、その歴史を明らかにするために、どれほど多くの人間が死ぬことになるのかを……。




