第六十三話 西壁
レインとマーガレットは、目に見えない激流に飲み込まれた。
上下も左右も分からないまま流され──次の瞬間、全身に衝撃が走る。
「ぐっ……!」
背中から壁に叩きつけられたレインは、そのまま冷たい床へ転がった。
レインは重いまぶたを開く。
まず目に入ったのは、すぐ近くで身を起こそうとしているマーガレットの姿だった。彼女も状況を飲み込めていないのか、眉をひそめて周囲を見回している。
レインは背中に痛みを感じつつ、肘をついてゆっくりと起き上がった。
(ここはどこだ?)
直前の記憶を辿ろうとするが、頭はぼんやりとしていた。
たしか、北壁の黄金の書棚の前にいたはずだ。
マーガレットは「書棚の奥に隠し部屋があるかもしれない」と言っていた。
そして二人で、カール陛下とマシュー館長を待ち伏せして──。
そこから先の記憶が曖昧だった。
辺りを見回すが、あの異様な存在感を放っていた黄金の書棚はどこにも見当たらない。
「……ここはどこ?」
思わず口から疑問が漏れる。
──その時だった。
「……グルルルルル……」
低く重たい唸り声が背後から響いた。
レインの背筋に寒気が走る。
恐る恐る振り返った。
そして息を呑む。
そこには、一頭の巨大な虎が立っていた──。
雪のように白い毛並み。鋭く光る黄金の瞳。
虎はじっと二人を見据えている。
獲物を観察する捕食者のような視線だった。
隣でマーガレットが小さく呟いた。
「……ここは西壁ね。白虎が目を覚ましている……」
(西壁……? 白虎……?)
彼女は今の状況を理解したのだろうか?
聞きたいことは山ほどあった。
だが、その疑問を口にする時間は与えられなかった。
次の瞬間──
白虎が天地を震わせるような咆哮を放った。
「────ッ!!」
空気が震える。
そして巨大な体が弾かれたように動いた。
一直線にこちらへ突進してくる。
レインは反射的に左へ飛び退いた。
同時に、マーガレットも腰の剣を抜き放ちながら右へ跳ぶ。
二人の間を裂くように、白虎は駆け抜けた。
そして数歩先で足を止め、ゆっくりと振り返る。
黄金色の瞳が、まっすぐレインを射抜いた。
その視線を受けた瞬間、背筋が凍りつく。
まるで全身の内側まで見透かされているような感覚だった。
白虎は静かに口を開いた。
だが、その口から発せられたのは獣の唸り声ではなかった。
「──動くな」
低く威圧的な女の声。
次の瞬間──。
レインの体が硬直した。
「……っ!?」
足が動かない。腕も動かない。
見えない鎖で全身を縛り上げられたかのようだ。
(な、何だこれ……!?)
呼吸が浅くなり、うまく声も出せない。
額を冷たい汗が伝った。
虎が人語を話したことも衝撃だったが、何よりも自分の体が動かないことが恐ろしかった。
白虎はそんなレインを見据えて言った。
「君には、色々と聞きたいことがある」
レインはごくりと唾を飲み込んだ。
何を聞かれるのか。なぜ自分なのか。
恐怖で心臓が激しく脈打つ。
「……」
レインは身構えて次の言葉を待ったが、白虎は黙っていた。
短くも長い沈黙の後、白虎は視線を逸らした。
「……お前のことは後回しだ」
そう言うと、白虎はマーガレットへ視線を移した。
レインは一瞬だけ安堵する。
しかし、金縛りは解けないままだった。
虎の声が冷たく響く。
「まずはお前だ、マーガレット。私を欺き、管理名簿を改ざんしたね……」
その言葉に、レインは目を見開いた。
(管理名簿──!?)
半月ほど前に起きた管理名簿の改ざん。
マーガレット自身が認めていたあの罪だ。
(白虎が、なぜそれを……?)
疑問は浮かんだ。
だが、その答えをゆっくり考える余裕はない。
マーガレットは剣を構えたまま、白虎を睨み返していた。
やがて静かに口を開いた。
「管理名簿の改ざんには大義がある……」
虎は即座に返す。
「いかなる理由があろうとも管理名簿の改ざんは許さない」
その声には一片の揺らぎもなかった。
レインは息を呑み、そして悟った。
両者の対話は決裂した──と。
それは実際、その通りだった。
もはや会話は生まれず、張り詰めた静寂が流れる。
次の瞬間──。
白虎が咆哮を放った。
空気が震え、白い巨体は弾丸のような勢いでマーガレットへ襲いかかった。
だが、彼女の反応も速かった。
剣を振りかざし、防御と反撃を兼ねた一閃を繰り出す。
その剣筋は迷いなく、迫り来る白虎の前足を捉えていた。
(入った──!)
レインにはそう見えた。
しかし。
次の瞬間。
──キィーン!
辺りに響いたのは、硬い金属にあたったような音だった。
レインは思わず目を見開く。
白虎の前足からは血の一滴も流れていなかった。
代わりに白い毛が数本、宙を舞う。
そして、その奥から覗いたものを見て、レインは息を呑んだ。
黄金色だった。
毛皮の下にあるはずの肉や骨ではない。
鈍く光を反射する硬質な黄金の塊。
まるで金属で作られた像のような胴体が露わになっていた。
(な……!?)
理解が追いつかない。
生き物の身体ではなかった。
少なくともレインの知る生き物ではない。
マーガレットも一瞬目を見開いた。
彼女が動揺したのは明らかだった。
白虎はその反応を楽しむように口元を歪めた。
「私の体を剣で切り裂くことはできないよ」
余裕に満ちた声だった。
マーガレットは奥歯を噛み締める。
「ならば、剣以外で──」
そう言うと、素早く剣を腰に戻した。
そして右手を高く掲げる。
その動きを見た瞬間、レインは気づいた。
(あれは──!)
見覚えがある所作だった。
彼女は眩い光を放つ、あの魔法を使うつもりだ……!
レインは反射的に腕で目を庇う。
次の瞬間には、強烈な光が周囲を包むはずだ。
だが──
何も起きなかった。
静寂が続いた。
レインは恐る恐る腕を下ろす。
マーガレットは右手を掲げたまま固まっている。
光は出ていない。一筋たりとも。
「……え?」
彼女は思わず声を漏らし、自身の手を見つめる。
そして再び腕を振り上げた。
何も起きない。
もう一度。
やはり何も起きない。
焦りを隠しきれない様子で何度も試みる。
それでも結果は同じだった。
白虎が静かに告げる。
「お前の魔法は玄武様によって封じられた」
その言葉に、マーガレットの動きが止まった。
「……!」
彼女の瞳が大きく見開かれる。
白虎は続けた。
「もはや魔法に頼っても無駄だ」
レインの胸がざわつく。
魔法が封じられた。
つまり──。
白虎は一歩前へ出た。
黄金の瞳が冷たく細められる。
「つまり、君に勝ち目はない」
静かな宣告だった。そして、その言葉には絶対的な確信が込められていた。
「管理名簿改ざんの罰を、大人しく受けるが良い」
そして再び白虎が地を蹴る。
巨大な白い影が、マーガレットへと襲いかかった。




