第六十二話 消されても残る問い
「このまま帰ることはできますか? 答えを保留したまま」
レインの問いに、玄武の口元がゆっくりと歪む。
「いかにも」
その目は細く笑っていた。
「……そんなの、ありなの?」
マーガレットが小声で呟くと、玄武は愉しげに喉を鳴らす。
「わしの言葉に二言はない。制限時間を設けぬ、と言った以上、いつまでも待つとしよう。じっくり時をかけ、真実を見つけなさい」
そこで、玄武は一度咳払いをして、わずかに声を落とした。
「……ただし、わしと会った記憶は消させてもらう。今ここでの会話は外に持ち出すものではない」
レインは眉をひそめた。
(それじゃ意味がない……)
ここでの記憶を失えば、「初代国王の真実の名を告げよ」という問いそのものが失われる。このまま帰ることができて、今後も文書館に出入りできるとしても、問いを失った状態では真実の探しようがなく、すべて振り出しに戻ってしまう。
そのとき、玄武が言葉を添えた。
「案ずるな」
いつの間にか、玄武の顔がレインの目前にあった。
「問いは、残す」
玄武の視線が、レインの手元に収められた第四十一巻に向けられる。
導かれるように、レインは空白の書をゆっくりと開いた。
──白紙。のはずだった。
だが次の瞬間、紙がじわりと熱を帯びた。
淡い光が滲み出し、ゆっくりと文字が浮かび上がる。
『初代国王の真実の名を探し当てよ。その時、扉は開く──』
レインは息を呑み、まじまじとその文字を見つめた。
夢の中にいるような感覚のまま、しかしその問いの重みがたしかに胸の奥へと沈んでいく。
(これは、解き明かしてはならない禁断の謎かもしれない……)
もしも、初代国王アルベルト・アステニアが偽名だとしたら、その奥にはきっと王国の根幹を揺るがす「何か」が隠されている……。
レインは思わず身震いした。
「この文字はな……」
玄武の声が静かに落ちる。
「君たちが本を手にした時のみ現れる。──好奇心旺盛な君ならば、いずれまたこの本に手をかけるだろう」
見透かすような眼差しだ。
「そして、再びこの問いにたどり着く。──この会話の記憶を失ってもなお」
沈黙が流れる。
レインは目を閉じ、ゆっくりと拳を握った。
(僕はこの問いから逃れられない)
いや──逃げる気はない。
知ることが、破滅に繋がるとしても。
それが、自分という人間だから。
「……分かりました」
顔を上げ、玄武をまっすぐに見据える。
「必ず答えを見つけて、ここに戻ってきます」
玄武は満足げに目を細めた。
「楽しみにしておる」
その顔がすっと後ろに引いていく。
──これで終わり。
そう思った、次の瞬間、空気が変わった。
玄武の笑みが消え、張り詰めた静寂が辺りを包む。
「……さて、君たちにはもう一つ用がある」
玄武が低く重い声で切り出した。
視線がマーガレットの方に向く。
「おぬし──管理名簿をいじったな」
その瞬間、マーガレットの表情が凍りついた。
「虎が怒っておるぞ」
(虎……?)
レインはその言葉の意味を理解できなかった。
だが、何となく嫌な予感がして、そっとマーガレットの方を見やる。
彼女は顔を強張らせ、口を固く結んでいた。
玄武は淡々とした声で続ける。
「わしは、この文書館で起きたことはすべて把握している。隠しても無駄だ」
それから玄武がちらりとレインを一瞥した。
「……君も仲間か?」
レインの背筋が冷える。
「いえ……違います」
かろうじて出た声はひどくかすれていた。
「ほう……。だが、随分仲が良さそうに見えるが」
玄武は鋭い目でこちらを睨んでいる。
先ほどまでの柔らかな気配は、欠片も残っていない。
(まずい……)
レインは必死で言葉を探した。
とにかく、自分とマーガレットを切り離さなければ。
「違います! 彼女は──」
喉が詰まりそうになるのを、無理やり押し出す。
「この宮殿で、陛下を暗殺しようとしたんですよ。僕は彼女とは無関係だ」
何とか言い切った。
だが、玄武の表情は微動だにしない。
「……そうか。あいにく、わしは文書館の外のことは関知しないし、興味もない」
淡々とした声は続く。
「わしの目に映った事実は別だ。……君たちは共に行動し、共に本に触れ、ここまで来た。それを無関係とは呼ばぬ」
首筋を冷や汗が伝った。
その時、張り詰めた空気を裂くように、マーガレットが口を開いた。
「……玄武。その言葉に二言はない、と言ったな」
彼女の鋭い視線が玄武のそれとぶつかる。
「このまま帰すと約束したはずだ」
わずかな間、沈黙が生まれた。
レインにはそれがやけに長く感じられた。
やがて玄武がおもむろに口を開いた。
「……無論だ。わしが直接、手を下すことはない。だが──」
その言葉が終わる寸前、レインとマーガレットの足が床から離れた。
“見えない水”が身体を満たし、いつの間にか二人の体は宙に浮いていた。
レインは水の感触を確かに肌で感じ取った。
視界が揺れる。息はできるし、苦しくもなかった。
ただこの水には抗えない、と直感した。
「君たちを虎の元へ送ろう」
玄武の声が水越しに響く。
「名簿は、あいつの管轄でな……」
静止していた水が動き始めた。
緩やかな流れが次第に力を増していく。
「後は──虎の機嫌次第だ」
その瞬間、流れが一気に濁流へと変わる。
「──っ!」
身体が持っていかれる。
レインは抵抗しようがなかった。
その時、目の端に捉えたマーガレットは手を振り上げていた。
それは、執務室から姿を消す直前に光を放った時の体勢と同じだ。
しかし、光は──出ない。
「無駄だ」
玄武の声が遠くなる。
「文書館で何度も同じ魔法を見せられれば、こちらだって対応できる」
それは冷たい断言だった。
「もはや、その力はここでは通用せぬ。おぬしが施していた魔法もすべて解いた」
マーガレットの目が見開かれた。
声にならない。
ただ濁流が、すべてを飲み込んでいく──。
レインの意識も、次第に遠のいていく。
そして最後に見えたのは、こちらを見下ろす玄武の目だった。
──笑っている。
だがそれは、嘲りではない。どこか見送る者の静かな笑み。
「また来るがよい」
その声が、水を震わせた──。
そしてレインの視界は暗転した。
次に目を開いた瞬間。
レインの身体は、西壁へと叩きつけられていた。




