10:議論と誘惑
もう会うことのないはずだった恋人と、偶然会ってしまった時のような気持ちだった。
〝蛇を従える魔女――ラミア伝説Ⅱ〟。
しかしその本は、天井に近い棚に入っていた。
「どの本?」
黄色の紋章の男に問いかけられ、ロアは本を指さした。
「あの本です。蛇を従える魔女って書いてあるやつの、二が読みたいです」
「これだね」
黄色の紋章の男は、ロアと同じように本を指さす。
それから手首を返し、天井に向けた指先をこちらへ招くように曲げた。
擦れる音を立てて本棚から抜け出し、宙に浮いた本は、ゆっくりと落下してロアの手に落ちた。
――〝蛇を従える魔女――ラミア伝説Ⅱ〟
「ここにどうぞ」
「ありがとうございます」
ロアは黄色の紋章の男に誘導されて、一人がけのソファに腰かけて本を開いた。
蛇を従え、人を惑わし、国を乱した魔女、ラミア。
彼女について確かなことは、あまりにも少ない。
だからこそ、この遠い昔の魔女は、地方ごとに違う姿と役目を与えられてきたのかもしれない。
ある地では人の肉を喰う怪物、ある地では罪人を裁く魔女、ある地では森の境を守る者として語られている。
ラミアは、マーテルの地に底の見えない恐怖を与えた。
彼女を恐れた人間は、その恐怖に名を与え、裁きの形にした。
魔女裁判である。
最初に裁かれたのは、男を狂わせる美しい女たちだった。
常春の楽園・エリュシオンは、〝ラミア〟を探す者にとって、あまりにも都合のいい場所であった。
――『あの海の向こうに見える岩山の先には、〝常春の楽園・エリュシオン〟がある』。魔法で空を飛んだとき、シェルはそう言っていた。
――ラミアがいた時代から残る、〝常春の楽園・エリュシオン〟。一体、どんな場所なのだろう。
エリュシオンへの断罪が終わった後も噂は消えず、やがて、少しでも怪しい女は、みな〝ラミア〟と呼ばれるようになる。
体にあざがある者。生まれつき欠陥がある者。
当時の人々は、ラミアという存在が神のように掴みどころがなく、悪魔のように誰にでも宿ると信じていたのだ。
たったひとりの人間の女に、である。
記録の中の彼女は、いつも同じ顔をしていない。
時に淑女のように微笑み、聖女のように尽くし、遊女のようにすり寄る。
彼女は何者か。
彼女は、魔女である。
この世に確かに存在した、ひとりの女である。
もしかすると人間は、己の欲を、彼女という形にして――
「ねえ」
黄色の紋章の男の声に、ロアはふっと意識が浮上する感覚を覚えた。
彼は、階段のような背の高い台に体重を預け、ロアのすぐそばに立っていた。
「どうして、ラミアに興味を持ったの?」
黄色の紋章の男に問われたロアは、まだ本の世界に意識の半分を置き去りにしたまま口を開いた。
「ラミアの伝説は、地方によって違うって知ったからです」
「うん、いいね。好きだよ、そういうの。……だけど、人と話すときは、相手の目を見ようね」
確かにそうだ。
そう思ったロアが、手元の本から彼の方へと視線を移そうとした時だった。
彼はロアが座るソファの分厚い肘置きに腰かけて、ロアの頬に触れた。
「僕、上からの評判は悪くないんだ。少しくらいは、君に有利なことを言ってあげられるかもしれない」
まるで夜更けに、恋人をそっと誘うような声色だった。
彼の手にほんのりとした力がこもって、ロアの顔を誘う。
わざとらしくロアと目を合わせた彼は、甘く優しい顔で笑った。
「僕にしっぽふっておこうって、思わない?」
黄色の紋章をつけた目の前の案内係は、仕事中に、しかも手慣れた様子で、女を誘惑する男だった。
たったそれだけの事実と、膝の上のラミアと、それから将来を賭けた騎士採用試験が、ロアの頭の中で回り始める。
彼にしっぽを振るのは、メリットなんだろうか。
「考えてる。いいよ。ゆっくりで」
やり込める感じが一切ない、妙な余裕。
よく分からない人だ。
でもきっと、すごくモテるし、聞き上手でもあるのだろう。
「……私があなたにしっぽを振るメリットって、なんですかね」
「〝この子は優秀です〟って伝わって採用の可能性が上がる。これは君にとってのメリットじゃないの?」
「そうですけど、私、全然優秀じゃないし。優秀って報告されても困るというか……。頭で考えてもわからないです。紙とペン、貸してもらえませんか?」
「だめ」
黄色の紋章の男はロアの手にそっと触れ、それから体温が移る程度に力を込めた。
「今は、僕と話そう」
まるで好きにさせていた恋人に、〝でも今はこっちだよ〟と囁くみたいに。
この男がなにをしたいのかも、なんて答えたらいいのかも、わからない。
「どうして〝優秀な子です〟って報告されるのが嫌なの?」
「だからそれは、私が優秀じゃないから」
「僕は君を優秀だと思うよ。それじゃいけない?」
さらに難しい問に、ロアは眉間に皺を寄せてうなり声をあげた。
「……優秀の定義って、なんですかね?」
ロアがそう言うと、彼は息を漏らすように笑う。
それから、ロアの手を放して少し距離を取った。
「質問を変えようかな。僕から見た君はどうやら、自分に見合わない評価をもらうのが嫌みたいだ。どうかな?」
「……そうかもしれません」
「どうして、メリットがあるのに、見合わない評価をもらうのが嫌なの?」
「本当にそれでいいのかな? って思います。見合わないと思っているのに評価されるって、後々絶対に苦しくなるし」
「なるほど。君はずいぶん真面目で誠実な人なんだね」
「真面目で誠実……? 私が……?」
この人は見る目がない。そう思った。
真面目で誠実な人間は、怠惰な人生を送ったりしないからだ。
友人の死を前にして、やっと重い腰を上げるような人間を、真面目で誠実とは言わない。
「他人からの評価が自分自身の評価を上回ることを嫌う。これは真面目で誠実な証だ」
「……なるほど」
強い納得。
自分の中には、真面目で誠実な部分もあるのだという、大きな気付きだった。
「で、どうする? 僕に媚びでも売っておく?」
答えが出たのなら、この議論は終わりだ。
ロアは黄色の紋章の男を見た。
きっとこんな男性が本気でかかってきたら、ひとたまりもない。
彼は、今日、どこにでもいそうな女に、本気でしっぽを振らせたいわけではないのだろう。
ロアは本に視線を戻した。
「遠慮します。今は本を読みたいし」
「目の前の男より本優先?」
「だってもし採用試験に落ちたら、この本は二度と読めないかもしれない」
本の文字を視線でなぞるロアを、黄色の紋章の男はじっと見つめていた。
「あなたが本当に有利なことを言える立場なら、〝ロア・リーヴの好奇心に期待します〟って伝えてください」
ロアがそう言うと、黄色の紋章の男は傷ついた様子もなく、「そっかあ」と軽薄に言う。
そしてロアの側を離れた。
「伝えとくよ」
黄色の紋章の男はそう言うと、出窓に座ってクッションに背を預ける。そして、すぐそばにあった本を開いた。
細い窓から射す日が、彼の後ろから床へと落ちている。
時間の忘却を許された静けさが、二人きりの空間に流れていた。
「ラミアのなにが、君をそこまで引き込むの?」
「……うーん、なんだろう」
「ずっと思ってたけど、君は考えている顔がすごく綺麗だね」
また口説き文句だ。
そう思ったロアが視線をあげるより先に、彼は口を開いた。
「あれ、怒ってる?――」
黄色の紋章の男はそう言うと、ロアの向こう側を見た。
「――ルイス・ミレインくん」
ロアが振り返ると、そこにはルイスが立っていた。
「別に怒っていません」
ルイスはいつも通りの口調でそう言って、真っ直ぐに黄色の紋章の男を見ていた。
「ただ、どうして何度もロアの考えを止めるのかなと思っているだけです。議論がしたいんじゃないんですか?」
「それはね」
黄色の紋章の男はそう言うと、口角を上げた。
「僕が他人の人生に興味がない、傲慢な人間だからだよ」
黄色の紋章の男はそう言い切ると、ロアに視線を向けた。
「残念だけど、もうお別れの時間だ。面接会場はこの図書館だよ。ルイス・ミレインくんについて行くといい」
黄色の紋章の男がそう言うと、ロアの読みかけの本は、空気に触れる音を立てて閉じた。
そして元の位置に戻っていく。
「ありがとうございました」
ロアがそう言うと、黄色の紋章の男は出窓に腰を下ろしたまま、ひらひらと手を振った。
「またおいで」
ロアは頭を下げて、ルイスについて図書館の中を歩いた。
ルイスはなにも喋らない。
時を刻みつけるような沈黙が、少しだけ、痛かった。




