序章【魔女の船出】
―16世紀末 ヨーロッパ とある港町―
「どこへ逃げた!?」
降りしきる豪雨の中、鎧を身に着け、槍を持った兵士らしき男が叫ぶ。本来ならばここは人通りの多い港町ではあるのだが、この大雨のせいか通りには人っ子一人見られない。兵士が辺りを見回していると、背後から黒いマントを羽織った別の男が現れた。
「見つかったかね?」
マントの男は低い声で兵士に尋ねた。兵士は一瞬ビクついたようにも見えたが、すぐに男の方に向き直ると姿勢を正し、速やかに報告する。
「申し訳ございません、司祭殿!あと一歩の所で取り逃がしてしまいました!」
司祭と呼ばれた男は少し残念そうな顔をするも、失態を犯した兵士を罰することもなく、穏やかな口調で命令する。
「あの母娘がこの港町に逃げ込んだのは間違いない。おそらく船で海外へ逃亡するつもりだろう。そうなればもう追跡することはできなくなる、急いで探し出してくれたまえ。」
「ハッ!!」
兵士は走って船着き場の方へと向かっていった。それを見届けた男は、怒りと憎しみの混じった様子で静かに呟いた。
「【魔女】め。貴様らは全員、皆殺しだ…!」
魔女とは、古来よりヨーロッパの歴史を裏で操ってきたとされている種族であった。不思議な術を用いて人の心を惑わし、政治・経済・戦争など様々な史実に関与してきたと言われている。
そんな魔女達を一人残らず駆逐するため、ヨーロッパ各地では魔女と疑わしき人物を次々と処刑する【魔女狩り】が行われていたのだった。
兵士が向かっている船着き場では、大きな古い帆船が今まさに出港の時を迎えようとしていた。この大雨の中船を出そうなど、正気の沙汰ではない。しかし、この船にはどうしても今すぐに出航しなければならない理由があったのだ。
「お母さん、みんな大丈夫かな?」
帆船の薄暗い船室の中で、見たところ10歳前後と思われる少女が自分を抱きしめている母親に向かって心配そうに声をかける。この大雨にさらされたのだろう、栗色の髪はぐっしょりと濡れて、寒そうに震えている。
「大丈夫、きっとみんな逃げられたはずよ。」
母親が元気づけるように言う。船室には母娘の他にも数人、マントにくるまって震えている者がいた。見た目にはほとんどが20~30歳ほどであろうが、その中に1人だけ50歳を過ぎていると思われる初老の人物がいる。母娘たちを含めたそれらの人物に共通しているのは、全員が女性である、ということであった。
と、突然船室の扉が開き、ガタイの良い船乗りの男が入ってくる。船乗りは初老の女性の前で膝をついて屈むと、小さな声で語りかけた。
「聖母よ、出港の準備が整いました。」
それを聞いた女性は顔を上げ、船乗りに指示をする。
「すぐに出しなさい。」
「仰せのままに。」
船乗りは先程自分が聖母と呼んだ女性に一礼すると、そそくさと部屋を出て行く。女性は少し安心したような表情になると、顔を落として静かに寝息をたて始めた。
数分も経たないうちに甲板の方からは男たちの大声が聞こえ始めた。おそらく出航のために帆を張ったり、錨を上げているのだろう。そうこうしている内に、それまで波に揺られてギシギシと音を立てていた船室が、より大きな音を立てて揺れ始める。船が出港したのだ。
船が動き出した後も、しばらくの間は船室にいる女性はいずれも皆黙ったままであったが、不意に母親に抱きしめられていた少女が不安そうに口を開いた。
「お母さん。これから私たち、どこに行くの?」
母親は少女の頭を撫でながら、穏やかな口調で答えた。
「サムライの国、日本よ…。」
船は大雨と風に揺さぶられながら、遥か遠くの島国、日本を目指して旅立っていった。