窮鼠“犬”を噛んだ結果
「いてぇ!!」
少女は伸ばされた毛むくじゃらの手に思いっきり噛み付いていた。犬が手を振り払い、驚いた職員たちは全員少女から手を離した。その衝撃で地面へ転がり痛みに一瞬息が詰まるが、すぐに起き上がると再び駆け出した。後ろから『待て!』という怒声が聞こえてくるものの、少女は後ろを振り返りもせずに木々の合間を縫うようにして走り続ける。
そして――……
「ヒッ……!?」
少女は一瞬無重力状態を感じ、世界がグンと上がっていくのを見た。
そしてすぐにそれは世界が上がっているのではないと気づき、下を見るまでもなく、自分が崖から落ちていっているのだと知る。傾いていく体。もうそれを止めることはできない。
「きゃぁあああぁぁぁああ!!」
全身に強烈な痛みを感じながら、少女は崖の下へと落ちていく。
後ろから追いかけてきていた犬達が荒い息を吐きながら崖の下を覗き込み、そしてお互いに顔を見合わせる。
「…………」
「…………」
目線だけで会話する。もうあれは生きてはいまいと。この崖は目がくらむほどの高さだ。
動物たちは人間よりもはるかに頑丈にできてはいるが、さすがに自分達がここから落ちれば大怪我をするだろうと思った。だから、自分達よりもはるかに弱い人間がここから落ちたらどうなるのかなんてことは、犬達にとって考えずともわかることだった。
「……目標、ロストということで」
「……ああ」
犬達はどこか居心地の悪い思いを感じながら、視線を崖の下に向ける。
そして互いに口にはしないものの、あの人間のことは黙っておこうと心に誓った。あの少女が本当に貴族の愛玩人間だったのだとしたら、自分たちの立場が危うくなる可能性があるからだ。
「こちら第壱管理区A班。目標、ロスト」
一匹の犬が無線でそう言えば、無線からは無機質な、しかし呆れたような応答が返ってくる。
無事に無線の向こう側の動物を騙せたことにわずかながら安堵しながら、犬達は車の方へと歩いて行った。
* * * * *
「う……」
少女は生きていた。
かろうじて生きているが、全身アザや血で汚れている。服は裂け、髪はボサボサになって草木がからみ、どこもかしこもすっかり泥で汚れていた。あちこち骨がきしみ、動くのはおろか息をするのも辛い。
特に肋骨と腕と足が非常に痛み、目をやれば腕と足は曲がってはいけない方向へ曲がっていた。
「……いっ……た……」
じわりと浮かんでくる涙を流れるままにして、少女は何とか上半身を起こす。
短い呼吸でなんとか酸素を吸い込みながら、ゆっくり自分が落ちてきたところを見上げる。
「木がクッションになったんだ……」
木が、ところどころ折れている。
きっとそれをクッションにしてなんとか生きていたのだろうと思い、少女は今更ながらに襲ってきた恐怖に身を縮めた。
「死ぬかと思った……」
ポツリと漏らせばとめどなく涙があふれてくる。
うっそうと生い茂る木々の中。
少女の鳴き声は深い森の中に響くことはなく、ただシンシンとどこかへ吸い込まれていくかのような不思議な静けさが広がっていた。
「誰かいるのか……?」
低い声が聞こえたのは、少女が再び痛む体を横たえようとしたときのことだった。
少女はビクリと体を震わせ、反射的に振り返る。ズキリと走った痛みに顔をしかめるのと同時に、濃い赤の軍服を着た白毛のライオンが視界に入る。
この国の王、レノであった。
「ッ!?」
息をするのを忘れるほど大きな獅子。
その大きさに、鋭い牙に、鋭い爪に、自分が引き裂かれるのを想像して息を飲み込む少女。
「人間……? まだ子供か。酷い怪我をしているな。どうした?」
よもや自分が怯えさせてるなど思いもしないレノは、ガサガサと木々を分けながら少女へ近づく。
しかし、顔を引きつらせていく少女を見て、ようやくレノはこの少女が自分を恐れているのだと気づいた。
「…………」
レノの胸がチクリと痛む。
「……わかった。これ以上、近づかない。だから動くな。なぜそんな怪我を負っているんだ? 飼い主はいるだろう? どこにいった――……と言っても、人間だから話せないか。困ったな。ん? 首輪が無いな……しかし服は着ている……捨てられたのか?」
レノは大きくため息をつく。
少女は一言でも話したら先ほどのように追い回されるかもしれないと思い、唇を噛み締めていつでも走り出せるように辺りを見回した。
それを見たレノは、少女が大怪我をしているにも関わらず逃げようとしているのだと察する。
「待て。動くなよ。とりあえず手当てをしよう。私はこの森に狩りをしに来ていたんだ。向こうにキャンプ地がある。そこに行けば救急箱があるぞ。わかるか?」
害はなさそうに思える。もしかしたら、本当に心配してくれているのかもしれない――少女はそう思い、少しだけ困った表情を浮かべる。
「…………」
「ほら、おいで。といっても、その足じゃ無理か」
レノは体をかがめると、少女と目線を合わせるようにして座り、にっこり微笑んだ。その口から見えた牙に少女が怯えると、慌てて口を閉じて「大丈夫だ。食べたりしない」と早口で言う。
「ここは夜になると冷え込む。そうしたら、人間はただでさえ弱いのに、怪我をしているお前ならすぐに死んでしまうだろうな。嫌だろう? ほら」
そっと怯えさせないように手を伸ばすレノ。
段々近づいてくるその手と、レノの優しそうな目を交互に見つめながら、少女はこの手なら安心して取っていいような気がした。
そしてそっと手を伸ばして、大きな肉球の上に自分の手を乗せる。思ったよりも固いそれは、少しだけ湿っていた。
「やあ……これは……何と言うか……随分と小さいな……」
レノは途端にとろけるような笑みを浮かべ、少女をゆっくり引き寄せる。少しだけ高くなった声は、少女を安心させるのに役だった。
そしてレノは少女の傷に障らないようにそっと抱きしめると、少女のこめかみの辺りに鼻を寄せて匂いを吸い込み、少女を抱えたままキャンプ地のほうへと歩き出した。
「どうしてこんなに怪我をしているんだろうな? お前の飼い主はどこへ行ったんだ」
「…………」
レノはそれからも少女が怯えないように話しかけ、時折クスクスと楽しげに笑っては尻尾をゆるく振った。
森は、相変わらず全ての音を飲み込んでいく。




