3-47
「ここから先が本館だ。人が少なかった別館と違い、ここから先はより危険が増すだろう。猫もドラゴンも静かに着いて来られるか?」
『ニャー!』
『キュッ』
クロとロゼの返事に、テオドール様は「良い子だ」と頷くと、足元のクロを抱き抱えた。私の首にはロゼが巻き付く。
「さぁ、行くぞ」
テオドール様の言葉を合図に、本館へと繋がる扉が開かれた。目の前に現れた階段に緊張しながら手摺りを捕まる。
すると、その直後頭上からズドーンッと大きな音と共に小石や砂が舞い落ちた。
「地響きが……。地上はどのようになっているのでしょう」
「皇帝が暴れ回っているようだな」
――つまり、この階段を登った先に皇帝がいる、ということだ。
一気に緊張が走る空気に、ゴクリと唾を飲み込む。
「ここで裏道は終わりだ。一度地上に出た後、次の隠し通路へと入る。……ここからが一番危険なエリアだろう」
小声でそう言ったテオドール様に、私は黙って頷いた。
階段を上り切った先にある扉をテオドール様が開いた瞬間、一気に視界が明るくなる。その眩しさに思わず目を細める。
――ここは本館のどこなのだろう。
徐々に目が明るさに慣れてくると共に、周囲を警戒しながら見渡す。その瞬間、私は目に映るもの全てに愕然とした。
今朝まで豪華絢爛の言葉が相応しかったこの城が、一時の間に悲惨な戦場へと変化していたのだから。
「助けて……誰か……」
「キャァアアアアア! 止めて……来ないで!」
「逃げろ! こっちにも火が回って来たぞ!」
「ここから先は行き止まりだ!」
「俺が先だ! 退けぇ!」
あちらこちらから人々の逃げ惑う足音や叫び声が聞こえる。
天井は所々抜け落ち、足元にはガラスや瓦礫が散らばる。空気は澱み、どこからか火が上がっているのか煙が肺に入ったことでゴホゴホと咳き込み、じんわりと涙が浮かぶ。
その時、テオドール様の大きな手が私の背を撫でる。小声で「大丈夫か」と心配そうに問う声に、私はハンカチを口に当てながら何度も縦に頷いた。
――まさか、こんなことになっているなんて。
「想像以上に大変なことになっているな」
テオドール様も同意見だったようだ。眉間に皺を寄せ、唇を噛み締めたテオドール様に私はハンカチを口から外した。
「あの、どうしてこのようなことに……」
「この惨状は皇帝によるものだろう」
「ですが、皇帝は残った皇族の元へ行ったのでは……」
――皇帝の兄弟たちはそれぞれ離宮を与えられている。であるなら、皇帝は本館から離れていると思っていたけど、どうなっているのだろう。
困惑しながら周囲を見渡した私は、近くの窓から見えた光景に目を見張った。
「どうした?」
「あれ……」
震える手で窓の先を指差した私に、テオドール様は目を細めながらそちらへと顔を向けた。
「空に浮かんでいるの……皇帝ですよね」
近くの窓枠を掴みながら私は窓から空を見上げた。すると、黒い大きな羽を広げ、禍々しい魔力で全身覆われた皇帝がそこにいた。
彼は両手に火の玉のようなものを出現させると、気分のまま狙いを定めずにそれを地面へと落としていく。落とされた先でその火の玉は爆発し、炎と煙が立ち上る。
「皇帝の目的が残った皇族たちを殺していくことには変わりはないだろう。その方法が、俺たちが想像もしなかったやり方だというだけで」
「まさか、皇帝は……皇城の敷地内にいる者全てを殺すつもりだというですか」
「おそらく。誰にも邪魔されない空から、城全体を破壊するつもりなのだろう」
あまりの恐ろしさに立ち眩みがする。額に手を添えて深呼吸をする私に、テオドール様の腕に抱かれたクロが心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「……最早、あいつを止められる者はいないだろう」
「そんな……」
「遅かれ早かれ、皇帝はこの国ごと破壊するつもりだ」
――今はまだ始祖の力が完全に手に入ったわけではないと言っていた。だが、その力を手に入れた皇帝は今以上に脅威になる。
窓の外では火の手から逃げ惑う人々が大勢見える。その中には、会話は最小限しかしたことがなくとも、私の世話をしてくれたメイドや見知った使用人たちもいる。
「だとしたら、この人たちは?」
――このまま、ここから逃げることも出来ずに、恐怖に怯えながら死を迎えるしかないの?
そんなのって……。
「……今は人のことを考えるな。自分が助かる道だけを考えるんだ」
「ですが……」
人々の叫び声がいやに大きく響く。誰かを探す声や助けを求める声、それに懸命に誰かを励まし助け出そうとする声。
この声に背を向けて、ここから去っても良いのだろうか。
――だって、皇帝をあの状態にしてしまったのは、この私なのに。
「私が……私のせいで」
床に足が張り付いて動かない。逃げることも助けを呼ぶ声の元へ駆け寄ることも出来ない。じわりと背中に汗が滲み、足は震え口の中が乾く。
目の前が暗く闇に沈み込むその瞬間、私をそこから引っ張り上げるかのように強い力が私の腕を掴んだ。
「しっかりしろ!」
ハッと顔を上げると、テオドール様の顔が目の前にあった。どこか怒ったように眉を寄せたテオドール様は、抱いていたクロを床へと下ろすと私の両肩に手を置いた。
「会いたい者がいるのだろう? あなたを待っている人が!」
その言葉に、胸がギュッと締め付けられる。
「……えぇ。会いたいです……」
――ルイ様に、会いたい。
絞り出した声は、まるで泣いているようだった。
「だったら、今は自分のことだけを考えろ」
テオドール様のその言葉に頷いて、ここからすぐに立ち去れたらどんなに良かっただろう。この城を出て、トラティア帝国から立ち去り、デュトワ国の……ルイ様の元に帰る。
ルイ様の温かい腕の中に飛び込んで行けたらどれだけ幸せだっただろう。
「……だけど、それは違う」
顔を上げて涙が溢れないように何とか堪える。
深呼吸をした後、再びテオドール様へと向き合う。テオドール様は私の表情に、何かに気付いたように目を見開いた。
「このまま皇帝を放っておいたら……どの道、デュトワ国にも危険が迫ります」
――今、このまま皇帝を野放しにしたところで、状況は悪化する一方だ。今よりも更に強大な力を手にする皇帝をどうしても放っておけない。
「私はルイ様の妃になるのですから、国を守らなくてどうするのです。それに、目の前で苦しむ人たちを見殺しにも出来ません」
私はそう言うと、首に巻きついていたロゼをそっと剥がし、クロの隣に下ろした。クロとロゼは二匹とも心配そうに私を見上げている。
そんな二匹に「大丈夫よ。少し離れるだけ」としゃがみながらそれぞれの頭を撫でて微笑んだ。そして、立ち上がるとテオドール様に頭を下げる。
「テオドール様はクロとロゼのことをお願いします。必ず後から追いつきますから……先に進んでいてください」
強がりでなく心からの微笑みを浮かべられただろうか。もし、この先会えなくなっても、私の最後の姿が笑顔で残りますように。そう願いながら。
私はもう一度彼らをゆっくりと視線を向けながら、意を決して踵を返して駆け出した。
「あっ、ラシェル様……待て! おい、ラシェル嬢!」
私の背に掛けられた声に、振り返る。
「テオドール様、ずっと約束を守ってくれてありがとうございます」
出来るだけ大きく、はっきりとした声でそう伝える。すると、テオドール様は私の方へと伸ばした手を力無く下ろした。
「もし、ルイ様に会えたら……伝えてください。次は、私が私の大切なものを守ると」
テオドール様へもう一度頭を下げると、私は振り返ることなくそのまま駆け出した。
一度でも立ち止まってしまえば、決心が揺らいでしまうかもしれない。
自分だけの温かい場所に帰りたくなってしまうかもしれない。そう思ったから。





